1930年に開催されたスラヴ叙事詩展覧会のポスター
1930年にブルノで開催されたスラヴ叙事詩展覧会のポスター(少女の背後にスヴェントヴィトが描かれている)
アルテンキルヒェン(リューゲン島の北部)のスヴェントヴィトのレリーフ(浮彫)

スヴェントヴィト[1]ウクライナ語: Святовитラテン文字転記:Sventovit[1])は、バルト海沿岸の西スラヴ諸族に信仰された[2]

日本では神名の表記が非常に混乱しており、スヴャトヴィト[3](ラテン文字転記:Sviatovit[要出典])、スヴァトヴィート[4]スヴァントヴィート[5]スヴァントヴィト[6]などとも呼ばれる。

解説編集

12世紀の聖職者ヘルモルド英語版により「神々の神」と記されていることから、バルト海沿岸のスラヴ人(西スラブ人)の最高神だったという説もある[1]。また、スラヴ民族に古くから伝わる神が、スカンディナヴィアゲルマンの軍神の要素を取り込んだものではないかとも考えられている[3]

 
1169年、アルコナ英語版において、司教アブサロンがスヴェントヴィトの神像を打ち倒した

スヴェントヴィトの神殿はバルト海のリューゲン島北端のアルコナ英語版にあった。そこで祀られていた神像は8mもの高さの巨大なもので[7]、東西南北の支配を象徴する四方を向いた4つの顔を持っていた[1][4]。また、右手には酒を満たした牡牛の角を持っており、司祭が年に1度酒の量を確認して、残量が多ければ翌年は豊作、少なければ凶作だと占ったこと[8]から、スヴェントヴィトは豊穣の神であったと考えられている[1][3]。一方スヴェントヴィトは、槍や、鷲をあしらった徽章などを付属物としており[1]、この神像の近くに剣や馬具、軍旗も置かれていたことから、軍神であったとも考えられている[3]。戦闘の前には、スヴェントヴィトの軍旗が司祭[注釈 1]によって戦士達に示された[3][10]。そして戦士達は戦闘で得た金品の一部をスヴェントヴィトに捧げたとされている[3]。スヴェントヴィトの神殿は12世紀まで人々の信仰を集めていた[7]

12世紀の歴史家サクソ・グラマティクスの記したところでは、スヴェントヴィトは白馬に乗って敵と戦うという[1]。神殿には神の馬として1頭の白馬が飼われており[3][7]、地面にたくさんの槍を立てた中をこの馬を通り抜けさせることで吉凶を占ったという[10]

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ アレグザンスキーによれば、スヴェントヴィトが祀られたアルコナには神殿と司祭があったが、他のスラヴ地域ではそうした要素が認められない。ペルーンなどキエフの神像も、神殿ではなく露天で祀られ、司祭の役割は軍事的な指導者でもある大公が担っていたと指摘している[9]

出典編集

参考文献編集

  • アレグザンスキー, G.「スラヴの神話」『ロシアの神話』ギラン,フェリックス編、小海永二訳、青土社〈シリーズ世界の神話〉、1993年10月、新版、pp.5-92。ISBN 978-4-7917-5276-8
  • 稲葉義明他「スヴャトヴィト」『西洋神名事典』山北篤監修、新紀元社〈ファンタジー事典シリーズ〉、1999年11月、p. 114。ISBN 978-4-88317-342-6
  • 清水睦夫「ロシア国家の起源」『ロシア史 1 9世紀-17世紀』田中陽兒、倉持俊一、和田春樹編、山川出版社〈世界歴史大系〉、1995年9月。ISBN 978-4-634-46060-7
  • 中堀正洋「スヴェントヴィト」『神の文化史事典』松村一男ほか編、白水社、2013年2月、p. 279。ISBN 978-4-560-08265-2
  • 和田義浩「スラヴ神話」『世界の神話がわかる〈民族の聖なる神と人の物語〉を探究する!』吉田敦彦監修、日本文芸社〈知の探究シリーズ〉、1997年8月、pp. 146-152。ISBN 978-4-537-07811-4
  • 国立新美術館「スラヴ叙事詩」『ミュシャ展』NHK、求龍堂、2017年3月、pp. 42-129。ISBN 978-4-7630-1703-1
  • 大友義博他「ミュシャとスラブ叙事詩」『もっと知りたいミュシャの世界』ミュシャ財団協力、宝島社、2017年4月、pp. 10-35。ISBN 978-4-8002-6906-5

関連項目編集