キーチャカ: कीचक, Kīcaka[1])は、インド神話の人物である。マツヤ国の軍司令官[2]叙事詩マハーバーラタ』によるとスータの王ケーカヤの子で[3][4]、兄弟に1人の妹スデーシュナーと、ウパキーチャと呼ばれる105人の弟がいる[3][5][6]パーンダヴァの妻ドラウパディーに横恋慕し、乱暴な行動をとったために殺された。

ラヴィ・ヴァルマが描いたキーチャカとドラウパディー。1890年。

人物編集

性格は残酷で、短気な人間であった反面[7]、マツヤ国・サールヴェーチャカ国の同盟軍とトリガルタ国との度重なる戦争において武人としての能力を遺憾無く発揮し、トリガルタ国王スシャルマンと直接戦って勝利をおさめていた[3][8]。彼の武勇は周辺諸国に知れ渡り、キーチャカが健在であることは周辺諸国に対して軍事的抑止力の役割を果たした。またキーチャカの妹スデーシュナーはマツヤ国の王ヴィラータの王妃であり、したがってヴィラータ王の義理の弟であった。これらの理由からキーチャカは絶大な権力を持ち、ヴェラータ王であってもキーチャカの行動に口を挟むことができないほどであった。そのため人々はヴィラータを名ばかりの王だと噂していた[9]

神話編集

カウラヴァによってクル国を追放されたパーンダヴァとその妻ドラウパディーがマツヤ国を訪れたときのことである。彼らは正体を隠し、ユディシュティラは賭博師、ビーマは料理人、女装したアルジュナは舞踏師、サハデーヴァは牛飼、ナクラは馬手、ドラウパディーは王妃の召使い(サイランドリー)として、ヴェラータ王の王宮に仕えた[3][10]。キーチャカは王宮で働くドラウパディーを見てすぐに恋に落ちた。そこでドラウパディーに言い寄ったが、ドラウパディーは自分が身分の低い卑しい女であること、結婚して夫いることを理由に拒絶した。しかし諦めきれないキーチャカが妹に相談すると、スデーシュナーは「彼女を兄の館に酒を取りに遣わすので、高価な酒を用意して待っていてください。そして人のいないところで口説いてください。もしかしたら頑なな彼女も心を動かされるかもしれません」と助言した。そしてドラウパディーをキーチャカの館に遣わせた[3][11]

不満を漏らすドラウパディー。
キーチャカを殺すビーマ。

ドラウパディーは嫌々ながらキーチャカの館に向かったが、出かける前に太陽神スーリヤに祈りを捧げた。彼女の祈りを聞いたスーリヤは姿の見えないラークシャサにドラウパディーを守らせた[12]

キーチャカはドラウパディーがやって来ると彼女を館の中に招き入れて口説こうとした。ドラウパディーが強大な力を持った5人のガンダルヴァの夫がおり、私に近づく男は彼らに殺されるに違いないと言うと、彼自身卓越した戦士であるキーチャカは笑い飛ばした。そのためドラウパディーはキーチャカを突き飛ばし、パーンダヴァのいる集会場に走って行って庇護を求めた。しかしキーチャカはヴィラータ王の前でドラウパディーの髪をつかんで足蹴にした。するとラークシャサが素早くキーチャカを押しのけた[3][13]。その光景を見たビーマは激怒したが、ユディシュティラは正体が露見することを恐れて我慢するよう合図した。そしてヴェラータ王が彼女を庇護しようとしないので、ドラウパディーにスデーシュナーのところに行くよう助言した[14]

その夜、ドラウパディーは密かにビーマのところに行き、パーンダヴァの長兄ユディシュティラに対する不満を洗いざらいぶつけた。かつてユディシュティラはインドラプラスタに君臨し、10万の王を王宮に参上させ、10万の召使いを働かせ、気前よく莫大な布施をしていた。ところが賭博によってそれら全てを失い、今はマツヤ国の王に賭博師として仕えて日々の稼ぎを得ている、そればかりか明日の生活を考えるあまりに、あらゆる労苦に耐えている私が無法者に苦しめられても何もしようとしない、今の私の苦しみの元凶はあのろくでなしであると[15]。そしてビーマが心を痛めながら彼女を慰めると、キーチャカを殺してくれるよう懇願した[16]。ビーマは夜になると人がいなくなる演舞場があるのを思い出し、ドラウパディーにもう一度キーチャカに会い、演舞場で会う約束をするよう言った。そこでドラウパディーはビーマの言葉に従ってキーチャカと会う約束をした。次の日の夜、キーチャカは演舞場に行き、暗がりの中で寝台に身を横たえているビーマを愛しい女だと思い、相手の身体を撫でた。するとビーマが跳びかかってきたため激しく戦ったが、最後に力強く抱きしめられて、押し潰されて死んだ[3][17]。彼の兄弟たちはキーチャカの遺体とともにドラウパディーを生きたまま火葬しようとしたが、ことごとくビーマに殺された[3][18]

キーチャカの死はトリガルタ国王スシャルマンとクル国のカウラヴァの連合と、略奪行為を招いた。これによりマツヤ国の10万頭もの牛が奪われ、パーンダヴァとカウラヴァとの間に戦いが起きた[19]

ギャラリー編集

脚注編集

  1. ^ Kicaka, Kīcaka: 17 definitions”. Wisdom Library. 2021年11月17日閲覧。
  2. ^ 『マハーバーラタ』4巻13章3行。
  3. ^ a b c d e f g h 菅沼晃『インド神話伝説辞典』p.133。
  4. ^ 『マハーバーラタ』4巻14章2行。
  5. ^ 『マハーバーラタ』4巻22章29行。
  6. ^ 『マハーバーラタ』4巻22章25行。
  7. ^ 『マハーバーラタ』4巻29章5行。
  8. ^ 『マハーバーラタ』4巻29章2行。
  9. ^ 『マハーバーラタ』4巻21章8行-9行。
  10. ^ 『マハーバーラタ』4巻6章以下。
  11. ^ 『マハーバーラタ』4巻13章-14章。
  12. ^ 『マハーバーラタ』4巻14章17行-21行。
  13. ^ 『マハーバーラタ』4巻15章8行-9行。
  14. ^ 『マハーバーラタ』4巻15章。
  15. ^ 『マハーバーラタ』4巻17章-19章。
  16. ^ 『マハーバーラタ』4巻20章。
  17. ^ 『マハーバーラタ』4巻21章。
  18. ^ 『マハーバーラタ』4巻22章。
  19. ^ 『マハーバーラタ』4巻29章。

参考文献編集

  • 『原典訳 マハーバーラタ4』上村勝彦訳、ちくま学芸文庫、2002年。ISBN 978-4480086044
  • 『インド神話伝説辞典』菅沼晃編、東京堂出版、1985年。ISBN 978-4490101911