サイゴン条約ベトナム語: Hòa ước Nhâm Tuất/和約壬戌)とは、1862年阮朝越南国とフランス第二帝政の間で締結された条約。壬戌条約とも称する。

サイゴン条約
1863年4月16日、この場所で条約締結に向けフランス代表団の歓迎会が行われた。
通称・略称 第1次サイゴン条約
壬戌条約
署名 1862年6月5日
署名場所 サイゴン
締約国 阮朝越南国とフランス第二帝政
関連条約 第2次サイゴン条約ベトナム語: Hòa ước Giáp Tuất/和約甲戌、甲戌条約)
テンプレートを表示

この条約を第1次サイゴン条約と称し、1874年に結ばれた条約を第2次サイゴン条約ベトナム語: Hòa ước Giáp Tuất/和約甲戌、甲戌条約)と表記することもある[1]

背景編集

1847年に即位した阮朝の第4代皇帝・嗣徳帝は、キリスト教弾圧を強化。1848年-1860年の間に、ベトナム在住のヨーロッパ人宣教師25人、ベトナム人宣教師300人、同信徒3万人が殺害されている[1]

1858年、フランスとスペインはスペイン人宣教師2名の処刑を理由として、ツーランダナン)に軍を派遣した。その後、フエの攻略も図るが行き詰まり、コーチシナサイゴンを本格的に攻撃することになった。

1861年にフランスが提示した講和条件を阮朝が拒んだため、さらにビエンホアを占領するなど軍事行動を継続し、軍艦をフエに向かわせ、1962年3月までにサイゴンからメコン下流地帯(ビエンホアビンロン)を占拠した。

この結果、ファン・タン・ジャンラム・ズイ・ヒエップベトナム語版を中心とする使節団がサイゴンに派遣され、1862年6月5日にサイゴン条約が成立した。

その結果、フランス海軍が占領していたベトナム南東部3省がコーチシナとして事実上フランスの植民地となったほか、西部3省(1874年)の割譲及び、ハノイハイフォンを含む6港の開港と領事館の設置、駐兵権の獲得、全土におけるキリスト教布教の自由、グエン朝の外交をも規制し得る権利、400万ドルの賠償、メコン川の開放など12項目を約束させられた[1]

内容編集

以上の内容などを含む全12項目が定められた[1]

参考文献編集

  • 桜井由躬雄、石沢良昭著 『世界現代史7 東南アジア現代史Ⅲ』 山川出版社、1995年

脚注編集

  1. ^ a b c d コトバンク - サイゴン条約”. 2021年11月26日閲覧。