スメルドロシア語: Смерд)とは、9世紀-16世紀のルーシの農民を指す言葉である。元来はキエフ・ルーシの『ルースカヤ・プラウダ』(ルーシ法典)に記述された人民のカテゴリであり、ホロープ(ru)(完全奴隷)とは異なる自由農民であったが、封地制の発達により徐々に農奴化していった。

スメルドという言葉の初出は、『ノヴゴロド第一年代記』(編纂は15世紀)の1016年の記述である[1]ソビエト連邦の歴史学者のB.D.グレコフ(ru)の説では、スメルドは11世紀から14世紀の村のコミュニティの構成員であり、クニャージ(公)に直接従属する農民であるとされた。この説は長く承認されてきたが、しかし、『ルースカヤ・プラウダ』ではキエフ・ルーシ期の農村のコミュニティはヴェルヴィ(ru)ロシア語: Вервь)と呼ばれ、また、その農村のコミュニティの構成員はリュージ(ロシア語: люди)と呼ばれている[注 1]

『ルースカヤ・プラウダ』に基づき、死後相続者のいないスメルドの財産は公が接収した。一方、この時期の死後相続者のいない自由民の財産は、おそらく、コミュニティの構成員によって分配されていた。また、スメルドを殺害した罪に対するヴィーラ(罰金)は一律5グリヴナであり、隷属民であるホロープを殺害した場合と同額だった。一方、リュージの命は40グリヴナのヴィーラによって保護されていた。これは自由民の殺害に対する罰金の標準額であった。

ノヴゴロド公国(ノヴゴロド共和国)のスメルドは国家に従属していた。このスメルドは自分の土地を有し、農場を経営していたが、公に対し租税を納め、労働義務を果たさなければならなかった。公はスメルドに教会を与えること、移住させることができた。また、従来の農民とは異なり、ヴェシ(ru)ではなくセロで生活していた[注 2]

スメルドは兵役を務め、その部隊はラトニク(ru)と呼ばれた[注 3]。ただしA.E.プレスニャコフ(ru)によれば、騎兵のために馬を提供し、兵役ではなく個人参加で歩兵部隊に加わったとされる。また、B.A.ルィバコフ(ru)の説では、個人参加で騎兵部隊に加わったとしている。

より後世には、スメルドという用語は、国の主要な人口層であり、もっとも低い社会層である、いわゆる農民のすべてを指す言葉に意義が拡大した。15世紀にはスメルドは農民層を指す言葉に変わっていたが、さらに16世紀-17世紀には、ツァーリに所属し、正採用の軍務にある人々を指していた。また、ツァーリが人民に対してスメルドという言葉を用いていた。その後、スメルドとは、地主や政権の座にある人々が用いる、農奴制の農民、平民、高貴な身分ではない人々を指す侮蔑的なニュアンスの言葉[5]として使用された。なお、現代ロシア語にはスメルドから派生した[5]、異臭を放つという意味の言葉(ロシア語: смердеть:スミルデーティ)がある 。

脚注 編集

注釈

  1. ^ 「リュージ」は地主層と訳され、ドルジーナ(軍人・官人)・ムージ(都市民・商人)の次に位置する貴族であるという指摘がある[2]
  2. ^ 「ヴェシ」はロシア語: Весьの転写、「セロ」はロシア語: Селоの転写による。どちらも村を意味する言葉であるが、「セロ」は付近の中心的な村、また帝政ロシア時代には教会のある村を指す [3]
  3. ^ 「ラトニク」はロシア語: Ратникの転写による。なお、キエフ・ルーシ期の軍隊はドルジーナの部隊、遊牧民の傭兵隊、都市・農村民からなる部隊があった[4]

出典

  1. ^ 和田春樹『ロシア史』p38
  2. ^ 伊東孝之『ポーランド・ウクライナ・バルト史』p103
  3. ^ 井桁貞義『コンサイス露和辞典』p983
  4. ^ 伊東孝之『ポーランド・ウクライナ・バルト史』p102
  5. ^ a b 井桁貞義『コンサイス露和辞典』p1019

参考文献 編集

  • Рыбаков Б. А. Киевская Русь и русские княжества 12-13 веков — М.: Наука, 1993
  • Пресняков А. Е. Княжое право в Древней Руси. Лекции по русской истории. Киевская Русь — М.: Наука, 1993
  • 和田春樹編 『ロシア史』 山川出版社、2002年。
  • 伊東孝之他編 『ポーランド・ウクライナ・バルト史』 山川出版社、1998年。
  • 井桁貞義編 『コンサイス露和辞典』 三省堂、2009年。