グレプ・ウラジミロヴィチ (リャザン公)

グレプ・ウラジミロヴィチロシア語: Глеб Владимирович、? - 1219年)はウラジーミル・グレボヴィチの子である。リャザン公:1212年 - 1217年?。

生涯編集

グレプは1195年コンスタンチンの結婚式に参加したという記述がある[1]1196年には妻の父である、スモレンスク公ダヴィドの側に立ってチェルニゴフ公国との戦いに参加し、捕虜になるところをかろうじて逃れている。

リャザン公国をめぐる権力闘争に関しては、1207年に、兄弟のオレグと共に、おじのロマン(ru)、スヴャトスラフ(ru)を弾劾し、この2人のおじと、いとこのイングヴァリ(ru)ユーリーを投獄した。その後、グレプと共同統治という形で、リャザン公国はウラジーミル大公国の公子ヤロスラフに、プロンスク公国はグレプの兄弟のオレグに与えられた。しかしこれらの地でのグレプの権力は小さなものであった。グレプは1209年にはリャザンを自分の所有地に併合しようと画策したが失敗に終わっている。

1217年、グレプは兄弟のコンスタンチン(上記のコンスタンチンとは別人)と共に「イサドィ諸公会議[注 1]を開催した。V.タチーシチェフ(ru)の説では[2]、捕虜の身にあったおじのロマンの死(1216年)後の分領公国の分配を目的とした会議であったとされている。グレプとコンスタンチンはこの会議で、ポロヴェツ族の手を借りて、実の兄弟のイジャスラフと、ロマンら5人のいとこを殺害した。しかし、その後のリャザン公位は公会議で承認を受けていないイングヴァリ(上記のイングヴァリ)が占めた。グレプ・コンスタンチンとポロヴェツの軍は、ウラジーミル・スズダリ公国軍の援助を受けた[3]イングヴァリの軍に粉砕された。その後まもなく、グレプは発狂してステップで死亡した[4]

妻はスモレンスクダヴィドの娘。子については不明である。

注釈編集

脚注編集

  1. ^ 開催地についてはイサドィを、「諸公会議」についてはru:Съезды русских князейを参照。

出典編集

  1. ^ Ипатьевская летопись
  2. ^ Татищев В. Н. История Российская
  3. ^ По версии ЭСБЕ.
  4. ^ Славянская энциклопедия. Киевская Русь — Московия: в 2 т. / Автор-составитель В. В. Богуславский. — Т. 1. — С. 280. со ссылкой на Воскресенскую летопись.

参考文献編集

  • Энциклопедический словарь Брокгауза и Ефрона: В 86 томах (82 т. и 4 доп.). — СПб.: 1890—1907.
  • Славянская энциклопедия. Киевская Русь — Московия: в 2 т. / Автор-составитель В. В. Богуславский. — Т. 1.