メインメニューを開く

生涯編集

マル・ハトゥンとの結婚編集

伝説によれば、若い頃、オスマンは長老(シェイク)エデバリ (en[# 1]の娘マル・ハトゥン (enに恋をしたが、貧しいオスマンは相手にされない可能性があった。そのため、オスマンは手柄を挙げるために、キルメンジク城の城主でギリシャ人のケセ・ミカルを捕えたが、オスマンとミカルは意気投合、友人となった[1]

ある時、オスマンは夢を見た。月[# 2]が長老の胸から昇り、その月がオスマンの胸へ沈んだ。すると、その月が沈んだオスマンの胸から大きな樹木[# 3]が生えて天を覆いつくし、その根はチグリスユーフラテスナイルドナウのそれぞれの河川を形成した。

そして、風が吹きだすと剣の形をしたその樹木の葉がコンスタンティノープルの方角を指したという夢であった。オスマンはエデバリにこの話をするとエデバリはこれはオスマンが世界制覇をするという予言であると夢解きを行ない、娘マル・ハトゥンをオスマンの妻としたという[1]

領土の拡大編集

1281年、父・エルトゥールルの死後、後を継いだオスマンはトルクメン系遊牧民やムスリム農民で形成されたガーズィー (enを率いていた。父[# 4]の代に小アジアに小国家の基盤は築かれていた。

オスマンはビザンツ帝国の手が及ばない辺境地域を支配し、略奪を行い、時には近隣の町のアヒー・グループ[# 5]と手を結んだりしていた[1]。これらの同盟などの結果、オスマンはカラジャヒサル城を中心に勢力を築き上げ、モンゴルの攻撃から逃れてきたトルコ系の戦士や宗教指導者、ビザンツ帝国の援助が途絶えたキリスト教系の戦士(アクリトイ) (enらがオスマンの下へ集まった[2]

1290年代に入るとオスマンは辺境の城8箇所とトルコ人らの町エスクシェヒルを占領した。

ルーム・セルジューク朝からの独立と死編集

 
ブルサにあるオスマン1世の墓

1299年、カラ・スーの河谷を占領したのち、イェニシェヒルを占領した。ここで首都となるべき町を手に入れたオスマンはルーム・セルジューク朝から独立を宣言してオスマン帝国を築き上げたのである。

1301年、オスマン1世は領土拡大のためビザンツ帝国との戦い、コユンヒサルの戦いでこれを破り、帝国の基礎と次代の繁栄を築き上げた[2]

1326年ブルサへ進撃したオスマンはブルサ包囲戦 (enの陣中で、69歳で死去し、後を子のオルハンが継いだ。

評価編集

武勇と決断力に富み、国民からの人望も厚かった名君として高く評価されている。

脚注編集

[ヘルプ]

注釈編集

  1. ^ アヒー・グループの指導者であったと考えられており、アヒー・エデバリとも呼ばれていたとされる[1]
  2. ^ マルカトゥンを表している[1]
  3. ^ 古代トルコの聖なるしるしを表している[1]
  4. ^ ニコルによれば父ではない可能性も有り得るとしている[1]
  5. ^ 正式名はアヒー・アル・フィトヤーンで青年同胞団の意味。初期には宗教色が強かったが、後に同業者組合と化す[1]

参照編集

参考文献編集

  • デヴィッド・ニコルPhD著、アンガス・マックブライド色彩画、桂令夫訳『オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズオスマン・トルコの軍隊1300-1774大帝国の興亡』新紀元社、2001年。ISBN 4-88317-850-1

関連項目編集