ジョン・ダニエル・ハーツ・シニア

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ジョン・ダニエル・ハーツ・シニア(John Daniel Hertz, Sr.、1879年4月10日生まれ - 1961年10月8日没)は、アメリカ合衆国の実業家。競走馬オーナーブリーダー篤志家としても知られる。

John Daniel Hertz, Sr.
生誕 1879年4月10日
オーストリア=ハンガリー帝国 Szklabinya(現代のスロバキア共和国Sklabiňa
死没 (1961-10-08) 1961年10月8日(82歳没)
アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ
職業 実業家(イエローキャブ (タクシー)ザ・ハーツ・コーポレーション創業者)・篤志家、競走馬生産・馬主業
取締役会 ゼネラルモーターズ
配偶者 Fannie Kesner
子供 3名
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前半生 編集

ハーツは1879年4月10日に生まれた[1][2]。生地は当時オーストリア=ハンガリー帝国領内で、現在ではチェコスロバキア共和国を経てスロバキア共和国領となる[3]。ハーツが生まれたのはSklabiňaという村だった[3][注 1]。ユダヤ系とも伝わる[6][7][8]。名は「Sándor Herz」(シャンドール・ヘルツ)といった[1][4][注 2]

1885年[5]、一家でアメリカへ移民[1][4][5]イリノイ州シカゴの西部地区に居を定めた[9][1][4][注 3]。このとき姓を「Herz」から「Hertz」に改め[4][5]、名も「Sándor」から「John」に改めた[5]

一家は貧しく[4]、小学校にも数年通っただけで行かなくなり[3]、6年生のときに家計を助けるため働きに出たという[9]。アメリカ移住後まもなく両親が不和となり[4]、家出して[4]、自活のために11歳か12歳の頃[注 4]から働きに出たともいう。

ハーツ少年はシカゴで新聞に関わる職を得た[1]。はじめは街角で売られる新聞の売り子だった[9]。やがて、週給6ドルで新聞配送車の運転手をするようになった[9]。さらに旧「シカゴ・モーニング・ニュース」紙の新聞印刷の手伝いをするようになり[9]、遂にはスポーツ欄の取材や記事書きの助手を任されるようになった[9][4][5]。このときにハーツは競馬を覚えたという。ところが「シカゴ・モーニング・ニュース」紙が他紙と合併して「シカゴ・レコード」紙となるときに、職を失った[1][9]

ハーツはシカゴのクラーク街(Clark Street)北部でボクシングジムに通うようになった[9]。しかし反ユダヤ主義の影響を避けるため、「ダン・ドネリー」(Dan Donnelly)というリングネームを使った[9]。やがてシカゴ体育協会(CAA)のアマチュアボクシングのチャンピオンになり、実名でリングにあがるようになったという[4][9]。また、ハーツはBenny Yangerというボクサーのマネージャーも務めた[9]

タクシー業で成功 編集

1904年に、友人の伝手で自動車販売の職にありついた[9][注 5]。ハーツはこの仕事で才能を発揮し、数年で共同経営者の立場を得た[9]

ハーツは、よく地元シカゴのタクシーについての不平を耳にしていた[5]。その多くは「運賃が高すぎる」というもので、ほかにも「タクシーが汚すぎる」とか「運転手の態度がひどい」と言われていた[5]


ハーツは、新車購入時に中古車の下取りを始めた最初期の一人だと言われている[1]。この職場では中古車の取引や下取りが多く[9]、手元には買い取った中古車がダブついていた[1]。そこでハーツは安価な中古車を利用し、1907年に一般庶民向けのタクシー事業をはじめた[9]。運賃を低く抑えた一方で、10分で迎車できると宣伝して客を集めた[9]。運転手たちにはきちんとした服装をさせ、礼儀作法や親切心を求め、車も綺麗に保つようにさせた[9][注 6]。利用者から運賃が高いと言われると、ハーツは値下げを行い、よりコンパクトな車両を用いるようになった[9]

1915年に「イエローキャブ社」(en:Yellow Cab Company)を創業[9][1]。ハーツは、自社のタクシーがすぐ見分けられるように、黄色で塗装させた[9][1]。これがアメリカのタクシーの一般的なイメージとなった。「イエローキャブ社」は好評を博し、あっという間に全米に事業を展開するようになった[1]。当時はまだ路面状態が悪く、車を長く走らせるとメンテナンスが必要になった[1]。そこでハーツは自働車整備を行う「イエローキャブ車両製造社」(en:Yellow Cab Manufacturing Company)をつくった[1]。創業時には車両はリムジン7台のみだったが、1940年までには40台もの車両を揃え、自前で車両の整備・製造からバスやトラックの製造までを行うまでになった[9]

ハーツの肩書[9]

肩書 企業
director(取締役) First National Bank of Chicago
director(取締役) Keeshin Transcontinental Freight Lines
director(取締役) パラマウント・ピクチャーズ
共同経営者 リーマン・ブラザーズ

第一次世界大戦では運輸の民間専門家としてアメリカ陸軍の輸送部門に協力、第二次世界大戦ではパターソン陸軍次官(Under Secretary of War)のもとで車輌部門を助け、戦後に勲章を受章した[9]

1955年にザ・ハーツ・コーポレーションの取締役会長(chairman of the board)を退任[9]

1957年に夫妻で奨学金基金(Fannie and John Hertz Foundation)を創立[9]

1961年10月、カリフォルニアで死去[9]。享年82歳[9]

詳細 編集

ハーツは1915年にシカゴで低価格路線のタクシー会社「イエローキャブ社」を創業、これが好評を博し、あっという間に全米に事業を展開するようになった。1917年には「シカゴ乗合バス社」(en:Chicago Motor Coach Company)を創業、1920年には販売用のタクシー用車両を製造する「イエローキャブ車両製造社」(en:Yellow Cab Manufacturing Company)を興した。1923年には「乗合バス製造社」(en:Yellow Coach Manufacturing Company)を興し、1924年には貸自動車会社を買収して「ハーツ・レンタカー社」(Hertz Drive-Ur-Self Corporationザ・ハーツ・コーポレーションの前身)とした。

シカゴでは、ハーツの「イエローキャブ社」とライバルの「チェッカータクシー社」(en:Checker Taxi)との競争が激化し、しばしば発砲事件や暴力沙汰に発展、死人まで出る始末となった[10]

1925年までに、ハーツやParmelee Transportation System社らが出資する「シカゴ・イエローキャブ社」が、「イエローキャブ社」の親会社となった。同年ハーツは、シカゴの「シカゴ乗合バス社」とニューヨークの「5番街乗合バス社」(en:Fifth Avenue Coach Company)の運営管理のための親会社として、「乗合自動車社」(en:The Omnibus Corporation)を創立した。

1925年時点でのハーツの肩書は次の通りである[11]

1926年、ハーツはイエローキャブ製造社と関連子会社のバス製造会社やレンタカー会社をゼネラルモーターズ社へ売却、これにより同社の取締役会に名を連ねることになった[12]

1929年に、ハーツ所有の厩舎に火炎瓶が投げ込まれて馬11頭が焼死するという事件が起きると、ハーツはイエローキャブ社を売り払った。

1933年に、ニューヨークで投資銀行リーマン・ブラザーズを営むロバート・リーマン(en:Robert Lehman)から権利の一部を買い取った。ハーツは死ぬまでその共同経営者となった。1938年、ハーツはイースタン航空をゼネラルモーターズ社から買収する話を進めていたが、イースタン航空の経営者エディー・リッケンバッカー(en:Eddie Rickenbacker)は自力で資金を調達して権利を買い取ってしまい、ハーツによる買収は実現しなかった。1943年、ハーツは残っていたイエロー乗合バス製造社に関する権利をゼネラルモーターズ社に売却した。

1953年、アメリカ乗合自動車社を介してレンタカー事業をGMから買い戻した。アメリカ乗合自動車社のうち公共交通部門を売却、社名をザ・ハーツ・コーポレーションに改めると、翌年にはニューヨーク証券取引所に上場した。

家族 編集

1903年に、シカゴのフランシス(ファニー)・ケスナーと結婚、3人の子(レオナ=ジェーン(Leona Jane)、ジョン・ジュニア(John Jr.)、ヘレン(Helen))を得た[13][14]。息子ははじめ「レオナルド・J・ハーツ」といったが、17歳のときに父の名をとって「ジョン・D・ジュニア」に名を改めた[15]。ジョン・ジュニアは後に広告分野の重役となり、1942年から1942年頃、若くして映画女優のマーナ・ロイと結婚した。

競馬との関わり 編集

ハーツ夫妻は、アメリカ競馬界でも影響力のある存在だった。夫妻はイリノイ州キャリー(Cary)近郊のトラウトバレー(Trout Valley)に牧場を所有したほか、カリフォルニア州ウッドランドヒルズ(Woodland Hills)のアマリロ農場(Amarillo Ranch)、ケンタッキー州パリスのストーナークリーク牧場(Stoner Creek Stud)も知られている。これらの牧場は夫妻のサラブレッド競走馬の生産・育成の中心地となった。競走馬を出走させるときは妻のファニー名義で、その中でも最良の成績を残したのが、1928年のケンタッキーダービー優勝馬で同年の全米年度代表馬にもなったレイカウントで、同馬は種牡馬になると、1943年のアメリカクラシック三冠馬カウントフリートを出した。2頭ともアメリカ競馬の名誉の殿堂入りを果たしている[9][16]

競馬では1928年にレイカウントでケンタッキーダービー優勝、1943年にはカウントフリートでケンタッキーダービー優勝[9]

ストーナークリーク牧場 編集

ストーナークリーク牧場(Stoner Creek Stud)はケンタッキー州パリスにあったサラブレッド生産牧場である。創設者はシカゴの実業家ジョン・D.ハーツ(John D. Hertz)とファニー・ケスナー・ハーツ(Fannie Kesner Hertz、1881-1963)夫妻。[17]

ジョン・ハーツはもともとシカゴで事業を営み、イリノイ州キャリー(Cary)近郊のトラウトバレー(Trout Valley)に農場を持っていた。1930年代に、カリフォルニア州サンフェルナンド・バレーのウッドランドヒルズ(Woodland Hills)に土地を得て、サラブレッドの育成を始めた。ストーナクリーク牧場を購入すると、生産馬から2頭のケンタッキーダービー馬が出た。[18]最初の勝ち馬は1928年優勝のレイカウントで、その次はレイカウントの産駒カウントフリートで、カウントフリートは1943年にアメリカ三冠馬となった。『ブラッド・ホース』誌による20世紀のアメリカ名馬100選では、カウントフリートは第5位にランクされた。ハーツ夫妻はイギリスからブレニムをシンジケート種牡馬として購買輸入する際に一役かい、ブレニムはアメリカの重要な種牡馬となった。

1954年に、ジョン・ハーツは『ジョン・ハーツ、エヴァン・シップマンに競馬の思い出を語る』(The Racing Memoirs of John Hertz as told to Evan Shipman)という本を出版した。

主な生産馬・所有馬は

  • 1921年から競馬界に参入[8]
  • 7年後にレイカウントでケンタッキーダービー優勝[8]
  • 1943年にカウントフリートで三冠達成[8]
  • 当時の東欧系のユダヤ人のオーナーブリーダーとしては「最も特筆すべき人物[8]」と評されている。
  • ストーナークリーク牧場は、1954年までに2955勝をあげ、900万ドル以上を稼いだ[8]

スタンダードブレッドの生産 編集

1964年に、ストーナークリーク牧場はNorman S. WoolworthとDavid R Johnstonによって買収され、牧場はスタンダードブレッド生産牧場に変わった。さまざまな種牡馬が繋養されたうち、特筆すべきはペーサー(側対歩)タイプのMeadow SkipperNevele Pride、Henry T. Adiosである。[19]

現在 編集

1996年にSteve & Cindy Stewartの所有となり、ハンタートン牧場ストーナークリーク支場となった。[20]

社会貢献 編集

冷戦期になると、ハーツは応用科学を志す若者を支援するため「ハーツ夫妻基金」(Fannie and John Hertz Foundation)を設立した。友人のエドワード・テラーの熱心な勧めで、この基金は高等教育に向けられることになった。基金はアメリカでは最難関で、国内最高レベルの大学の授業料全額に加えて十分な奨学金が与えられる10名から12の枠をめぐって、800もの応募者がある。

1924年に、ハーツはシカゴ市で最初の信号機をミシガン通り(Michigan Avenue)に設置するため、34,000ドルを寄付した[16]

死去 編集

ハーツは1961年10月8日に、妻ファニーはその2年後に没した[21][22]。当初、夫妻はイリノイ州シカゴにあるローズヒル墓地(en:Rosehill Cemetery)に埋葬された。今はニューヨーク・ブロンクス区ウッドローン墓地に埋葬されている。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ ハーツが生まれた頃はオーストリア=ハンガリー帝国領内で、後にチェコスロバキア共和国を経て、現在ではスロバキア共和国領となる。故郷の村の名前は(スロバキア語)Sklabini[4]、(ハンガリー語)Szklabinya[5]。ウルツキ(Vrútky[1][2]とも、その近郊のSklabiňaとも、マルチン近郊[3]ともいう。
  2. ^ 「シャンドール」は「アレクサンドル」の短縮形。
  3. ^ 当時5歳だったという情報源[1][4][9]と、6歳だったという情報源[3][5]とがある。
  4. ^ 「11歳」とする情報源[1]と、「12歳」とする情報源[3]がある。
  5. ^ 実のところ当時のハーツは自分では車の運転ができなかったという[9]
  6. ^ 当時はまだ世間一般ではウマが牽引する車両が大半で[1]、自働車は少数派だったという[1]。20世紀初頭には全米の自動車台数は4000台だった[9]。これが10年で18万台に増え、その4年後には54万8000台となった[9]。1930年にはアメリカで毎年500万台が製造されるに至った[9]
  7. ^ 一般人はふつう所有するのが難しいような大型の乗用車を「Ambassador」(「大使」の意味)の車名で貸出した[9]

出典 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s ブリタニカ百科事典、Britannica Kids、 John Hertz、英語。2023年2月13日閲覧。
  2. ^ a b “Who's who in American Jewry、vol.1”p.263、John Kay Simons、Jewish Biographical Bureau、1927.google Books版、2023年2月13日閲覧。
  3. ^ a b c d e f SME(スロバキアのニュースサイト)、2017年10月6日付、Tomas Vasikoの署名記事、Z ulice to dotiahol až na vrchol. Ako zabudnutý rodák od Martina vybudoval v Amerike taxikárske impériumスロバキア語、(英訳:From the street to the top. As a forgotten native of Martin, he built a taxi empire in America、和訳:貧困からトップへ、アメリカでタクシー王国を築いたマルチン出身者)、2023年2月13日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j k 「Balik do Sveta」(英訳:Back to the World)、ÚSPEŠNÍ SLOVÁCI VO SVETE – JOHN D.HERTZ※スロベキア語(英訳:Successful Slovaks in the world - John D. Herts、和訳:「世界で成功したスロバキア人 ジョン・D・ハーツ」)、2023年2月13日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i ORIGO、2018年9月26日付、Egy magyar, aki sárgára festette a taxikat Amerikában※ハンガリー語(英訳:「A Hungarian who painted taxis yellow in America」、和訳:「アメリカでタクシーを黄色にしたハンガリー人」)、2023年2月13日閲覧。
  6. ^ デア・シュピーゲル、1974年2月3日付、Jürgen Thorwaldによる署名記事、Juden in Amerika(ドイツ語)、(和訳:アメリカのユダヤ人)、2023年2月13日閲覧。
  7. ^ “American Jewish life, 1920-1990”、Gurock, Jeffrey S./編、1998、2013、ISBN 978-1136674938google Books版
  8. ^ a b c d e f “Sports and the American Jew”、Riess, Steven A.、Syracuse University Press、Syracuse, N.Y.、1988、ISBN 0815627548アーカイブ版、2023年2月13日閲覧。
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am “Chicago Portraits: New Edition”、June Skinner Sawyers、Northwestern University Press、2012、ISBN 0-8294-0700-6Google Books版、pp.152-153。2023年2月13日閲覧。
  10. ^ Desperate Acts of Capitalism 33. Hertz and the Taxi Wars”. 2020年8月8日閲覧。
  11. ^ Gas-Electric Motorbus Co., Roland Gas-Electric Vehicle Co., New York Motor Bus Co.,...”. Coachbuilt. Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。 “1925 - Hertz is today president of the Yellow Cab Company; chairman of the board of the Yellow Truck and Coach Manufacturing Company; chairman of the Omnibus Corporation of America; chairman of the Chicago Motor Coach Company; chairman of the Fifth Avenue Coach Company; chairman of the New York Transportation Company; chairman of the Yellow Coach Manufacturing Company; chairman of the Yellow Sleeve-Valve Engine Works, Inc.; and chairman of the Benzoline Motor Fuel Company”
  12. ^ Hertz Coachbuild.
  13. ^ Damian Kidder, Lisa (July 28, 2008). Trout Valley, the Hertz Estate, and Curtiss Farm. Arcadia Publishing. pp. 13. ISBN 9780738561608. https://books.google.com/books?id=X0IzWWr1YoEC&q=Leonard+Hertz+jr&pg=PA13 
  14. ^ Losey, Pamela J.; Beene, Shirley J. (January 3, 2011). Cary & Fox River Grove. Arcadia Publishing. ISBN 9781439625798. https://books.google.com/books?id=sIkuEKJbSNoC&q=Fannie+Kesner+hertz&pg=PT143 
  15. ^ Convention Sessions of United Synagogue Closed in Baltimore”. Jewish Telegraph Agency (1926年4月22日). Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。 “Leonard J. Hertz, 17 year-old son of John D. Hertz, of Chicago, head of the Yellow Cab Company, became John D. Hertz, Jr.”
  16. ^ a b Watkins, Nancy (2007年11月25日). “Golden opportunity”. Chicago Tribune Magazine: pp. 31. http://articles.chicagotribune.com/2007-11-25/features/0711180099_1_yellow-cabs-john-hertz-chicago-today 
  17. ^ Thoroughbred Heritage Retrieved October 14, 2016
  18. ^ Notes from Along the Banks of Stoner Creek”. Daily Racing Form at University of Kentucky Archives (1955年6月13日). 2021年5月21日閲覧。
  19. ^ Harness Racing Museum and Hall of Fame Retrieved October 13, 2016
  20. ^ Hunterton Farm & Sales Agency Retrieved October 14, 2016
  21. ^ “John D. Hertz Is Dead on Coast. Led Yellow Cab and Rent-a-Car. Founder of 2 Concerns Was 82 -- Owned Noted Horses, Including Count Fleet”. Associated Press in the New York Times. (1960年10月10日). https://www.nytimes.com/1961/10/10/archives/john-d-hertz-is-dead-on-coast-led-yellow-cab-and-rentacar-founder.html 2010年12月11日閲覧。 
  22. ^ “John Hertz's Widow Dies at 82 in Florida”. Chicago Tribune. (1963年2月5日). https://pqasb.pqarchiver.com/chicagotribune/access/581319662.html?dids=581319662:581319662&FMT=ABS&FMTS=ABS:AI&type=historic&date=Feb+05,+1963&author=&pub=Chicago+Tribune&desc=JOHN+HERTZ'S+WIDOW+DIES+AT+82+IN+FLORIDA&pqatl=google 2010年12月11日閲覧。 

関連項目 編集