オラメル・ギューリック
オラメル・ヒンクリ・ギューリック(Orramel Hinckley Gulick、1830年10月7日 - 1923年9月18日)は、明治時代の日本で活躍した、アメリカン・ボードのアメリカ人宣教師。O・H・ギューリック,O.H.ギュリキとも表記される。実弟J・T・ギューリックを初め、一族は宣教師を多数輩出している。
オラメル・ヒンクリ・ギューリック Orramel Hinckley Gulick | |
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O・H・ギューリック宣教師の肖像 | |
生誕 |
1830年10月7日 ハワイ王国、ホノルル |
死没 |
1923年9月18日(92歳没) アメリカ合衆国ハワイ |
出身校 | オアフ大学 |
職業 | 宣教師、同志社英学校神学教師 |
著名な実績 | 彦根教会(現・日本基督教団彦根教会)設立、七一雑報の創刊、ハワイの日系人伝道 |
宗教 |
キリスト教(アメリカン・ボード(会衆派) ハワイアン・ボード) |
配偶者 | アン・エリーザ・クラーク(1855年結婚) |
生涯
編集ハワイ王国ホノルルで生まれる。オアフ大学を卒業し、1855年にアン・エリーザ・クラークと結婚する。
1871年(明治4年)妻と共に来日する。1872年に京都博覧会に行き、京都で伝道しようとするが、挫折して神戸に移る。
1875年(明治8年)神戸で、村上俊吉、今村謙吉、前田泰一らと共に、日本初のキリスト教系新聞の七一雑報を創刊する。1883年まで神戸で文書伝道を行う。
1879年(明治12年)彦根で集会を行い、彦根教会の設立に関わる。[1]
1883年(明治16年)新潟で伝道していたスコットランド一致長老教会(エディンバラ医療宣教会)の宣教医T・A・パームがイギリスに帰国したので、アメリカン・ボードが伝道を引継ぎ、ギューリックとR・H・デイヴィスが派遣される。ギューリックは沢山保羅にパーム病院に入院しながらの伝道を依頼する。その後、ギューリックはアメリカン・ボードに派遣され岡山、熊本で伝道する。
1892年(明治25年)に日本を離れ、ハワイに戻る。ハワイアン・ボードの一員としてハワイの日系人伝道に尽くす。
1923年ハワイで没する。
家系図
編集Peter Johnson Gulick (1796–1877) | Fanny Hinckley Thomas (1798–1883) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
Luther Halsey Gulick Sr. (1828–1891) | オラメル・ヒンクリ・ギューリック Orramel Hinckley Gulick (1830–1923) | ジョン・トーマス・ギューリック John Thomas Gulick (1832–1923) | William Hooker Gulick (1835–1922) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
Theodore Weld Gulick (1837–1924) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アディソン・ギューリック Addison Gulick (1882-1967) | Thomas Lafron Gulick (1839–1904) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
Sarah Frances Gulick (1854–1937) | シドニー・ギューリック Sidney Gulick (1860–1945) | Luther Gulick (1865–1918) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
ルーサー・ギューリック Luther Halsey Gulick (1892–1993) | Sidney Lewis Gulick Jr. (1902–1988) | Frances Jewett Gulick (1891–1936) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
Denny Gulick | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
編集- ^ 高橋2003年,118頁