コーッテ王国
කෝට්ටේ රාජධානිය
ライガマ王国 1412年 - 1597年 ポルトガル領セイロン
シーターワカ王国
コーッテ王国の国旗
(国旗)
コーッテ王国の位置
1520年代のスリランカ。
黄緑がコーッテ王国。
公用語 シンハラ語
首都 コーッテ
国王
1412年 - 1467年 パラクラマバーフ6世英語版
1508年 - 1528年ダルマ・パラクラマバーフ9世
1551年 - 1597年ダルマパーラ英語版
変遷
コーッテへの遷都 1415年
キャラニヤへの遷都1509年-1528年
滅亡1597年
現在スリランカの旗 スリランカ

コーッテ王国(コーッテおうこく、シンハラ語: කෝට්ටේ රාජධානිය英語: Kingdom of Kotte)は、15世紀から16世紀にかけてスリランカに存在した王国首都はスリランカ西海岸のコーッテ(現在のスリジャヤワルダナプラコッテ)。コッテ王国とも。コーッテ王国は、スリランカ全土を支配した最後のシンハラ王国である。

歴史 編集

 
首都コーッテの地図(1557年-1565年

前史 編集

コーッテの地に初めて要塞を築いたのはガンポラ王国英語版の大臣アラカイスワラ英語版1370年1385年)である。ヴィクラマバーフ3世の治世の下、西海岸における北方からの侵略者を追い詰めるために要塞が建設された。1411年明・錫蘭山国戦争英語版ライガマ王国英語版鄭和に敗れ、アラカイスワラ王が中国に連れ去られて王国は滅亡した。

建国 編集

1412年ライガマ王国英語版パラクラマバーフ6世英語版は明の支援で即位し[1][2]、大きな沼地に囲まれ防御に適したこの地を首都として整備し[3]1415年に王国の首都をコーッテへと遷都した。王は要塞を強化し、さらに新しい王宮を建設した。彼はヴィジャヤナガル王国ジャフナ王国に対して厳しい姿勢を示し、ワンニ英語版地方を取得するとその地に王に忠実なリーダーを置いた。1450年にはついに北方のジャフナ王国を征服し、スリランカ全土の統一に成功した。しかしパラクラマバーフ6世の死後は地方の力が強くなり、1469年には中部山岳地域でキャンディ王国が成立した。

ポルトガル到来 編集

1505年にはコロンボの地にポルトガルが上陸、彼らは当初安全な交易を求めていただけだったが、後に王国の歴史に大きな影響を及ぼすことになる。1521年に内紛により王国は3つに分裂、そのうちの一つであるシーターワカ王国が地方の支援を受け勢力を伸ばしたため、コーッテ王国はポルトガルに支援を求めた。1565年、最後の王ダルマパーラ英語版は度重なるシーターワカ王国の攻撃からついに首都コーッテを放棄、ポルトガルが守るコロンボへと逃れた。

滅亡 編集

コーッテ王国の領土の大半はシーターワカ王国へと併合されたが、そのシーターワカ王国も1594年にポルトガルにより滅ぼされ、王国の領土は最終的にポルトガルにより支配されることとなった。1597年、ダルマパーラの死とともにコーッテ王国は公式にポルトガルへと引き渡され、名実ともにコーッテ王国は滅亡した。

関連項目 編集

参考文献 編集

  1. ^ Ray, Haraprasad (1987). “An Analysis of the Chinese Maritime Voyages into the Indian Ocean during Early Ming Dynasty and their Raison d'Etre”. China Report 23 (1): 74–75. doi:10.1177/000944558702300107. 
  2. ^ Holt, John Clifford (1991). Buddha in the Crown: Avalokiteśvara in the Buddhist Traditions of Sri Lanka. Oxford: Oxford University Press. pp. 109–110. ISBN 0-19-506418-6 .
  3. ^ The Kotte Dynasty and its Portuguese allies”. Humphry Coddrington. 2008年1月3日閲覧。

外部リンク 編集