キーシュ島
キーシュ島(ペルシア語: جزیره کیش)は、ペルシア湾の島。イランのホルモズガーン州バンダレ・レンゲ県に属する。面積約90km2[1]。 2006年当時の人口は20,000人[1]。島の北部のハリーレには、中世の港市国家時代の遺跡が存在する[2]。
地理編集
キーシュ島はバンダレ・レンゲの西90km、大陸の海岸から15km離れている[1]。年間の平均気温は26度、年間降水量は約160mmで雨の半分は冬季に降る[1]。良質の地下水、平地に恵まれ、島内に河川は存在しない[1]。
島民の多くは島の北部、東部に居住する。シーア派のイスラム教が信仰されているが、スンナ派の信徒も少なからず存在すると思われる[1]。
歴史編集
アレクサンドロス3世がペルシアを征服した時代、キーシュ島は交通の要地として知られていた[1]。
10世紀末にペルシア湾の交易都市シーラーフが地震によって壊滅した後、キーシュ島がシーラーフに代わるペルシア湾の海運・交易の中心地となる[3]。10世紀末から11世紀にかけて、アラビア半島のアラブ人やイランの諸部族が島に移住した。クルド系のシャバンカーラ族の一派、あるいはダイラム系に属する部族集団のジャーシューが島の支配権を握り、シーラーフ、インドやオマーンの 港市に攻撃を行った[4]。元々は遊牧集団の名前だった「ジャーシュー」は、ペルシア湾沿岸部では「船乗り」「船員」を指す言葉として使われている[5]。
12世紀から13世紀前半の期間にはシーラーフから移住したカイサル家が島を支配する。キーシュの支配者はインド洋西海域の海運と交易に強い影響力を行使し、アデンの一部を併合し、インドのキャンベイ、ソームナート、東アフリカのザンジュ地方に居留地を構えていた[6]。真珠もキーシュ島の重要な産業の一つで、ペルシア湾の主要な真珠採取場と集荷・販売を統制していた[6]。13世紀にオマーンのカルハート、ズファール地方のミルバート、イラクのバスラで、海上交易と真珠の採取権を巡ってホルムズと対立した[4]。13世紀初頭にモンゴル帝国がペルシアに侵入した際、キーシュ島は一時的にホルムズを併合する。
13世紀末からキーシュ島の支配者の王統はサワーミリー家に移る。サワーミリー家は南インドのマラバール、コロマンデル地方の港市を支配下に置き、中国、東南アジア、インド方面への貿易活動はキーシュ島の勢力によって管理・運営されていた[7]。キーシュ島とホルムズはペルシア湾、インド洋の海運と交易を巡って激しく争い、ホルムズがキーシュ島によって支配されていたジャルーン島に建設した新ホルムズはキーシュ島以上の発展を遂げた[7]。1323年/24年にキーシュ島はホルムズによって併合される[7]。キーシュ島は中世の旅行家の紀行文にも現れ、マルコ・ポーロの『東方見聞録』にはキシ(Kisi)、イブン・バットゥータの『大旅行記』にはカイス島(Qays)として記されている[8]。
16世紀から17世紀にはポルトガルの支配下に置かれ、サファヴィー朝の時代以後キーシュ島はイランの領土となる[1]。
2020年7月、イランのメディアなどが中華人民共和国との協定にキーシュ島を貸与する内容が盛り込まれていると報じて波紋を呼んだ[9]。
産業編集
キーシュ島は美しい海や快晴の多い気候を活用したリゾート地となっている。20世紀後半のパフラヴィー朝の時代に欧米型の観光地化が進められ、大型ホテルやカジノが建設された。1979年のイラン革命後に一時的に衰退したが、1990年代の観光・経済開発によって島の経済は回復した[1]。
観光業以外に、漁業、海運業、貿易業が伝統的な産業として知られている[1]。真珠の生産も盛んだったが、20世紀半ばに日本の養殖真珠が国際市場に普及した後に衰退した[1]。自由貿易特区に指定されている。
交通編集
キーシュ島は空路によってイラン内外の都市と結ばれており、島の中央にはキーシュ国際空港が置かれている。イラン本土のバンダレ・レンゲやバンダレ・チャーラクとの間には船が運航されている。
脚注編集
参考文献編集
- 佐藤秀信「キーシュ島」『世界地名大事典』3収録(朝倉書店, 2012年11月)
- 家島彦一『海が創る文明』(朝日新聞社, 1993年4月)
- イブン・バットゥータ『大旅行記』3巻(家島彦一訳注, 東洋文庫, 平凡社, 1998年3月)