ゲオルグ・ルガー
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ゲオルク=ヨハン・フォン・ルーガ(Georg Luger, Georg Johann von Luger, 1849年3月6日 – 1923年12月22日)は、ルガーP08や9x19mmパラベラム弾などの発明で有名なオーストリアの銃器設計家である。DWM社の技師として兵器の開発に携わった。
ゲオルク・ルーガ | |
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![]() ゲオルク・ルーガ(1906年) | |
生誕 | ゲオルク=ヨハン・フォン・ルーガ 1849年3月6日 チロル州, シュタイナハ・アム・ブレンナー |
死没 | 1923年12月22日 (74歳) ドイツ, ベルリン |
国籍 | ![]() |
職業 | 銃器設計家 |
代表作 | ルガーP08 9x19mmパラベラム弾 |
活動拠点 | オーストリア ウィーン |
名前編集
発音編集
名前はドイツ語読みで「ゲオールク・ルーガ」([ˈɡeːɔʁk luːɡɐ(ː)])、米語読みで「ジョージ・ルガー」([dʒˈɔɚdʒ ˈlugɝ])である。 しかし日本では名をアルファベット読み、姓を米語読みという混合表記「ゲオルグ・ルガー」が一般的となっている。 本稿では出生地の発音に最も近いゲオルク=ヨハン・ルーガとする。
経歴編集
幼少期編集
1849年3月6日、ゲオルク=ヨハン・フォン・ルーガはオーストリア帝国、チロル州のシュタイナッハ アム ブレンナーで誕生。 その後ルーガ家はイタリアに移住。 そのためゲオルク=ヨハンはイタリア語を第二外国語として育ち、後にオーストリアのパドヴァの基礎学校(Grundschule)とギムナジウムを卒業しました。 卒業後、両親は彼をウィーンに送り、そこで今日のウィーン商業アカデミー(Vienna Business School)に入学しました。
軍歴編集
1867年10月、ゲオルク=ヨハンは第78歩兵師団に予備士官候補生として志願しました。 1868年6月1日には士官候補生伍長に昇進し、4ヶ月後の10月1日に准尉に昇進しています。 彼の優れた射撃能力は上官の目を引き、オーストリア=ハンガリー帝国の軍火器学校(Military Firearms School)に送られ、そこですぐにインストラクターになりました。 このインストラクター時代に自動ローディングシステムに関心を持ち始めます。 1871年、ゲオルク=ヨハンは中尉に昇進後、予備役になり、DWM社に技師として入社しました。
家族編集
ゲオルク=ヨハンは1873年にエリザベス=ホセ=ファデュフェックと結婚しました。 彼は彼女と一緒にウィーンに引っ越し、3人の子供をもうけています。
- ゲオルク=フランツ=ルーガ(Georg Franz Luger)
- ユリオス=ヴィルヘイム=バートロミオス=ルーガ(Julius Wilhelm Bartholomaeus Luger,1880年3月16日生まれ)
- フレドリッヒ=アレクサンダー=ゲオルグ=ルーガ(Friedrich Alexander Georg Luger,1884年4月26日生まれ)
彼の長男であるゲオルク=フランツは土木技師になり、後に父親と一緒に軍事兵器の開発に携わりました。 また、彼の次男は1915年、第一次世界大戦のガリシア戦線で航空機パイロットとして殉死しました。
引退後編集
引退後、ゲオルク=ヨハンは会計士として働き、その後、ジョッキークラブの管理を行いました。