オーボエ協奏曲 (リヒャルト・シュトラウス)
オーボエ協奏曲ニ長調(Konzert D-dur für Oboe und kleines Orchester)AV.144は、リヒャルト・シュトラウスが作曲したオーボエ協奏曲である。晩年に作曲した管楽器のための協奏曲の一つである。
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概要編集
第二次世界大戦終戦直後の1945年に、スイスのチューリッヒ近郊で作曲された協奏曲である。この頃シュトラウスはバイエルン、ガルミッシュ=パルテンキルヒェンの山荘に滞在していたが、そこへアメリカ軍に従軍していたオーボエ奏者のジョン・デ・ランシー[1]が慰問に訪れた。デ・ランシーは「あなたの作品にはオーボエの素晴らしいソロが多く出てきますが、そのオーボエのための協奏曲を書くつもりはないのですか?」と問いかけたが、シュトラウスは「特にありません」と返答した。デ・ランシーが引き上げてしばらくした後、シュトラウスは気が変わり、同年の秋から移住したスイスでオーボエ協奏曲の作曲を始めた。ただシュトラウスはデ・ランシーの名前を正しく憶えておらず、「ピッツバーグ」も「シカゴ」と誤記している。
初演は翌1946年2月26日にチューリヒで、マルセル・サイエのオーボエ独奏、フォルクマール・アンドレーエの指揮、チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団によって行われた。シュトラウスが独奏者に希望したデ・ランシーは曲の完成すら知らないまま既に除隊・帰国しており、後に行われたアメリカ初演でも、在籍していた楽団の都合で結局吹くことができなかった。その頃ピッツバーグ交響楽団の第1奏者からフィラデルフィア管弦楽団の第2奏者(第1は師であるマルセル・タビュトー)に移籍したばかりで、当時の演奏家ユニオンの規定では、第2奏者は所属する楽団と協奏曲を演奏することは出来なかったのである。後にタビュトー引退後にデ・ランシーが第1奏者になってから1964年に1度だけ演奏しており(指揮はユージン・オーマンディ)、さらに晩年には指揮者なしの臨時編成オーケストラと録音している。なお、アメリカ初演を担当したのは、後にポピュラー界で有名になるミッチ・ミラー(本名ミッチェル・ミラーで)だった。
作曲者はフランス式(世界的に一般的なコンセルヴァトワール型)の楽器を想定しているが、ウィーン式の楽器では1948年12月18日から20日に、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会でハンス・カメシュが最初に演奏している(指揮はヴィルヘルム・フルトヴェングラー)。
日本では戦後、曲の紹介が遅れ、ピアノ伴奏では頻繁に演奏されたものの、オーケストラ伴奏の完全な形での演奏は1962年に読売日本交響楽団第3回定期演奏会で、オットー・ヴィンターの独奏、近衛秀麿の指揮によるものが最初であった。
1948年にブージー&ホークス社から楽譜が出版された際、シュトラウスは全曲の終結部分を少し長めに書き足し、現在はその改訂版で演奏されることが一般的である。なお、2013年現在で入手可能な録音のうち、SPレコード復刻のレオン・グーセンスによるものと、デ・ランシーが晩年に録音したものだけが、オリジナルの短い終結部を使っている。その後、2016年録音、2019年発売のアルブレヒト・マイヤー(バンベルクにて録音)も短いバージョンとなっている。
楽器編成編集
構成編集
3楽章からなるが、全曲は続けて演奏される。また4楽章とされることもある。演奏時間は約23分。
この当時シュトラウスは、モーツァルトを勉強し直していたと言われ、その影響からか古典的で瑞々しい作風の協奏曲となっている。
近年の研究によれば、シュトラウスは戦時中の困難な時期にチェロ協奏曲を構想しており(実現しなかった)、その際にスケッチされた「平和のテーマ」の痕跡が、後のオーボエ協奏曲第2楽章の中間部その他に投影されているとされる。詳細は Dr. Dan Schwartz "Hidden Narrative in Strauss' Oboe Concerto: Critical Context and the Plot it illuminates" ("The Double Reed" Vol.34 No.3 2011, International Double Reed Society, ISSN 0741-7659, pp.113-125) などに詳しい。
脚注編集
- ^ ジョン・デ・ランシーは当時ピッツバーグ交響楽団首席オーボエ奏者で、その後フィラデルフィア管弦楽団首席オーボエ奏者を長年務めた。
参考文献編集
- 『作曲家別名曲解説ライブラリー9 R.シュトラウス』(音楽之友社)