エドワード・ウィルソン (ジャーナリスト)

エドワード・ウィルソンEdward Wilson、1813年11月13日 - 1878年1月10日)[1]は、イギリス系オーストラリア人のジャーナリスト、および慈善家である。

エドワード・ウィルソン

家族

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リネン反物商人のジョン・ウィルソン(1774年-1834年)とメアリー・ウィルソン(1766年-1838年、旧姓:ジョーンズ)の3人いる子供のうちの2番目の子供であるエドワード・ウィルソンは、1813年11月13日にイングランドロンドン北部にあるカムデン区ハムステッドで生を受けた。生涯に渡って未婚であった。

教育

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ハムステッドにある「広大な私立学校」で教育を受けた彼の学友には、初代ビクトリア州首相ウィリアム・クラーク・ヘインズ(1810年-1866年)、ジ・アーガスの所有者であるジェームズ・スパワーズ(1813年-1879年)とアラン・スパワーズ(1815年-1876年)兄弟、芸術家・民族学者銀板写真家ダグラス・トーマス・キルバーン英語版(1813年-1871年)がいる[2]

卒業後、息子に「商売に携わって」ほしいと思った両親と共にマンチェスターにある商社に入り、その後はロンドンに戻って「マンチェスター・トレード(Manchester trade)」に参加した[2]

オーストラリア

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1842年、ウィルソンはオーストラリアに移住した。最初にメルボルンの北にある郊外で小規模な不動産会社を興したが、1844年にジェームズ・スチュワート・ジョンストン英語版と組んで、ビクトリア州ダンデノング近くで畜牛牧場を始めた。

ジ・アーガス

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1847年頃にウィリアム・カールからジ・アーガスを購入した彼はジ・パトリオット(The Patriot)をジ・アーガスと合併させ、5年後にはザ・デイリー・ニュース(The Daily News)という別の新聞社を吸収した。

ゴールドラッシュ英語版が起きた黎明期に新聞は重大な問題に直面しながら生産されていたが、発行部数は増え続け、新聞は価値ある財産となった。タスマニア州からの受刑者の流入を猛烈に反対したウィルソンはニューサウスウェールズ州からのポート・フィリップ地区英語版離脱のために奮闘し、炭坑労働者のためにチャールズ・ハザム英語版知事と意見を闘わせたものの、反乱が勃発した際には平穏で合法的な救済方法があるとの立場を示した。第8代ビクトリア州知事のチャールズ・ガヴァン・ダフィー英語版がビクトリア州に現れて政治活動に参入した際に、ウィルソンはアボリジニの正当性、州部局への農業の組織化、住民投票に向けての投票制度導入、および最終的な購買権を持つ耕作用の官有地賃貸契約化を盛り込んだ一覧を提出した[3]。彼はまず「土地を解放せよ」と訴えた。実際、彼は感情的には民主主義者、および熱心な改革者を貫いていた。ジ・アーガスの運営資金が増額されたことでウィルソンは失脚寸前となったが、ラクラン・マキノン英語版がジェームズ・ジルから共同経営の会社を購入し、管理を引き継いだことで救われた[1]

アンチポジーズ諸島での散策

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1857年と1858年にはオーストラリアとニュージーランドの植民地、およびイングランドを巡る旅に出た。そこは、所謂「オーバー・ランド」経由で白内障による視力の衰えについて医師に診察してもらった場所である。その上で彼はジ・アーガスに21回に渡る長期連載記事を書いたのである[4]。定期的(週に3件の記事が掲載されることもあった)に掲載された記事はのちにまとめられ、1859年に集合体(追加統計付録、および画家のサムエル・トーマス・ジル英語版による12枚の石版画付き)付録がついて『Rambles at the Antipodes(アンチポジーズ諸島での散策)』(1859年)として出版された[5]

順応

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1861年にメルボルンで順応協会(Acclimatization Society)を設立したことで順応にとても興味を抱いた。同じ年に初代会長としてシドニーを訪れ、ニューサウスウェールズ州順応協会(Acclimatization Society of New South Wales)を設立した。

イングランド

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最後には、1864年にイングランドのブロムリー地区ヘイズ英語版に落ち着き、300エーカーの耕作地があるヘイズ・プレス(Hayes Place)でイギリスの地方資産家としての生活を送った[6]。時折、ザ・タイムズ(The Times)やフォートナイトリー・レヴュー(Fortnightly Review)に寄稿した。プリンシパル・オブ・リプレセンテーション(Principles of Representation)からの記事は1866年に小冊子として出版された。順応についての別の論説は1875年に掲載された。

1878年1月10日にイングランドのケント州ヘイズで没した[2]。遺体は客船アコンカグアでオーストラリアに送還され、同年7月7日にメルボルン共同墓地英語版の「チャールズ・ハザム卿が埋葬された墓のすぐ向かい側にある墓」に埋葬された[7][8][9]

遺産

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遺産の大半はエドワード・ウィルソン・トラストの創設に使用され、ビクトリア州の慈善団体、具体的にはメルボルン病院、アルフレッド病院、およびビクトリア州立小児病院にそれぞれ数百万ドルが分配されている。

業績

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参考文献

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  • Anon (1878), "Death of Mr. Edward Wilson", The Argus, (Monday, 14 January 1878), p.5.
  • Mennell, Philip [in 英語] (1892). "Wilson, Edward" . The Dictionary of Australasian Biography (英語). London: Hutchinson & Co. ウィキソースより。
  • Turner, H.G. (1911), "Edward Wilson", The Argus, (Saturday, 30 December 1911), p.4.
  • Serle, Percival [in 英語] (1949). "Wilson, Edward". Dictionary of Australian Biography (英語). Sydney: Angus & Robertson.

脚注

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  1. ^ a b Serle, Geoffrey. "Wilson, Edward (1813–1878)". Australian Dictionary of Biography (英語). Canberra: Australian National University. 2013年11月3日閲覧
  2. ^ a b c Anon (1878).
  3. ^ Wilson did not mince his words:
    "This country has been shamelessly stolen from the blacks. . . . In less than 20 years, we have nearly swept them off the face of the earth. We have shot them down like dogs . . . and consigned whole tribes to the agonies of an excruciating death. We have made them drunkards and infected them with disease, which has rotted the bones of their adults, and made few children as exist amongst them a sorrow and a torture from their very instant of birth. We have made them outcasts on their own land, and are rapidly consigning them to entire annihilation." (Wilson, 1856a).
  4. ^ The first was published in August 1857 (Wilson, 1857a), and the last in October 1858 (Wilson, 1858k).
  5. ^ With (Wilson, 1857a,b,c) forming the first chapter, (Wilson, 1857d,e,f,g,h,i) the second chapter, (Wilson, 1858a,b.c,d,e) the third chapter, and (Wilson, 1858f,g,h,i,j.k) the fourth and last chapter.
  6. ^ 1871 England census; RG10 875 folio 50
  7. ^ (General News Items), The Argus, (Monday, 8 July 1878), p.5.
  8. ^ See photograph of Wilson's grave at: Edward Wilson, at Find a Grave.
  9. ^ See photograph of Hotham's grave at: Sir Charles Hotham, at Find a Grave.
  10. ^ "No.IV" was not published within the pages of the regular Argus, with those published jumping from "No.III" (14 June) to "No.V" (18 June). Given the accurate "verbatim/reprint" nature of the contents of Rambles at the Antipodes, the inescapable conclusion is that the missing article was published at page one of a (currently un-digitized by TROVE) Supplement to The Argus on 15, 16, or 17 June [1] ― as were each of 1858f, 1858g, 1858h, 1858j, and 1858k in the October of that same year ― and that the text of the missing article was identical to that which was later published in the aggregate volume (i.e., Wilson, 1859, pp.92-102).