ジャンセニスム
ジャンセニスム(Jansénisme)は、17世紀以降流行し、カトリック教会によって異端的とされたキリスト教思想[1]。コルネリウス・ヤンセン(Cornelius Jansen, Jansenius)の名に由来するキリスト教思想である[2][3]。
人間の意志の力を軽視し、腐敗した人間本性の罪深さを強調した。ネーデルラント出身の神学者コルネリウス・ヤンセン(1585年-1638年)の著作『アウグスティヌス』の影響によって[3]、特にフランスの貴族階級の間で流行したが、その人間観をめぐって激しい論争をもたらした[4]。
思想
編集ジャンセニスムはアウグスティヌスの人間理解が根底にあるが、人間の原罪の重大性と恩寵の必要性を過度に強調し、予定説からの強い影響を受けていた[3]。さらにジャンセニスムはジャン・カルヴァン思想の影響を受けて[5]、救われることが予定付けられている人間は本当に少ないと説いた[6]。
ジャンセニスム思想によれば、人間は生まれつき罪に汚れており、恩寵の導きなしには善へ向かい得ない[6]。このため罪の状態でイエスの体である聖体を受けることは恐れ多いことである。だから、聖体拝領に際しての準備と祈りはどんなに行っても十分すぎることはないとした。その結果、ジャンセニスムの影響を受けた信徒たちは聖体拝領の回数を著しく減らすことになった[6]。
歴史
編集ジャンセニスムのルーツは16世紀のルーヴァンの神学者ミシェル・バイウス(英語: Michael Baius)(1513年生 - 1589年没)の唱えた教説にあるといわれる[7]。バユスとも呼ばれたバイウスの説の特徴は神の恩寵の意味の絶対化と人間の非力さの強調であった。同地で活躍していたイエズス会員たちはそこにジャン・カルヴァンの影響を感じ取り、すぐに反論した[7]。
その後、同じくネーデルランド出身の神学者で、イプルの司教コルネリウス・ヤンセンが生涯の研究の成果として完成させた著作『アウグスティヌス-人間の本性の健全さについて』(Augustinus;humanae naturae sanitate)が、彼の死後の1640年に遺作として発表された。ヤンセンはバイウスの説に影響を受けており、同書ではアウグスティヌスの恩寵論をもとに、バイウスと同じように人間の自由意志の無力さ、罪深さが強調されていた。ここにいわゆる「ジャンセニスム」がはっきりと姿を現した[7]。
ヤンセンの盟友であったジャン・デュ・ヴェルジエ・ド・オーランヌはフランス人のアントワーヌ・アルノーの知己を得て、同書を携えてパリへ赴き、そこで1641年に出版した[3]。これがフランスの上流階級の間で反響を呼ぶ。デュヴェルジェは本名よりも「アベ・ド・サン・シラン」(サン・シラン修道院長、以下サン・シラン)という名前で知られるようになる。やがてサン・シランはアルノーの姉妹が暮らしていたパリ郊外の女子修道院ポール・ロワヤル修道院の霊的指導者となり、そこをジャンセニスムの拠点とするようになった。サン・シランはかねてよりイエズス会員の道徳教説が信徒の堕落を招いていると考えており、ジャンセニスムに名を借りたイエズス会攻撃を行った。これにイエズス会員たちが反論したため、以後、ジャンセニスム対イエズス会という図式が出来上がっていく。
当時のフランスでジャンセニスムに傾倒した著名人の中には、哲学者ブレーズ・パスカルや戯曲作家ジャン・ラシーヌもいた。パスカルがジャンセニスムに傾倒していたことは有名だが、彼はジャンセニスムへの批判に反論して1656年に『プロヴァンシアル』を執筆している。
ジャンセニスムはその行き過ぎた悲観的人間観、特に自由意志の問題をめぐって激しい論議になった。ローマ教皇庁では神学者たちがこれを慎重に検討した結果、『アウグスティヌス』に含まれる五箇条の命題を異端的であると判断したため、インノケンティウス10世の回勅『クム・オッカジオーネ』(1653年)がジャンセニスムを禁止した。
18世紀に入るとジャンセニスムが新しい展開を見せる。元オラトリオ会員だったパスキエ・ケネルによってジャンセニスムに新しい息吹が吹き込まれることになる。ケネルはジャンセニスムをフランス教会の教皇の権威からの自由(ガリカニスム)と結びつけて展開したのである。ケネルがイエズス会員を「教皇の走狗」であると非難したことから、再びジャンセニスム対イエズス会という構図がつくられた。最終的に他のヨーロッパ諸国と同じようにイエズス会は禁止・追放の憂き目にあうことになる。
当時のフランス国王ルイ14世は政治的見地からジャンセニスムを弾圧し、その中心地となったポール・ロワヤル修道院を1710年に閉鎖させたが、国内的にジャンセニスムを弾圧する一方で、対外的にはジャンセニスムをローマ教皇との政争の具として利用もしている。
果てのない論争が繰り返された後で、最終的にクレメンス11世が回勅『ウニゲニトゥス』(1713年)でジャンセニスムを禁止し、論客パスキエ・ケネルの著作に含まれる命題を誤謬であるとした。ジャンセニスムの源流ともいうべきコルネリウス・ヤンセンに関しては、その著作『アウグスティヌス』こそ問題となったが、本人の死後に発行されたという事情も考慮され、ヤンセン自身が断罪されることはなかった。こうしてジャンセニスム論争そのものは18世紀には終焉したが、オランダではジャンセニスムの精神を引く一派がカトリック教会から離れ、やがて復古カトリック教会という分派が誕生することになる。
ジャンセニスムの精神は20世紀初頭に至るまで、フランスのみならず全ヨーロッパのカトリック信徒に影響を及ぼした。その証左として、20世紀の初頭の教皇ピウス10世が回勅において、頻繁な聖体拝領と子供の早い時期での初聖体を奨めていることが挙げられる。これは、ジャンセニスムの影響を受けて秘跡を敬遠するようになった多くの信徒が、結果的に教会から離れてしまっていた当時の状況に対応しようとする試みであった。
著名なジャンセニスムの論客
編集出典
編集参考文献
編集- ベルンハルト・グレトゥイゼン『ブルジョワ精神の起源』(1974年、法政大学出版局)
- 青木国夫、青木保、青野太潮、赤城昭三、赤堀庸子、赤松昭彦、秋月觀暎、浅野守信 ほか 著、廣松渉、子安宣邦; 三島憲一 ほか 編『ジャンセニスム』(第1版)岩波書店〈岩波 哲学・思想辞典〉、1998年3月18日、704頁。ISBN 4-00-080089-2。
- 青木国夫、青木保、青野太潮、赤城昭三、赤堀庸子、赤松昭彦、秋月觀暎、浅野守信 ほか 著、廣松渉、子安宣邦; 三島憲一 ほか 編『ヤンセン』(第1版)岩波書店〈岩波 哲学・思想辞典〉、1998年3月18日、1610頁。ISBN 4-00-080089-2。
- 西川宏人 著、渡邊靜夫 編『ジャンセニスム』 11巻(第2版第1刷)、小学館〈日本大百科全書〉、1994年1月20日、416頁。ISBN 4-09-526121-8。
- 塩川徹也 著、下中直人 編『ジャンセニスム』 12巻(改訂新版)、平凡社〈世界大百科事典〉、2007年9月1日、764-765頁。
- 塩川徹也「不謬性と寛容―ジャンセニスムをめぐって」(PDF)『日本學士院紀要』第74巻第2号、日本学士院、日本、2018年12月12日、41-63頁、doi:10.2183/tja.74.2_41、ISSN 2424-1903、2025年5月10日閲覧。
- 御園敬介「ジャンセニスムと信仰の認識論」(PDF)『一橋大学社会科学古典資料センター年報』第31巻、一橋大学社会科学古典資料センター、日本、2011年3月31日、39-51頁、doi:10.15057/19037、ISSN 0285-1105、2025年5月10日閲覧。