サン=ジロンSaint-Gironsオック語:Sent Gironç)は、フランスオクシタニー地域圏アリエージュ県コミューン

Saint-Girons

行政
フランスの旗 フランス
地域圏 (Région) オクシタニー地域圏
(département) アリエージュ県
(arrondissement) サン=ジロン郡
小郡 (canton) サン=ジロン小郡
INSEEコード 09261
郵便番号 09200
市長任期 フランソワ・ミュリヨ
2008年 - 2014年
自治体間連合 (fr) fr:Communauté de communes de Saint-Girons
人口動態
人口 6 608人
2009年
人口密度 345人/km2
住民の呼称 Saint-Gironnais[1]
地理
座標 北緯42度59分09秒 東経1度08分48秒 / 北緯42.9858333333度 東経1.14666666667度 / 42.9858333333; 1.14666666667座標: 北緯42度59分09秒 東経1度08分48秒 / 北緯42.9858333333度 東経1.14666666667度 / 42.9858333333; 1.14666666667
標高 平均:m
最低:387m
最高:2100m
面積 19.13km2 (1 913ha)
Saint-Gironsの位置(フランス内)
Saint-Girons
Saint-Girons
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地理

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市街は山や高原、丘陵とは対比をなす盆地にある。大西洋と地中海に挟まれているため、古代にサン=ジロンからピレネー山脈のふもとへは塩の道が通じていた。現在のサン=ジロンは、フランスのアキテーヌ南部とスペインのカタルーニャ北部とを結ぶ道路上にある。

歴史

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1882年に撮影されたサラ川右岸のサン=ジロン

まちができたのは相対的に後だが、その歴史はローマ人がつくった近郊のコミューン、サン=リジエと切り離すことはできない。軍事上の要所であったため、ローマ人はLugdunum Consoranorumという名のまちをつくったのである[2]。ピレネー山麓にいたガリア系のコンソランニ族がそこの市民であった。またこのまちは1789年まで司教座が置かれていた。逆に、サラ川沿いのサン=ジロンの位置は長い間知られていなかった。サン=リジエの聖なる木(fr)は現在のサン=ジロンの中にあり、リュク地区はLucusにちなんでいる。1905年、古い駅周辺の土の中からガロ=ローマ時代の葬式に利用されたCippus(死者を悼む碑文を刻んだ柱)が見つかった。それはPrimillice家のPompeiaという若い女性に捧げる碑文だった。彼女はサン=リジエの知事の娘であった。

約1100年頃サン=ジロンがまちとみなされるようになったあと、西洋は大きな変化を体験した最初の千年紀を迎えていた。キリスト教は迫害されず、経済的にも人口統計上も発展していった。前世紀に山に隠れ信仰を守ってきた人たちは他との往来が少なく、その子孫たちは平野やまちへ下りて行き、新しいまちをつくることもあった。13世紀、市街がサラ川の対岸に広がり新たな地区ヴィルヌーヴが誕生した。まちは城壁に囲まれて徐々に大きくなっていった。

19世紀、まちは城壁を大通りに変えていった。まちにサン=ジロン駅ができて鉄道が開通すると、ブッサン-サン=ジロン線にトゥールーズ-バイヨンヌ間の路線がつながった。路線は隣接県に接続するようつくられていた。フォワやルズ川谷、カスティヨンに向かって丘を登る他の路線である。サラ川谷を通るよう建設された線もあった。この路線はピレネー山脈中のサラウ・トンネルを通ってスペインまで接続される必要があった。

1960年代、トゥールーズへの旅客輸送が終了、1970年代に貨物輸送が終了した。その後道路輸送が鉄道輸送を引き継いだ。往時の姿を残しているのは現在も残る駅舎だけである。サン=ジロンにやってきた貨物列車が運んだのは、レダールの製紙工場に運ぶ木材であった。この産業は19世紀に地元有数のものであったが、2008年に工場は閉鎖された[3]

人口統計

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1962年 1968年 1975年 1982年 1990年 1999年 2006年
7368 7971 8130 7260 6596 6254 6533

参照元 = Cassini[4]INSEE[5],[6]

姉妹都市

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脚注

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