ジュール=アントワーヌ・カスタニャリ

ジュール=アントワーヌ・カスタニャリ(Jules-Antoine Castagnary、1830年4月11日 - 1888年5月11日)は、フランス政治家ジャーナリスト美術批評家1874年に開かれた第1回印象派展への批評(Le Siecle紙, 1874年4月29日)の中で、「印象派」という言葉を生んだ[1]

ジュール=アントワーヌ・カスタニャリ
Jules-Antoine Castagnary
生誕 (1830-04-11) 1830年4月11日
サント
死没 1888年5月11日(1888-05-11)(58歳没)
パリ
国籍 フランスの旗 フランス
著名な実績 美術批評
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生涯

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1830年、カスタニャリは西フランス、シャラント=マリティーム県の都市サントに生まれ、パリで生涯を過ごした。自由主義色の強い政治ジャーナルであるル・モンド・イリュストレLe Siècle英語版Le Nain Jaune英語版に寄稿し、1857年から1879年にかけて、毎年恒例のサロン・ド・パリを論評した。パリ攻城戦英語版に際して地方の共和党系報道機関を組織し、第二帝政崩壊以後、反教権主義的共和党員として第二の政治キャリアを歩んだ。

パリ議会国務院歴史的記念物委員会の一員となり、パリ国立高等美術学校の指導教官を務めた。1881年にはレオン・ガンベッタ内閣の閣僚ポストに指名されたが短命に終わり、翌1882年に辞任した。彼は親しい友人であった画家クールベの微に入り細に入る伝記を執筆していたが、1888年に未完のまま世を去りパリのモンマルトル墓地に埋葬された。

エピソード

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厳選作品

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参照

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  1. ^ Castagnary's review quoted
  2. ^ 日仏交流160周年記念シャルル=フランソワ・ドービニー展カタログ,印象社,2018,page 164

参考文献

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外部リンク

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