スウェーデン・アフリカ会社
スウェーデン・アフリカ会社(スウェーデン語: Svenska Afrikanska Kompaniet)は、1649年に南ネーデルラント(ベルギー)出身のオランダ人(ワロン人)が主導して設立されたスウェーデンの商社である。オランダから移住していた商人ルイス・デ・ギアとその息子のローレンス・デ・ギアが設立した。会社の主業務はスウェーデン領黄金海岸との貿易だった。
カールスボルグ砦(ケープ・コースト城) | |
現地語社名 | Svenska Afrikanska Kompaniet |
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元の種類 | 勅許会社 |
設立 | 1649年 |
創業者 | ルイス・デ・ギア(Louis De Geer) |
解散 | 1663年 |
本社 | ハンブルク, シュターデ, ヨーテボリ |
主要人物 | Laurens De Geer, ヘンドリック・カーロフ(Hendrik Carloff) |
製品 | タバコ、砂糖、金 、アフリカ人奴隷 |
歴史
編集1648年、三十年戦争は終わった。戦争中に第二の祖国であるスウェーデンを支えたデ・ギアは、戦後は海外貿易の拡大を目指していた。1649年、クリスティーナ女王の勅許状に基づいて息子ローレンスとともに、スウェーデン・アフリカ会社を設立した。その拠点はヨーテボリでなくドイツのエルベ川近くのシュターデにおいた。設立に際しては、オランダ西インド会社の元上級管理職であるヘンドリック・カーロフから、アフリカの首長との提携を支援するとの申し出があった。
カーロフは、その費用を賄うために、月額100ギルダーと1オンスの金の給料で指揮官兼取締役として3年契約で雇われた。彼はエルベ川から出航してアフリカに向かい、1650年4月22日に黄金海岸に到着した。カーロフはエフツ人の首長と土地の購入契約を結んだ。同じく交易所の設置についてフェトゥ王のいとこであるヘニクア(Henniqua)と交渉しているロンドン・ギニア会社との対立があった。1650年5月28日、スウェーデンとイングランドの両方が首長との条約に調印した。イングランド人は半年だけの貿易権を得た[1]。
カーロフは1650年にブトレ(Butre)、1651年にアネマボ(Annemabo)、1652年にオルソウ(Orsou)で土地を得た。ヨーロッパへの帰路、1652年9月にカーロフと彼の船「クリスティーナChristina」はイングランド人に捕獲され、プリマスに回航された。彼の船は約20袋の金と6,500本の象牙を運んでいた[2]。金の指輪、ネックレス、ブレスレットは押収されロンドン塔に運ばれた。その間、彼の部下はカールスボルグ砦の建設を開始し、1653年にタコラリー(Tacaray)も領した[要出典]。スウェーデンでは、カーロフは将軍に昇進し、1654年5月3日にCarlofferという名前で騎士になった。彼は1655年にジュモア(アポロニア砦)とカボ(Cabo)でも土地を得た。
一方でブトレはオランダ人に奪われた。オランダは、防衛のために1656年にバテンシュタイン砦(Fort Batenstein)を築いた。
1656年、カーロフは私的貿易で告発され、新しくヨハン・フィリップ・フォン・クルーゼンシュテルンが知事に就任した。怒ったカーロフは植民地を去り、1657年3月27日にデンマークに移った。
その後、彼はデンマーク・アフリカ会社を設立し、スウェーデン人からカーロスボルグ砦を奪った。デンマーク・スウェーデン戦争のため、守備隊がトラブルに巻き込まれた場合、彼はカーロスボルグ砦をオランダに売却するよう命じた。
そのため砦はオランダ人のものとなったが、地元のエフツ人がこれに反発して、砦を再度スウェーデンに提供した。しかし1663年、砦はオランダによって陥落し、スウェーデン領黄金海岸は消滅した。スウェーデン・アフリカ会社も同じく1663年に正式に解散した。
脚注
編集- ^ R. Porter: The Crispe Family and the African Trade in the seventeenth Century, p. ?. In: Journal of African History. 9, 1, 1968, ISSN 0021-8537
- ^ http://www.british-history.ac.uk/report.aspx?compid=55252&strquery=Caarloff