エルピディオ・キリノ
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エルピディオ・キリノ(タガログ語: Elpidio Rivera Quirino、1890年11月16日 - 1956年2月29日)は、フィリピン共和国の政治家。1948年から1953年まで、同国の第6代大統領を務めた。
エルピディオ・キリノ Elpidio Rivera Quirino | |
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任期 | 1948年4月18日 – 1953年12月30日 |
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副大統領 | フェルナンド・ロペス(1949-1953年) |
任期 | 1946年5月28日 – 1948年4月17日 |
任期 | 1946年9月16日 – 1948年4月17日 |
出生 | 1890年11月16日 イロコス・スル州ビガン |
死去 | 1956年2月29日(65歳没) ケソン |
政党 | 自由党 |
大統領就任まで編集
1890年、ルソン島北西部にあるイロコス・スル州ビガンで生まれ、少年時代をラ・ウニョン州のアリンガイで過ごした。キリノはビガンの高校を卒業するとマニラに上京し、土地局やマニラ警察で働いた。1911年にマニラ高校を卒業し、公務員試験に合格した。
フィリピン大学に進学したキリノは1915年に法学部を卒業、後に法曹界入りした。その後、1919年に下院議員に選出されるまで弁護士として従事した。1925年に下院議員から上院議員に転じ、1931年まで上院議員を務めた。その間、財務大臣や内務大臣を歴任した。
1934年、キリノは、タイディングス・マクダフィー法がアメリカ合衆国議会で可決されることを目指したマニュエル・ケソン率いるフィリピン独立使節団の一員としてワシントンを訪問した。同法は成立し、1945年までにフィリピンを独立させるものと定めたが、フィリピンが正式に独立宣言を行ったのは1946年7月4日であった。
第二次世界大戦中のマニラの戦いにおいて、妻のアリシアと5人の子のうち次男・長女・三女の3人が日本兵に殺害されたと言われる[1][2]。
戦後、キリノは公職での活動を続け、上院仮議長を務めた。1946年、キリノは独立後初の副大統領に選ばれた。マニュエル・ロハス大統領の下で、国務長官も兼任した。
第6代大統領編集
1948年、マニュエル・ロハスが現職大統領のまま亡くなったため、キリノは2日後の4月17日に大統領に就任した。翌年行われた選挙で、キリノは自由党の候補者として大統領選挙に出馬し、国民党のホセ・ラウレルを破って当選を果たした。前述のとおりキリノは既に妻を亡くしていたため、娘のビクトリアがファーストレディとしての役割を担った。
キリノ政権が直面していた問題の一つに、当時活動が活発化していたフクバラハップがあった。元々ルソン島の抗日ゲリラであったフクバラハップは、共産主義者がリーダーシップを着実に握りつつあった。また1948年、フクバラハップ指導者のルイス・タルクと政府との交渉が決裂した際、タルクは自身が共産主義者であることを公にすると共に、政府打倒を訴えていた。
キリノ政権の6年間には、めざましい戦後復興、経済的利益、アメリカからの経済的支援の増加といった成果を挙げることができる。しかし一方で、特に農村部では富裕地主による農地の寡占という基本的な社会問題が未解決のまま残され、さらに内閣の多くが汚職や収賄によって腐敗してしまった。
1950年、キリノ政権は朝鮮戦争に参戦し、7,450人あまりのフィリピン軍兵士をフィリピン遠征軍(PEFTOK)として朝鮮半島に送った。
晩年編集
1953年7月、いまだ反日感情の根強い中、日本人戦争犯罪者105人に恩赦令を出し、日本への帰国を許した。1953年、キリノは病気を押してフィリピン大統領選挙に出馬。再選を狙ったがラモン・マグサイサイに大差で敗れ、その後は政界を退き、ケソンで暮らした。1956年2月29日に心臓発作で死去した。