15世紀

西暦1401年から西暦1500年までの100年間

15世紀(じゅうごせいき)とは、西暦1401年から西暦1500年までの100年間を指す世紀

千年紀: 2千年紀
世紀: 14世紀 - 15世紀 - 16世紀
十年紀: 1400年代 1410年代 1420年代 1430年代 1440年代
1450年代 1460年代 1470年代 1480年代 1490年代
大航海時代。大西洋を渡り新世界を発見したコロンブス。
香辛料の魅惑。15世紀には東方との交易路はオスマン帝国に遮断される事になり、香辛料の供給不足が大きな問題となった。画像は1410年代に描かれた『世界の記述(東方見聞録)』の挿絵で、インドでの胡椒採収が取り上げられている。
マチュ・ピチュの遺跡。15世紀に建造されたインカ帝国の技術の高さを反映している。
太陽の石。1479年にアステカ帝国皇帝アシャヤカトルが現メキシコシティの中央広場の位置に奉献したもの。
インド洋の活況。東アフリカ沿岸部ではキルワ王国などイスラム諸王朝がインド洋航路を保持し、それに伴い中国の明やポルトガルの船も姿を現していた。画像はキルワの大モスク跡
サマルカンド近郊のウルグ・ベク天文台。ティムール朝君主ウルグ・ベクは天文学に造詣が深く「ズィージ・スルターニー」のような精緻な天文表も作成させた。
コンスタンティノポリスの陥落。オスマン帝国のメフメト2世の占領により、1000年以上続いてきた東ローマ帝国はここに滅亡した。画像はジャン・ジョゼフ・バンジャマン・コンスタンの歴史画。
ロシア正教会の自立。東ローマ帝国の衰退に伴い「タタールの軛」を脱したロシアでは独自の組織が形成され文化的にも新たな展開が見られた。画像はこの時代を代表するモスクワ派のイコン(聖画像)でアンドレイ・ルブリョフの「至聖三者」。
グルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)。ポーランド・リトアニア連合軍がドイツ騎士団を破り、東方植民の動きはここで抑えられた。画像はこの戦いを描いたポーランド人画家ヤン・マテイコの歴史画。
ヨーロッパの機械式時計。中世末期には歯車や脱進機の性能が向上し各地に大規模な時計が作られた。画像は「プラハのオルレイ」と呼ばれる天文時計で1410年頃作成されてから、後世の補修はあるものの今日まで動いているものである。
プラハ大学学長ヤン・フスの火刑。コンスタンツ公会議の決定によりカトリック教会と相容れぬ異端の徒として処刑されたが、これがチェック人の憤激を呼び起こすことになった。
オルレアンの乙女ジャンヌ・ダルク。劣勢のフランス軍を鼓舞し百年戦争の終結に大きな役割を果たしたが魔女裁判で火刑に処せられた。
活版印刷の始まり。ドイツのマインツの技術者ヨハネス・グーテンベルクの発明が世界の情報を大きく変革した。画像はベルリン国立図書館所蔵の『グーテンベルク聖書(42行聖書)』の「創世記」。
『中世の秋』。歴史家ホイジンガはこの題名でこの時代のブルゴーニュ公国の歴史を描いた。画像はヤン・ファン・エイクの「宰相ロランの聖母」。ロランはこの国の宰相で、背後にはブルゴーニュのオータンの風景が広がる。
フィレンツェ共和国の繁栄。画像はブルネレスキの巨大なドーム建築で知られる「花の聖母教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)」。
ボッティチェリの「春(プリマヴェーラ)」。古典古代への憧れが人文主義を育み、メディチ家などの文化支援活動に支えられてルネサンス文化が花開いた。
レコンキスタの完了。カトリック両王カスティリア女王イサベルアラゴンフェルナンド)によりイベリア半島のイスラム系王朝支配は終わった。画像はフランシスコ・プラディリャ・オルティスの歴史画「グラナダ征服」(スペイン上院蔵)。
サイイド朝からローディー朝へ。北インドではデリーを中心にイスラム系王朝が続いた。画像はデリーのローディー・ガーデン内にあるサイイド朝の君主ムハンマド・シャーの霊廟。この公園の敷地にはローディー朝君主たちの霊廟もある。
アユタヤ朝の発展。スコータイ朝に代わりタイを支配したアユタヤ朝は上座部仏教を保護し東南アジアでも有数の国家となっていた。画像はアユタヤに残るワット・プラ・シーサンペットで、1448年にボーロマトライローカナート王により建立された寺院である。
万里の長城。モンゴル人を漠北に追い払ってからもその侵入に備え明代には長城が幾度となく修復・増築を繰り返されていた。画像は1404年に「慕田峪長城」と名付けられた長城で北京市の北東に位置するもの。
明の永楽帝靖難の変により甥の建文帝から帝位を奪うと都を根拠地の北京に定めた。漠北への五度の親征や、宦官鄭和を派遣しての南海大遠征を通じて明の威光を周辺諸国に知らしめた傑出した君主であった。
鄭和の南海大遠征。永楽帝時代には明の国威を示す大艦隊が各地に派遣された。画像は1417年にベンガルから運ばれたキリンを描いた「瑞應麒麟図」。
「仁宣の治」。明は仁宗洪熙帝と続く宣宗宣徳帝の時代に安定期を迎えた。画像は明の宣宗宣徳帝の入城を描いたもの。
如拙瓢鮎図」。禅宗の流入は「五山文学」や「舶来唐物」などを通じて室町時代の文化に大きな影響を与えた。この「瓢鮎図」も将軍足利義持の命で描かれた水墨画で数多くの禅僧の画讃がつけられている。京都妙心寺塔頭退蔵院の所蔵。
慈照寺銀閣。室町将軍足利義政は応仁の乱を引き起こすなど政治的才覚に欠けたが、東山山荘に隠棲してわびさびの文化を極めた。
応仁の乱。将軍後継をめぐる守護大名の争いで京都の町は焦土と化した。以後足利将軍の権威は衰え下剋上の時代へと進むことになる。画像は応仁の乱を描いた「紙本著色真如堂縁起」(真正極楽寺蔵)。

目次

15世紀の歴史編集

世界編集

ヨーロッパでは1453年、オスマン帝国により東ローマ帝国が滅ぼされ、古代から続いてきたローマ帝国は完全に滅亡した(これを以て、「中世の終わり」とする場合がある)。オスマン帝国の勢力が拡大し地中海の交易を支配すると、15世紀中頃から新たな交易ルートの開拓を目指して、ポルトガルスペインを中心に航海ブームが起き、大航海時代に突入した。1492年、クリストファー・コロンブスアメリカ大陸に到達すると大きな転機となり、ヨーロッパ諸国はしのぎを削って新大陸への進出を開始することとなる。

またフィレンツェ・ミラノ・ヴェネツィア・ローマ・ナポリの連携によるローディの和約はイタリア半島の安定をもたらし、哲学科学芸術などにおけるルネサンス文化は各地で発展が見られた。その影響はアルプス以北の西ヨーロッパ諸国にも及び北方ルネサンスが形成された(イタリア・ルネサンス年表も参照のこと)。

石炭がエネルギー源、暖房用として大変重要になった[1]

日本編集

室町時代の中期にあたる。応仁の乱(1467年)、または明応の政変(1493年)以後は戦国時代に区分される場合もある。戦国時代には室町幕府権力の著しい低下、幕府と守護の体制の崩壊などにより、戦国大名の乱立が起き全国動乱の時代に突入した。この動乱は約1世紀に渡り続くことになる。

できごと編集

1400年代編集

1410年代編集

1420年代編集

1430年代編集

1440年代編集

1450年代編集

1460年代編集

1470年代編集

1480年代編集

1490年代編集

1500年代編集

人物編集

キリスト教世界編集

フランス・フランドル編集

イングランド編集

神聖ローマ帝国編集

ローマ教皇・イタリア編集

イベリア半島編集

東ローマ帝国編集

東欧編集

ロシア編集

イスラム世界編集

南アジア編集

東南アジア編集

東アジア編集

編集

大越編集

モンゴル編集

朝鮮編集

日本編集

フィクションのできごと編集

脚注編集

注釈

出典

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  1. ^ サイモン・ウィンチェスター著、野中邦子訳『世界を変えた地図 -ウィリアム・スミスと地質学の誕生-』早川書房 2004年 65ページ

関連項目編集

外部リンク編集

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