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地理編集

自動車で、ニームから約35km、モンペリエから約30kmの距離にある。

エーグ=モルトは、標高の低い湿地と、カマルグの一部である池からなる。隣接するコミューン、ル・グロ=デュ=ロワによってリオン湾から隔てられている。

由来編集

エーグ=モルトとは、町の周囲に伸びる沼地と池にちなんでいる。1248年には、『死んだ水』を意味する名で、ラテン語でAquae Mortuae、オック語でAigas Mòrtasと呼ばれていた。この言葉から、エーグ=モルトの水は淀んでいて、「生きた水」がなかったことがわかる。

歴史編集

 
コンスタンス塔
 
運河
 
1942年に撮影されたエーグ=モルト
 
城壁外に広がる塩田

ローマ人の人名Pecciusが変化し、この地にある塩水の湿地はペッカイス湿地(marais du Peccais)と呼ばれていた。

791年、カール大帝が湿地の中間に、漁夫や製塩の作業者の安全のためマタフェル塔を建てた。この塔の建設は、艦隊の来訪時に警告を発してニームにあるマーニュ塔へ知らせるなど、信号による情報伝達網の構築にも関連すると指摘されている。この円形の塔は後にカール大帝がベネディクト会へ寄進した。彼らは聖務につき、日夜問わず絶え間なく賛美歌を歌った。これにより修道院の名はプサルモディ(賛美歌集)と名づけられた。

当時の住民は、アシで作った小屋に住み、漁業、狩猟、海に面した塩水の湿地で作る塩で生計を立てていた。この地域一帯はプサルモディ修道院の修道士たちが治めていた。

1240年、ルイ9世はこの地を彼の王国の戦略上の要所に定めた。当時、マルセイユは彼の弟シャルル・ダンジューの領土であり、アグドトゥールーズ伯領、モンペリエはアラゴン王国領であった。ルイ9世は地中海へ直接行き来できる場所を求めたのである。王は自らの財産と引き換えに、修道士たちから町とその周辺を買い上げた。これにより人々は塩税が無税となった。ルイ9世は湿地の中に道を建設し、監視用と都市の往来保護の目的でカルボニエール塔を建てた。兵舎にするためコンスタンス塔を建てた。1272年、フィリップ3世は小さな町を完全に覆い隠す城壁の建設を命じた。城壁が完成したのは30年あまり後のことだった。

ルイ9世は、エーグ=モルトから2度、聖地へ向けて出発した。1248年の第7回十字軍、1270年の第8回十字軍である。ルイ9世は第8回十字軍でチュニスに到着し、黒死病で没したことになっているが、実際の死因は赤痢であった。

フランス革命期、町の名はポール=ペレティエ(Port-Pelletier)と改名された。

経済編集

  • ワイン生産およびアスパラガス栽培
  • カマルグ馬とウシの飼育。事実上湿地で放し飼いされている。エーグ=モルトのウシはスペインの闘牛用ウシより小さく、ずんぐりしており、角は尖っている。
  • 製塩業
  • 13世紀から14世紀にかけてつくられた中世の城郭、海にひきつけられて多くの観光客や短期滞在者がやってくる。

交通編集

  • 水路 - ローヌ・ア・セット運河。都市の南北と西をつなぐ。
  • 鉄道 - ニーム-ル・グロ・デュ・ロワ線
  • 道路 - A9、D-58、D-62、D-979