トミー・キャロル

アメリカの銀行強盗

トミー・キャロル(英:Thomas Leonard Carroll, 1900年11月28日 - 1934年6月7日)は、アメリカ合衆国のギャング。ボクサーから犯罪者に転身し、連続銀行強盗で全米で名を馳せたデリンジャーギャングのメンバーとなった。

トミー・レナード・キャロル
Thomas Leonard Carroll
1933年のマグショット
生誕 1900年11月28日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国モンタナ州カーボン郡レッドロッジ
現況 死没(34歳)
死没 1934年6月7日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国アイオワ州ブラックホーク郡ウォータールー
別名 トミー(Tommy)
職業 ギャング
罪名 銀行強盗、殺人、自動車盗
刑罰 射殺
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略歴 編集

若い頃 編集

1900年11月28日、モンタナ州南部のレッドロッジで生まれた。若くしてボクサーになり、リングで顎の骨を骨折したことから「ランタン・ジョー”Lantern Jaw”」と呼ばれた。その後第一次世界大戦で従軍した。

1920年1月に初めて逮捕され60日間服役し、翌年10月の窃盗で少年院に1年間服役した。1924年から1927年にかけてミズーリ州オクラホマ州を中心に強盗や自動車盗などで5度逮捕されるが、いずれも不起訴かすぐに仮釈放となった。次に自動車盗で逮捕されたときは盗難車で州を越えたため、全米自動車盗難法(通称ダイアー法)の対象となりレベンワース刑務所に1年9ヶ月服役した。

こうして小さな犯罪を繰り返すうちに、本格的な犯罪集団に加わりたいと考え始めた。

ギャングの仲間入り 編集

1933年10月23日、トミー・キャロルはホーマー・ヴァン・メーターベビーフェイス・ネルソン、ジョン・ポール・チェイス、チャールズ・フィッシャーらと組んで、ミネソタ州ブレイナードの銀行で3万2千ドル(現在の約67万ドル)を強奪した。

12月11日、ベビーフェイス・ネルソンに用事を頼まれテキサス州サンアントニオに向かった。ガンスミスのハイマン・リーマン(Hyman S. Lehman)に注文してあったマシンピストルを受け取りに行ったのだが、サンアントニオ警察のヘンリー・ペロー刑事(56)に見つかり、撃ち合いの末その刑事を射殺した[1]

1934年2月、ヴァン・メーターはキャロルをインディアナ州クラウンポイントに派遣した。目的は拘置所に入れられているジョン・デリンジャーを脱獄させるための下見、あるいは関係者に賄賂を届けたのだろうと考えられている。まだ新人のキャロルはデリンジャーギャングのメンバーと認識されておらず、町へは容易に出入りが出来た。

デリンジャーギャング時代 編集

3月3日にデリンジャーがクラウンポイントの拘置所を脱走し、シカゴで彼らと合流した。その3日後にサウスダコタ州スーフォールズの銀行を襲うが、この強盗でキャロルは道路の見張りを任されトンプソン短機関銃で警官を足止めした。ベビーフェイス・ネルソンが銀行の窓ガラス越しにトンプソンを撃ち白バイ警官を負傷させたのもこのときである。

3月13日にはアイオワ州メイソンシティのファーストナショナル銀行を襲撃し、5万2千ドルの強奪に成功するが、デリンジャーとレッド・ハミルトンが負傷したためしばらく姿を消すことにした。

翌月、デリンジャーギャングと共にはウィスコンシン州リトル・ボヘミア・ロッジに隠伏した。キャロルの恋人ジーン・デラニーも一緒だった。1934年4月22日の夜、メルヴィン・パーヴィス率いる捜査局(後のFBI)に包囲され銃撃戦の末に一味は森の中へ逃げた。森の中で仲間とはぐれたキャロルは近くの集落で車を盗み、最終的にミネソタ州セントポールに辿り着いた。

デラニーは逮捕され保護観察処分となったが、監察官から逃げ出して翌月キャロルと再会した。

最期 編集

1934年6月7日、アイオワ州シーダーラピッズに潜伏していたトミー・キャロルと恋人ジーン・デラニーは、北西約80キロのウォータールーに買い物に出かけた。

愛車のハドソンを整備のためガソリンスタンドに預けたあと、10時半頃に遅い朝食をとった。デラニーはトースト、目玉焼き、コーヒーを注文し、キャロルは目玉焼き3個、ハム、グリッツ、トースト、ブルーベリーパイを注文しコーヒーをお代わりした[2]。これがキャロルの最後の食事となった。

イースト4st.226番地の洋服店でデラニーの夏用の服を買い、デラニーの眼鏡を作るため予約しておいた眼医者に行き、午後にガソリンスタンドに戻った。だがガソリンスタンドの整備士は後部座席の床に隠してあった数枚の他州のナンバープレートに気が付いた。彼らが去ったあと車種とナンバーを警察に通報した[3]

すぐにウォータールー警察の刑事2名が捜索に出るが、見付からないまま警察署に戻った。駐車場でふと道路を見ると偶然にもその車が停まっており、向かいのビアパーラーから出てきた男女が車の方に歩いて来た。キャロルは助手席のドアを開けてデラニーを座らせ、近付いてくる2人の刑事のほうをちらりと見た。刑事は「ちょっと待て、名前は?」と聞き「そっちは?」とキャロルも聞き返した。「警察だ」。

キャロルが拳銃に手を伸ばしたので刑事は咄嗟に顔を殴った。一瞬よろけたがすぐに立ち上がり、歩道に走り出て再び拳銃を構えようとしたのでもう1人の刑事が発砲し、弾丸は左脇腹に命中した。銃を落としたキャロルは路地のほうに走ろうとしたが、デラニーの叫び声で振り返ったところを2人の刑事がさらに4発発砲、1発は第4腰椎を砕き2発が胸の辺りに命中した。

路地に倒れたキャロルは名前を白状し、刑事が言い残すことはないか聞くと「両親はもういない」と答えた。

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キャロルは救急車でセントフランシス病院に運び込まれ、治療室に検察官と新聞記者が呼ばれた。記者が話しかけると呼吸を荒げながら「やられたよ相棒」とだけ言い、司祭を呼ぼうかと尋ねると感謝の意を述べた。

そのあと記者は留置所にいるジーン・デラニーに会いに行った。デラニーは「彼を愛してる。会いに行くから死なないでと伝えてください。ここへは眼鏡を作るために来ただけだった」と記者に話した。

18時45分、記者が病院に戻る直前にキャロルは死んだ。記者はデラニーが気の毒になり「彼にはちゃんと伝えた」と嘘をついた。キャロルが死んだと聞くと、横にいた密造酒で逮捕された女にすがりつき気を失ったという。

キャロルはセントポールのオークランド墓地に埋葬された。1940年代に墓標が無くなったが修復されないままである。

恋人ジーン・デラニー 編集

恋人のジーン・デラニー(英:Jean Delaney)は、アルヴィン・カーピスの恋人ドロレス・デラニーの妹である。夫のエディ・クロンプトン(1904-1940)とは別居中だった。クロンプトンはナイトクラブの歌手兼ウェイターで、シカゴのマフィアの一員でもあった。

小柄で太るのを気にするようなごく普通の女性だったという。もともと金髪だが逮捕時は髪を黒く染めていたが、変装ではなく単に金髪に飽きたからだと供述している。

読書が好きでミネアポリス図書館を頻繁に利用しており、リトル・ボヘミア・ロッジに行ったときもこの図書館の本を持参していた。図書館カードの名前は「ジーン・レーン」という偽名だった。会話をした新聞記者は彼女に好印象を持ち「ギャングを取巻く尻軽女とは全く違うタイプの女性だ」と新聞に書いた。

裁判で犯罪者の隠匿および仮釈放違反の罪で懲役1年の刑を言い渡された。キャロルの子を宿っていたがその後流産した。刑期を終えて1935年にエディ・クロンプトンと正式に離婚した[4]。(クロンプトンはマフィアの抗争に巻き込まれ1940年に殺害された[5])  デラニーのその後の消息はわかっていない。

登場する作品 編集

  • デリンジャー」”Dillinger” 演 - ジェリー・サマーズ(1973年の映画)
※スーフォールズの銀行強盗で負傷し、捜査局の拷問でリトルボヘミアロッジを白状する筋書きになっている。

脚注 編集

出典 編集

  1. ^ Tommy Carroll2” (英語). Babyface nelson journal. 2024年4月10日閲覧。
  2. ^ Tommy Carroll3” (英語). Babyface nelson journal. 2024年1月22日閲覧。
  3. ^ Tommy Carroll3” (英語). Babyface nelson journal. 2024年1月19日閲覧。
  4. ^ 名前。生年。死亡年。「Find a Grave」 メモリアル”. ja.findagrave.com. 2024年1月19日閲覧。
  5. ^ 名前。生年。死亡年。「Find a Grave」 メモリアル”. ja.findagrave.com. 2024年1月23日閲覧。