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テイラークラフト (Taylorcraft) は、アメリカ合衆国軽飛行機メーカーである。1935年にクラレンス・ギルバート・テイラー英語版によって設立された。

テイラークラフト
Taylorcraft
業種 航空機/軽飛行機製造
設立 1935年[1]
本社 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国,
テキサス州ブラウンズビル
主要人物 ギルバート・テイラー英語版
ウェブサイト www.taylorcraft.com
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歴史編集

1926年に、アメリカ合衆国に移民した両親の元に生まれたイギリス人航空機技術者クラレンス・ギルバート・テイラー英語版とその弟のゴードン・テイラーがニューヨーク州ロチェスターで"テイラー・ブラザーズ・エアクラフト・コーポレーション" (Taylor Brothers Aircraft Corporation)を設立した。テイラー兄弟は最初の製品として"チャミー"ドイツ語版と呼ばれる2人乗りの小型機を1機4,000ドルで販売したが、これは6機のみ製造された。

1928年に航空機事故でゴードン・テイラーが亡くなった後、ギルバート・テイラーは工場をペンシルベニア州ブラッドフォードに移転した。この時、ブラッドフォードでの新工場設立の出資者の一人が、後にパイパー・エアクラフトのオーナーとなる実業家のウィリアム・T・パイパー英語版であった[2]

テイラーは新型機として"カブ"英語版と呼ばれる小型機の開発を進めており、1930年9月12日に初飛行に成功したが、テイラーの会社は資金難に陥り一度倒産してしまった。このためパイパーが出資して新たに"テイラー・エアクラフト・カンパニー"(Taylor Aircraft Company)として再出発し、パイパーも役員兼管財人となった。

テイラー・エアクラフトはカブを改良しながら生産を続けたが再度経営難となり、またテイラーの病気療養中にパイパーの命令で別の若い技術者であったウォルター・ジャモウニュー英語版がカブの設計改良を行い、復帰したテイラーがジャモウニューを解雇しようとした事などから二人の仲は険悪になり、最終的にカブの製造権はパイパーがペンシルベニア州ロックヘブン英語版に設立した新会社であるパイパー・エアクラフトに移ってしまった[3][1]。パイパー・エアクラフトはこの後、ジャモウニューの改良によりJ-2、J-3として知られるパイパー "カブ"シリーズを成功させたが、テイラー自身はカブより優れた飛行機を創ると誓い、パイパーと別れ1935年に再度自身の新会社として、"テイラー・エアクラフト"を立ち上げた。

新たな出資者を探していたテイラーは1936年にオハイオ州アライアンス英語版に工場を移転した。アライアンス市が、以前別のメーカーが複葉機を製造していた工場を半年間無料で貸し、その後良ければ48,000ドルで買わないかと持ちかけてきたためであった。テイラーはここで新しいパートナー、ウィリアム・C・ヤングと共に"テイラー・ヤング・エアプレーン・コーポレーション" (Taylor-Young Airplane Corporation)として活動を始めた。

1938年にはイギリスの子会社として"テイラークラフト・エアロプレーンズ・イングランド" (Taylorcraft Aeroplanes England Limited, ブリティッシュ・テイラークラフトとしても知られる) が設立され、1939年にはテイラー・ヤング・エアプレーンは"テイラークラフト" (Taylorcraft)に社名を変更した。

第二次世界大戦中、テイラークラフトの製造したL-2 "グラスホッパー"英語版はライバル社となったパイパーのL-4 "グラスホッパー"と共にアメリカ陸軍航空軍観測機連絡機として運用され、また英国子会社のテイラークラフト・エアロプレーンズが製造した"オースター"シリーズはイギリス軍カナダ軍観測機連絡機として運用された。

第二次世界大戦後は需要が急速に縮小し、1946年にはテイラークラフトは再度倒産した[4]。1949年になってテイラーは旧会社の資産を買い取り、ペンシルベニア州コンウェイ英語版を本社とする"テイラークラフト・インコーポレイテッド" (Taylorcraft Incorporated) として再建した[4]。テイラークラフトはモデル20シリーズ英語版などの航空機の製造を再開したが需要は少なく、程なく工場の操業は停止してしまった[4]

1965年になると、チャールズ・フェリスとドロシー・フェリスの夫妻がテイラークラフトのオーナー権を購入し、1971年頃から"テイラークラフト・アビエーション" (Taylorcraft Incorporated) としてモデルF-19 "スポーツマン"ドイツ語版の生産を再開した。その後70年代中頃にチャールズ・フェリスが死去したが、ドロシー・フェリスはオーナーを続け、生産も1985年まで細々と続けられた。

1985年にはチャールズ・ラックルが会社を買い取りペンシルベニア州ロックヘブン英語版に工場を移転したが、翌1986年には会社は再度倒産し、資産は売りに出された。

テイラークラフトはその後も何度かオーナーが変わっているが、現在も組織としては存続しており、事業所はテキサス州ブラウンズビルに拠点を置く。航空機の新規開発や製造は行っておらず、既存機種のパーツや図面の供給などを行っている[5]

機種編集

 
テイラー カブ
 
L-2 グラスホッパー
 
テイラークラフト F-21


脚注・出典編集

  1. ^ a b The Pittsburgh Press, Move Stated to Bring Plane Factory Here, July 22, 1947
  2. ^ Aeroplane Monthly - April 1987 issue - For Business And Pleasure article, P. 188
  3. ^ Donald, David, ed. Encyclopedia of World Aircraft (Etobicoke, Ontario: Prospero Books, 1997), p.874, "Taylor Chummy and Cub".
  4. ^ a b c Simpson 1991, pp. 323-325
  5. ^ Niles, Russ (2008年3月). “Taylorcraft Repossessed: Strut Customers Contacted”. 2008年3月10日閲覧。

参考文献編集

  • Peek, Chet The Taylorcraft Story, Aviation Heritage Library Series/Sunshine House, Inc., Terre Haute, IN. 1993 978-0943691084
  • Fromow, Lt-Col. D.L. Canada's Flying Gunners, Air Observation Post Pilot's Association, Ottawa, Canada. 2002. 0-9730055-0-5
  • Simpson, R.W Airlife's General Aviation, Airlife Publishing, England, 1991. 1-85310-194-X

関連項目編集

外部リンク編集