クストーツァ
クストーツァ(イタリア語: Custoza)は、イタリア共和国ヴェネト州ヴェローナ県ソンマカンパーニャに属する分離集落(フラツィオーネ)。
クストーツァ Custoza | ||
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行政 | ||
国: | イタリア | |
州: | ヴェネト | |
県: | ヴェローナ | |
コムーネ: |
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市外局番: | 045 | |
CAP(郵便番号): | 37066 | |
人口 | ||
人口: | 685人 (2001 [1]) | |
地理 | ||
座標: | 北緯45度22分44秒 東経10度47分45秒 / 北緯45.37889度 東経10.79583度座標: 北緯45度22分44秒 東経10度47分45秒 / 北緯45.37889度 東経10.79583度 | |
標高: | 海抜 125 [1] m | |
ポータル イタリア |
名称
編集イタリア語: Custoza は /ku'stɔtsa/ と発音される。日本語文献ではクストーザとカナ転記されることもある。
ドイツ語文献ではクストッツァ(Custozza)と記される。
地理
編集クストーツァは、ソンマカンパーニャ市街から南西へ約5km、ヴェローナからは南西へ約17kmの距離にある。ソンマカンパーニャ(北東)、ヴァレッジョ(南西)、ヴィッラフランカ(南東)の、ちょうど中心付近に位置している。
集落は、ガルダ湖のモレーン(氷堆石)の丘陵地帯(Colline Moreniche del Garda)末端部の麓、ティオーネ川 (it:Tione (fiume)) の近くに位置する。南へ丘を越えればパダーナ平原が広がり、ポストゥミア街道にもほど近い。
2つのクストーツァの戦いを記念して、村の近くに納骨堂 (it:Ossario di Custoza) が建てられている。
歴史
編集19世紀、イタリア統一運動(イタリア独立戦争)の過程でクストーツァは2回にわたって重要な戦闘の舞台ととなっている。
1848年の戦い
編集1848年、ロンバルド=ヴェネト王国各地でオーストリア帝国による支配に対する反乱が勃発すると(1848年革命、ミラノの5日間を参照)、これに乗じてサルデーニャ王カルロ・アルベルトはオーストリアに宣戦を布告、ロンバルドに攻め込んだ(第一次イタリア独立戦争)。
ヨーゼフ・ラデツキー将軍率いるオーストリア軍は体制を立て直し、1848年7月23日から7月25日にかけて、カルロ・アルベルト率いるサルデーニャ王国軍とこの地で衝突。サルデーニャ軍は敗北した (Battle of Custoza (1848)) 。その後、北イタリアの反乱もオーストリア軍によって鎮圧された。
1866年の戦い
編集1866年、オーストリアとプロイセンの普墺戦争が勃発すると、イタリア王国(1861年成立)はヴェネト地方を併合すべくオーストリアと戦端を開いた(第三次イタリア独立戦争)。1866年6月24日、ラ・マルモラ将軍 (Alfonso Ferrero La Marmora) 率いるイタリア王国軍はオーストリア軍とこの地で衝突したが、敗北を喫している (Battle of Custoza (1866)) 。
この時、ジュゼッペ・ガリバルディはアルプス猟兵隊を率いてトレンティーノ地方に攻め入り、ベッツェッカの戦いに勝利してトレントを目前にしていたが、クストーツァの敗北を受けたイタリア王国軍から後退を命じられて、「Obbedisco(従う)」と一言だけの電報を返している。
社会
編集経済・産業
編集ここの地名は、DOCワイン、ビアンコ・ディ・クストーツァ (it:Bianco di Custoza) でも有名である。
文化
編集クストーツァを舞台とした作品
編集エドモンド・デ・アミーチスの小説『クオーレ』(1886年)の中の一挿話「サルデーニャの少年鼓手」(Il tamburino sardo)は、1848年のクストーツァの戦いを舞台とした物語である。クストーツァには、「サルデーニャの少年鼓手の家」や記念物がある。
脚注
編集- ^ a b 国立統計研究所(ISTAT). “Tavola: Popolazione residente - Verona (dettaglio loc. abitate) - Censimento 2001.” (イタリア語). 2013年3月29日閲覧。