セシル・ド・フランス

セシル・ド・フランスCécile de France1097年 - 1145年以降死亡)は、カペー家の女性。フランスフィリップ1世ベルトラード・ド・モンフォールの娘。

セシル・ド・フランス
Cécile de France
アンティオキア公国摂政の妃
トリポリ伯妃
BNF, Mss fr 68, folio 143.jpg

出生 1097年
死去 1145年
埋葬 Vexillum Regni Hierosolymae.svg エルサレム王国聖墳墓教会
配偶者 アンティオキア公国摂政タンクレード
  トリポリ伯ポンス2世
子女 トリポリ伯レーモン2世
家名 カペー家
父親 フィリップ1世
母親 ベルトラード・ド・モンフォール
宗教 キリスト教カトリック
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生涯編集

セシルが誕生した時、彼女の両親はそれぞれ前の配偶者との離婚が成立しておらず、重婚状態であったため、彼女は庶子とみなされた。彼らの先の結婚が聖職者の集会で無効とされたが、シャルトル司教イヴと当時のローマ教皇ウルバヌス2世は2人のそれぞれの結婚の無効と再婚に反対し、2人を破門した。セシルが正嫡として認められたのは、1104年にベルトラードが教皇の決定に従ってフォントヴロー修道院に隠退し、破門が解かれた際であった。

1106年、アンティオキア公で第一回十字軍の騎士ボエモン・ド・タラントは、支援を求めてヨーロッパへ行き、セシルの異母姉であるコンスタンスと結婚した。ボエモンは自らの名声と幸運を利用して、自らの甥であるタンクレードとセシルの結婚交渉を同時に行った。タンクレードは当時アンティオキア公国の摂政であった。公は当代きっての勇猛な騎士を迎え、エルサレム占領後ずっと彼はゴドフロワ・ド・ブイヨンに同行して出征し、ガリラヤ公国を占領した。ゴドフロワの弟で後継者であるボードゥアンが同意しなかったので、彼はアンティオキアにつながるガリラヤを割譲し、叔父が不在の間の摂政をタンクレードに務めさせた。

セシルは婚約者と合流するため、海路でアンティオキアへ向かった。東ローマ帝国皇帝アレクシオス1世コムネノスは、フランスとアンティオキアの同盟が帝国と敵対するのではと恐れ[1]、同盟の成立を防ぐためにジェノヴァ共和国、ピサ共和国、ヴェネツィア共和国に船を迎撃する要請したが、迎撃したとは伝えられていない。アンティオキアに到着したセシルは、1106年の終わりにタンクレードと結婚した。

ドゥラッツォでアレクシオス1世コムネノスによって打撃を受けたボエモンは、タンクレードが摂政を務めるアンティオキアに戻ることなく、1111年に死去しタンクレードが公位を継承した。しかし、タンクレードは大流行していた腸チフスに感染し、自分の死期が迫っていることを自覚し、死の床で、セシルにトリポリ伯ポンスと結婚するよう要請した。それは、聖地における十字軍の行動を害していた、アンティオキアとトリポリ2か国の対立に終止符を打つためであった。

セシルとポンスの結婚は1112年にトリポリで行われ、その後1116年にセシルは将来トリポリ伯となるレーモンを出産した。1132年、モンフェラン要塞はトルコ人集団に包囲されていた。ポンスは敵に攻城戦を仕向けたが、後退して要塞に避難しなければならなかった。この知らせを聞いたセシルは、トルコ人集団を退却させることができるエルサレムフルク・ダンジューに警告するために、躊躇せずエルサレムへ向かった[2][3]

1137年にポンスが死去すると、セシルは寡婦資産としてジベレ領を要求したが、実際にはシャステル・ルージュとアルズガンを受け取った。彼女は聖墳墓のため寄付を行った1139年に名前が現れ、1145年以降歴史から姿を消した。

脚注編集

  1. ^ ボエモンは対東ローマ遠征を迅速に組織したが、1107年にドゥラッツォの戦いで敗れた
  2. ^ セシルの母ベルトラードは、フィリップ1世と結婚する以前は、アンジュー伯フルク4世の妻であった。セシルとフルク・ダンジューは同じ母から生まれた異父兄妹である。
  3. ^ エストワール・デラクレス(Estoire d'Éraclès)より