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本来の表記は「褚翜」です。この記事に付けられた題名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。
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褚翜(ちょ しょう、275年 - 341年)は、中国晋代官僚政治家は謀遠。本貫河南郡陽翟県褚裒の従兄。

経歴編集

褚頠(尚書褚䂮の子)の子として生まれた。関内侯の爵位を嗣ぎ、冠軍参軍に任じられた。ときに長沙王司馬乂が朝政を専断しており、成都王司馬穎と河間王司馬顒が兵を率いて外任にあって、波乱が予想されたので、褚翜は官を棄てて幽州の地に避難した。後に河北でも兵乱が起こると、褚翜は郷里に帰った。河南尹により行陽翟県事に推挙された。八王の乱の混乱を避けるべく、褚翜は同志を集めて長江を南に渡ろうと、まず陽城県の境に移住した。褚翜の母の兄弟の庾敳が一家を率いて褚翜に従った。しかし交通が遮断されていたため、それ以上南下することができなかった。東海王司馬越に参軍として召されたが、病と称して断り、就任しなかった。

311年永嘉5年)、洛陽が漢(前趙)の劉聡に攻め落とされると、褚翜は滎陽郡太守郭秀とともに万氏台を守った。郭秀は部下を統御することができず、部将の陳撫や郭重らに攻撃された。褚翜は禍が及ぶのを恐れて、陳撫らを説得して、郭秀と和解させた。当時、数万人が褚翜を頼って安全を確保した。

312年(永嘉6年)、褚翜は数千家を率いて東下を図ったが、交通が遮断されて進むことができず、密県に留まった。司隸校尉の荀組に召されて参軍・広威将軍となり、また陽翟県令を兼ね、都督新城梁陽城三郡諸軍事をつとめた。ほどなく都督のまま、司隷司馬に転じた。人々を率いて汝水の淝口まで進んだが、また反乱に通行を妨げられた。褚翜は単騎で許昌に入り、司空荀藩と面会すると、振威将軍となり、梁国内史を代行した。

313年建興元年)、豫州司馬となり、都督司州諸軍事をつとめた。太傅参軍の王玄が褚翜の代わりに梁国内史として赴任してきたが、王玄の統治が性急で厳しいものであったため、梁国の部将の耿奴が王玄の命令を聞かなかった。そのことを知った褚翜は、刑罰の濫用を慎むよう王玄に忠告した。王玄は外面では褚翜の言を聞き入れたが、内心では不満を抱いていた。王玄が陳留郡太守に転じると、出立にあたって耿奴を捕らえて斬った。耿奴の旧部下たちは兵を集めて王玄を襲撃して殺した。梁国は内部でこのように混乱していたが、外では徐州の反乱軍の張平らが襲撃を計画していた。荀組が褚翜を派遣して梁国の混乱を収めさせると、民心は安定するようになった。ほどなく荀組が褚翜を吏部郎に推挙したが、褚翜は召しに応じず、ようやく長江を南に渡った。

317年建武元年)、琅邪王司馬睿が晋王となると、褚翜はその下で散騎郎となった。太子中庶子に転じ、奮威将軍・淮南国内史として出向した。322年永昌元年)、王敦が反乱を起こすと、褚翜は征西将軍の戴淵に反乱討伐の出陣を命じられたため、部将に500人を率いて従軍させた。明帝が即位すると、褚翜は建康に召還されて屯騎校尉に任じられ、太子左衛率に転じた。成帝の初年、左衛将軍となった。328年咸和3年)、蘇峻の乱のために建康の朝廷が危うくなると、褚翜は侍中・典征討軍事となった。官軍が敗北すると、褚翜は王導の命に従って、成帝を抱えて太極前殿に登り、鍾雅や劉超らともに成帝の左右に侍立した。蘇峻の兵が宮城に入ったが、褚翜が直立不動で叱咤したため、反乱兵もあえて殿に上ろうとはしなかった。蘇峻が建康を掌握すると、褚翜は侍中のまま、成帝に従って石頭城に移った。329年(咸和4年)、陸曄らとともに苑城に移った。蘇逸や任譲らの包囲を受けたが、褚翜らは苑城を固く守った。反乱が鎮圧されると、褚翜は功績により長平県伯に封じられ、丹陽尹に転じた。反乱直後の建康は荒れ果てていたが、褚翜は逃げ散った人々を呼び集めて再建に尽力し、善政で知られた。

庾亮に代わって中護軍となり、石頭に駐屯した。ほどなく領軍となり、五兵尚書に転じ、奉車都尉の任を加えられ、監新宮事をつとめた。尚書右僕射となり、尚書左僕射に転じ、散騎常侍の位を加えられた。長らくを経て、散騎常侍のまま何充に代わって護軍将軍となった。341年咸康7年)に死去した。享年は67。衛将軍の位を追贈された。は穆といった。

子の褚希が後を嗣ぎ、官は豫章郡太守に上った。

伝記資料編集