スレデツ (ブルガス州)

ブルガリアの町

座標: 北緯42度21分 東経27度12分 / 北緯42.350度 東経27.200度 / 42.350; 27.200

スレデツブルガリア語: Средѐц、ラテン文字転写:Sredets)はブルガリア南東部の町、およびそれを中心とした基礎自治体ブルガス州に属する。

スレデツ
Средец
スレデツの位置(ブルガリア内)
スレデツ
スレデツ
ブルガリア内のスレデツの位置
 ブルガリア
州(オブラスト)ブルガス州
基礎自治体スレデツ
自治体全域の人口16253[1]
(2009年06月15日現在)
町の人口9430[2]
(2009年06月15日現在)
ナンバープレートA
標高47 m
標準時EETUTC+2
夏時間EESTUTC+3
市長Todor Proykov

地理 編集

スレデツはマンドレンスコ湖(Mandrensko)の近く、ストランジャ山脈(СтранджаStrandzha、トルコ語:ユルドゥズ・ダーラル Yıldız Dağları、またはウストランジャ Istranca)の北側斜面に位置している。スレデツの町は、オスマン帝国支配下の時代にはカラブナル(Karabunar)、共産主義政権支配下の1960年から民主化後の1992年にかけてはグルドヴォГрудовоGrudovo)と呼ばれた。

歴史 編集

スレデツの地域には古代より人の居住が確認されており、また中世のブルガリア帝国、およびビザンティン帝国の要塞も存在していたが、現代のスレデツは1595年にこの地を訪れた外国人、そして1676年から1732年にかけてのオスマン帝国の徴税人によって築かれたものである。

スウェーデンカール12世1713年コンスタンティノポリスへ向かうためにこの地に滞在した。また、正教会神品ブルガリア民族復興の英雄、後に聖人に列せられたヴラツァのソフロニイ(ブルガリア語:Софроний ВрачанскиSofroniy Vrachanski英語:ソフロニウス Sophronius of Vratsa)は1792年から1793年にかけて教師としてこの地で働いた。1827年ロシア帝国の軍によって町は純粋にブルガリア人のみのものとし、その後、ブルガリア民族復興の英雄ヴァシル・レフスキ1868年にこの地を訪れている。

ブルガリアがオスマン帝国から独立した1878年以降、1934年に町の名前はスレデツに改名された。ブルガリア共産党によって1923年に引き起こされた9月蜂起の指導者であるトドル・グルドフ(Тодор ГрудовTodor Grudov)にちなんで、共産党統治時代の1960年に町の名前はグルドヴォに改名された。共産主義体制が崩壊し、民主化された後の1992年、町の名称は再びスレデツに戻された。2015年トルコからブルガリアに移入しようとしたアフガニスタン難民が射殺されるブルガリア難民射殺事件が起きる[1]


町村 編集

スレデツ基礎自治体(Община Средец)には、その中心であるスレデツをはじめ、以下の町村(集落)が存在している。

脚注 編集

  1. ^Главна Дирекция - Гражданска Регистрация и Административно Обслужване (2009年6月15日). “Таблица на населението по постоянен и настоящ адрес” (ブルガリア語). 2009年7月30日閲覧。

参考文献 編集