ジェームズ・ハワード (第3代サフォーク伯爵)
第3代サフォーク伯爵ジェームズ・ハワード(英語: James Howard, 3rd Earl of Suffolk KB、1619年12月23日 – 1689年1月7日)は、イングランド王国の貴族。イングランド王チャールズ2世の戴冠式で軍務伯を務めた[1]。
生涯
編集第2代サフォーク伯爵セオフィラス・ハワードとエリザベス・ヒュームの長男として生まれた[2]。代父母はジェームズ1世と初代バッキンガム公爵ジョージ・ヴィリアーズだった[3]。1626年2月2日のチャールズ1世戴冠式でバス勲章を授与された[3]。
1640年6月3日、父の死に伴いサフォーク伯爵などの爵位を継承[2]、16日にはサフォーク統監に任命された[3]。イングランド内戦中の1647年9月に議会から大逆罪で弾劾されたがそれ以上の追訴はなく、王政復古の後はサフォーク知事に復帰、1660年7月25日にケンブリッジシャー統監に任命され、1661年4月18日から24日のチャールズ2世の戴冠式で軍務伯を務めた[3]。1663年にオックスフォード大学のM.A.学位を得た[4]。1665年にチャールズ2世の寝室侍従に任命された[4]。以降も様々な閑職に任命されたが、1681年3月にサフォーク統監、ケンブリッジシャー統監、寝室侍従を罷免された[3]。
1689年1月7日に死去、弟ジョージがサフォーク伯爵の爵位を継承、一方でハワード・ド・ウォルデン男爵の爵位は2人の娘およびその継承者の間で保持者不在となった[2]。1689年1月16日、ウォールデンで埋葬された[3]。
家族
編集1640年12月1日、スーザン・リッチ(Susan Rich、1649年没、初代ホランド伯爵ヘンリー・リッチの三女)と結婚、1女をもうけた[2]。
- エセックス(Essex) - 初代ブレイブルックのグリフィン男爵エドワード・グリフィン(Edward Griffin, 1st Baron Griffin of Braybrooke)と結婚
1650年2月13日、バーバラ・ヴィリアーズ(1681年12月13日没、第2代グランディソン子爵ウィリアム・ヴィリアーズの娘)と再婚、1女をもうけた[3]。
- エリザベス - 第4代準男爵サー・トマス・フェルトンと結婚
1682年5月8日までに第3代マンチェスター伯爵ロバート・モンタギューの娘アンと三度目の結婚をしたが、2人の間に子供はいなかった[3]。アンは1720年10月27日にウォールデンで埋葬された[3]。
脚注
編集- ^ Chisholm, Hugh, ed. (1911). . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 26 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 26–27.
- ^ a b c d Burke's Peerage, Baronetage and Knightage (英語) (99th ed.). London: Burke's Peerage Limited. 1949. p. 1938.
- ^ a b c d e f g h i Goodwin, Gordon (1891). Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 28. London: Smith, Elder & Co. pp. 40–41. . In
- ^ a b "Howard, James, Earl of Suffolk (HWRT664J)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
公職 | ||
---|---|---|
先代 サフォーク伯爵 |
サフォーク統監 1640年 – 1642年 同職:サー・トマス・ジャーミン |
イングランド空位期 |
サフォーク首席治安判事 1640年 – 1642年 | ||
先代 アランデル伯爵 |
軍務伯 1661年 – 1662年 |
委員会制 次代の在位者 ノーフォーク公爵
|
名誉職 | ||
イングランド空位期 | ケンブリッジシャー統監 1660年 – 1681年 |
次代 アリントン男爵 |
サフォーク統監およびサフォーク首席治安判事 1660年 – 1681年 |
次代 アーリントン伯爵 | |
イングランドの爵位 | ||
先代 セオフィラス・ハワード |
サフォーク伯爵 1640年 – 1689年 |
次代 ジョージ・ハワード |
ハワード・ド・ウォルデン男爵 1640年 – 1689年 |
次代 ジョン・グリフィン・ウィットウェル |