ノート:チベット/過去ログ2

最新のコメント:14 年前 | トピック:いんどねしあ氏に典拠の提示をお願い | 投稿者:Dalaibaatur
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全般に関するメモ

  • ダライラマは完全な自治を求めてるんだって。 今日もニュースで言ってたでしょ。--以上の署名のないコメントは、220.210.159.40会話)さんが 2003年11月4日 (火) 09:32 に投稿したものです。
  • 参考書籍に「第三の眼」はまずいでしょう。あきらかな偽書なんだし。関連書籍ならまだしもCorwin23:35 2004年4月1日 (UTC)
  • 歴史の項目について、古代以来の流れを概観できる目次をたててみました。識者による訂正歓迎。順次各項を執筆してゆきます。現在、目次に提示した各項目のうち、二項目(吐蕃王朝、グシハン王朝)はすでに独立項目として存在し、現代史関連の二項目は、本文中に存在します。今後の方向としては、新たに執筆する各項は独立項目としてたてる、現在史関係の二項目も独立項目とする、というのが妥当かと思われますが、いかがですか? Dalaibaatur 2005年1月9日(日)05:14 (UTC)署名補訂--Ziman 2008年4月7日 (月) 06:49 (UTC)
ノートに無署名でコメントをするのもマナー違反ですが、コメントを整理する際には署名の後始末(署名のあるものは形式を変更しないことも含めて)をキチンとしていただきたい。--210.139.175.139 2008年3月25日 (火) 01:27 (UTC)

2008年3月のチベット大虐殺

  • 今後も編集合戦が起きそうなので、記事内容を3月以前のものに戻した上で、記事を保護したほうがよいのではないでしょうか?--Triple delight 2008年3月17日 (月) 09:25 (UTC)
    • 冒頭『チベット独立の運動が~』コメントアウトしました。2008年3月以降の騒乱を受けて書かれていると思われますが、5W1H をはっきりさせてほしい。また、脚注の記事が出典になっていないです。(独立運動とあるのに、脚注記事では『自治を求める』『分離は求めていない』。大量資源に関する記述もなし。)現在進行形でもあるので、もうしばらく推移を見守ったほうがよさそうです。--えーす 2008年3月19日 (水) 05:12 (UTC)
  • 保護された記事の冒頭に「チベット族の大量虐殺を行った。」とありますが、「チベット族」と書くと、単に中国の少数民族のひとつと読み取られます。ここは「チベット人の大量虐殺を行った。」と書き換えて、チベットがあくまでも独立した国家・民族であることを示すべきではないでしょうか? それとも保護された方は、中国政府の主張のみを正しいと判断されているのでしょうか?--122.249.37.169 2008年3月21日 (金) 15:44 (UTC)

大虐殺、というのは誇張しすぎでしょ --222.12.180.214 2008年4月6日 (日) 15:38 (UTC)

チベットは正式な中国の領土です--以上の署名のないコメントは、118.7.252.9会話)さんが 2008年5月26日 (月) 16:23(UTC) に投稿したものです(Kliment A.K.による付記)。

チベットが中国の正式領土だろうと、植民地だろうと、「チベットがあくまでも独立した国家」というのは、百科事典としては受け入れられない、「事実に反した表記」でしょうね。チベット支持派の方の気持ちはわかりますけど・・。「中華人民共和国の領土の一部に組み込まれているが、チベット亡命政府は高度な自治を求めている」というのが現状では最も適した表現でしょう。ダライラマ14世も「高度な自治を求めているが、独立は求めていない」と表明していますし、亡命政府も「中道のアプローチ」によって「チベット人はチベットが独立することを求めているのではありません。これらふたつの意志の中道を歩む道として、チベットの三地域に暮らすすべてのチベット人が中華人民共和国という枠組みのなかで真の自治を得るために掲げられた政策が中道のアプローチです。」と表明しているではありませんか。「チベットはかつて独立した国家であった」なら事実です。-Bergmann 2008年5月31日 (土) 16:37 (UTC)

西暦821-823にかけてチベットと中国が締結した平和条約なんかは、完全に「対等・平等な2カ国間条約」の形式がととのっています。--Dalaibaatur 2009年11月16日 (月) 15:39 (UTC)

チベットの歴史

東トルキスタンの歴史新疆ウイグル自治区#歴史ウイグル人#歴史新疆省東トルキスタン共和国とバラバラながらもありますが、チベットの歴史チベット自治区#歴史モンゴル帝国以降の概略とチベット自治区成立からのものしかありません。(節でも結構なのですがこの記事が保護されている現状では単独記事で)まとまった解説が欲しいところです。--58.87.254.190 2008年4月5日 (土) 00:31 (UTC)

奴隷制の記述があってもいい気もします--210.238.167.216 2008年5月30日 (金) 15:41 (UTC)

冒頭について

冒頭の記述が百科事典らしき定義になっていないと思うのですが…--田牧 2008年5月11日 (日) 04:59 (UTC)

同じく定義部分に
>古代から独立国家であったが、清による支配を受け、清の滅亡後、再び独立国家となるが1950年に中国人民解放軍による侵略を受け、チベットは軍事制圧された。
とか訳のわからない文章が出てくるのは何なんでしょうか。チベットと中国との関係は複雑であり、一つの文章で表せるようなものではありません。少なくとも「独立国家」などという近代思想で清以前のチベット中国関係を表すのははなはだ不適切です。現在の「古代から・・・異議申し立てが行われている」を削除し、「チベットとは国家・地域・民族の名である。地域の範囲としては現在の中華人民共和国チベット自治区を中心とする地域である。」といった(文案は適当ですので、良い案があればお願いします。)文章に差し替えることを提案します。--らりた 2008年6月21日 (土) 11:53 (UTC)

英軍による侵攻とは、実態があるのでしょうか?--220.145.198.159 2009年7月10日 (金) 14:00 (UTC)

定義部を新たに書き下ろし、現在の冒頭部は、内容に応じて分節する必要があるでしょう。
  • 以下は「歴史」の項に移動し、重複する内容は統合
7世紀頃に統一王国を築いたが、後代においてはの政治的影響を受けた。清の滅亡と前後して、当時インドを支配していたイギリスは、チベットへの侵攻を図り、中国国民党率いる中華民国との対立の間で、微妙な状況におかれた(シムラ条約参照)。
その後国共内戦に勝利した中国共産党率いる中華人民共和国は中国人民解放軍を侵攻させ、チベット全土を軍事制圧した。
  • 以下は「社会制度の変遷」という項を設けて移動
中国政府は、それ以前のチベットは「9割が農奴」で占められていて、中国が農奴解放をおこなったと主張している。一方、チベット亡命政府の日本代表を務めたペマ・ギャルポは、チベットの多くの地域は遊牧生活の地であったため、そこで「農奴制」が実施されることは不可能である、また、当時のチベットに身分制や貧富の差があったことは事実であるが、それは歴史的にどの国でも珍しくない、としている。
  • 以下も「歴史」の項に
その後、親共政府が樹立され、中国共産党下での存続政策をとっていたが、1955年 - 1959年に「中華人民共和国政府による併合」に抗議する運動(ラサ決起)が起こった。農業改革の失敗により、中国全土で数千万の死者を出したとされる大躍進政策の時期である。その後ダライ・ラマ14世はインドに亡命し、亡命政府を樹立。その後チベット自治区が設置され、中国の対チベット政策が苛烈になり、その後の文化大革命の影響も及ぶなどした。
  • 以下は「中国の統治によるチベット人大虐殺」を立項してその位置に
亡命政府はこの時中国が、夥しいチベット文化の破壊・略奪とともに、チベット民族の120万人の虐殺をおこなったと主張している。しかし、中国はこれを否定している。
  • 以下は「歴史」の項に移動
その後も独立運動を行っていたが、米中国交回復以後、米国の支援が打ち切られたとされる。
  • 以下は「地理」の項と統合
現在、中国政府は「西藏」の部分だけにチベット民族の自治区を置き、その他の各地は分割して「内地」に組み込んでいるが、亡命政府は、西藏と青海省および甘粛省、四川省、雲南に併合された地域を含んだ範囲全体を「チベット」として主張している。この地域は古来から交通の要衝であり、複数の民族が混住しているが、チベット民族が最も多い。

冒頭部の現存の文面の再編を以上のように提案します。--Dalaibaatur 2009年11月13日 (金) 05:22 (UTC)

「農奴」「チベットの人口」についてのコンセンサス

「農奴制」について以前、該当項目で議論したことがある。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E8%BE%B2%E5%A5%B4%E5%88%B6

――そもそもチベットの「農奴」制がこの記事にあること自体に違和感を覚えます。記事本文を見れば分かりますが、この記事は「ヨーロッパの隷属的農民の制度」と定義されています。チベットについて記述を載せるのであれば、かつてのチベットに於ける隷属的農民の性質が、ヨーロッパ史に於ける農奴の性質と極めて近似しているという出典が必要でしょう。この両者を比較したうえで左記の結論を出している歴史学上の先行研究が提示されない限り、チベットの項目は削除すべきではないでしょうか。--ポコポコ 2009年1月27日 (火) 10:42 (UTC)――

この立場が妥当だ。そもそも農奴とは、あくまでヨーロッパ封建社会の隷属的農民を指した物。http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%C7%C0%C5%DB&kind=jn&mode=0&base=1&row=0

――ヨーロッパ封建社会における自由を制限された農民。領主の身分的支配を受け、土地に縛られて移転の自由をもたない。領主から貸与された土地を耕作し、賦役・貢納などの義務を負う。―― 単に人権を制限された農業従事者を指すのでは無い。中国政府定義の「農奴」がこれである以上、これに近似しない限り「農奴」とは呼ばない。また127万人というのは、ウ・ツァンのみの人口。53年の時点で統治地域は制限されていた。公式サイトに掲載されているデータも読めない人間が編集に携わってはならない。チベット問題が起こり一年以上経つのだから、基本的なコンセンサスは取ってほしい。 http://www.tibethouse.jp/human_rights/human38.html --Mute 2009年5月24日 (日) 01:15 (UTC)

1953年の国勢調査のことで「中国網」は人口について、「チベットとチャムド地区(カム西部)は国勢調査を直接行っておらず、データは当時ダライが指導したチベット地方政府が見積もって中央政府に報告したものである」と書いてあります。(ウ・ツァンのみの人口ではないとしております) 2009年5月26日利用者:58.89.230.14  Mute2氏へ

つまり、そちらの主張する「127万人」とは、ウ・ツァンとチャムドのみであるという結論かな?あとはソースを提示してほしい。--Mute 2009年5月26日 (火) 01:26 (UTC)

[1]の表(チベット人口の変化)の二段目の右側を見てください。 ウ・ツァンとチャムド地区(カム西部)の調査がガンデンポタンの担当でカム東部とアムドは中国政府が担当(127万人は共同調査の結果で両者の調査の合計)していたということです。(上の記述は現代人が書いたのでチベットとはチベット自治区)また、1953年はまだチベット自治区(1965年成立)ができる前ですので、チベット自治区という概念は当時調査を行っていた中国の担当官の頭の中には存在しません。 2009年5月26日  追伸

よく分かりました。1949年以降の「西康省蔵族自治区」も知らないんですね。[[2]]1949年ー1955年の時点で、西康省西蔵自治州は、チャムドを除いてチベットから切り離されているんですよ。人口はこうです。ーー人口は1947年統計で165万1132人。1954年の第一次全国人口普查(1953年調査)では338万1064人。ーー同じ調査で、どうして「チベット」は127万人なのでしょう?よくよくお考えあれ。「大チベット」には、カンゼ・チベット族自治州として四川省に併合された、西康省の全体が含まれています。[[3]]つまり、1953年の国勢調査が「チベット全域」などということ自体、無知かもしくは、他人を騙すことが目的としか思えない。どちらにせよ、あなたに編集に携わる資格はありません。これで議論は終わりですね。出て行け。--Mute 2009年5月27日 (水) 04:16 (UTC)

補足:中国全土における1953年時の藏人(チベット族)の人口 「藏人二百七十七万五千六百二十二人」第一次全国人口調查

今までの議論を覚えてますか?地理すら正しく把握してないままのようですね。--Mute 2009年6月20日 (土) 21:14 (UTC)

西康省蔵族自治区(ディチュ河東岸であり1950年以前からガンデンポタンの完全支配地域では無い)は川辺特別地区と呼ばれたこともあり、加えて1900年代から西康省にしようと構想した地域はガンデンポタンと中国側軍閥の間で恒常的に争いになっていた地域です。1950年代のチベット侵攻以前に支配下に置かれた地域(西康省蔵族自治区の領域は、従来から西康省が掌握していたディチュ河東岸に限定)もあり、事情が他とは違います。ディチュ河東岸は中国化が1950年のチベット侵攻の前から進んでおり、120万の虐殺を語る時にむやみに他と一緒にすべき地域ではありません。--返答

意味不明。全く反論になってません。亡命政府は「大チベット」の領域で起きた虐殺を語っているのです。あなたが言っているのは「127万人を120万人殺せるの?」という主張です。「亡命政府の主張するチベット」と「中国の主張するチベット」の領域、どちらが政治的に妥当かは、議論に全く関係ありません。これはあなたの書き込みですよね。――1953年はまだチベット自治区(1965年成立)ができる前ですので、チベット自治区という概念は当時調査を行っていた中国の担当官の頭の中には存在しません。―― あなたが言ったのは「大チベット」の人口が127万人であるという帰結にしかならない。それは否定された。これほど明確な答えが出た以上、議論は打ち切り。あなたの編集は不許可で終わりですよ。これ以上続けて、どうにか誤った事実の編集をしたいと言うなら、管理者に半保護を要求に行きます。--Mute 2009年5月27日 (水) 11:56 (UTC)

中国の担当官の頭の中にあるチベットは1950年以前の侵攻直前のガンデンポタンの完全支配地域であり、 虐殺の主範囲である1950年以前の侵攻直前のガンデンポタンの支配地域の実質上の「チベット」で 「大チベット」の中での注目すべき場所の限定です。Michael Parenti氏[4]をはじめとする「実際に虐殺が行われた127万人の地域で120万人殺して避妊や断種といった弾圧を続けて自然死亡率の高い地域で人口を従来よりも増やせるか」という疑問で、実際に120万人殺されたかどうかは知りません--返答

完全に論理破綻してるぞ?私の以前のレスとソースをもう一度読みなさい。もう一度だけ貼ってやる。こんなことを繰り返すのも疲れるが。[[5]]←「ウ・ツァン カム アムド 」という文字が見えないのか?チベット亡命政府が提示しているのは「大チベットの領域での120万虐殺」だ。こんなグラフ小学生でも読める。その後の部分も、すべてお前の憶測じゃないか。こんな初歩的な思考も出来ないなら、まず中学の教科書を読むべき。編集に携わることはいい加減に諦めろと言っている。お前が間違っていてこちらが正しい。--Mute 2009年5月28日 (木) 01:05 (UTC)
追記。「お前が最後に発言すること」は全く意味が無い。私の出した論旨を否定出来るかだけだ。それを私に認めさせられない限り、編集は不可能だ。これは知的誠実のためだ。ディベートならとっくにお前が退場だよ。ま、いずれ保護も入るだろうしな。--Mute 2009年5月28日 (木) 01:09 (UTC)

チャムドやディチュ河流域もカムに含まれますよ。

こっちが出したソースは読め。やる気あるの?--Mute 2009年5月29日 (金) 05:24 (UTC)

横から失礼します。冷静になってください。言葉が荒れると正論でも読みにくくなります。また、IPの方は署名をお願いします。--アルトクール 2009年6月5日 (金) 04:35 (UTC)

記事を書き換えて、アムド・カム・ウーツァンごとに亡命政府と中国資料が具体的に挙げている数値を提示しました。亡命政府があげる数値も、中国資料が挙げる数値も、大差がなく、矛盾がないように思えます。ごらんのうえ、ご意見いただければ、と思います。ただし一点、「中国政府が「120万の虐殺」の数値を挙げてこれを否定している」典拠がみつかりません。なにかご存知でしたらご教示ください。--Dalaibaatur 2009年12月4日 (金) 22:34 (UTC)

「大チベット」に関する記述

「チベット」と「大チベット」の用法について疑念があるので、下記の文面を書き換えました。

現在、チベットと呼ばれているのはチベット自治区だが、亡命政府は、青海省、甘粛省、四川省に併合された地域を含んだ「大チベット」を主張している。この地域は古来から交通の要衝であり、複数の民族が混住しているが、チベット民族が最も多い。
  • 「チベットと呼ばれているのはチベット自治区だ」という断定
日本では伝統的に青海や四川・甘粛・雲南に併合された部分もあわせて「チベット」とよんでまいりました。たとえば日本チベット学会の創始者のひとり多田等観は「西蔵事情」(多田等観「西蔵事情」多田明子・山口瑞鳳編『多田等観:チベット大蔵経にかけた生涯』春秋社、2005年刊、pp.233)で、
西蔵の境域は、東経七十八度から百三度、北緯二十七度から三十九度に至る地域を占めている。面積は大略七十五万マイル、日本全土(旧朝鮮、台湾を含む)の約二倍半である。南はヒマラヤ山脈、北は崑崙山脈、東はインドシナ山脈、この三つの山脈によって押し上げられた高原国である。この地理的範囲は西蔵人が自分の国として考えている国土の面積である。青海や喀木(カム)をも併せた広い意味での面積である。支那では青海省や西康省を除外した部分を西蔵と称している。
と述べています。いまチベットを統治している中国が、「青海省、甘粛省、四川省に併合された地域」を「チベット」から除外しているという事実はこの記事で客観的に紹介される必要があるとは思いますが、日本で伝統的に「チベット」と呼ばれて来た範囲を大きく変更するような新説を、百科事典として、ここで主張するべきではない。
  • 「大チベット」という用語

中国でいう「西蔵」に「青海省、甘粛省、四川省に併合された地域」を会わせた範囲を、ふつうに「チベット」と呼ばずに「大チベット」と呼ぶ用法は、「本来のチベットの範囲は西蔵の部分だけ」という価値判断を含む用語であるので、百科事典がみずからの用語として用いるべきではない。

中国では、チベット全体を普通に指す場合は「蔵区」、「西蔵和其他蔵区」という用語が使われますが、ダライラマや亡命政府がチベットを単一の自治区として統合するよう求めていることを非難する場合には、「大西蔵区」、「大蔵区」(「大チベット区」)という用語が使用されます。「大チベット区」という記事を立てて用例をたくさんあつめたので、参考にどうぞ。--Dalaibaatur 2009年11月16日 (月) 16:03 (UTC)

本記事冒頭「定義」の文面についての提案

現在、冒頭部にある文面を下記の定義で差し替えるよう提案します(既存の文面の再編をこちらで提案しています)。こちらのらりたさんの文章を土台に改変してみました。地域の範囲は緯度と経度により客観的に表示可能なので、その点をらりた案から改変しました。範囲をどのようにとるか、については、直上の節の多田等観の記述にみえるような、青海や旧西康省をふくむ日本の伝統的な「西蔵(チベット)」の概念に従っています。--Dalaibaatur 2009年11月13日 (金) 05:39 (UTC)(--Dalaibaatur 2009年11月13日 (金) 19:50 (UTC)修正

チベットは、東経77-105度、北緯27-40度に至る地域を占め、南はヒマラヤ山脈、北は崑崙山脈、東は邛崍山脈に囲まれた地域、およびこの地域に成立した国家政権民族言語に対して使用される外部からの呼称。チベットの周辺諸国が古くから用いて来た呼称「tubat」(モンゴル語満州語)、「tbt」(アラビア語)等に由来し、チベット人自身は「プー(bod)」(チベット語)と称する。日本語のチベットは英語「Tibet」経由で明治期に成立した呼称である。

反対・意見等でないようなので、定義文を上記で差し替え、既存の旧定義文は分割して該当の各節に転記しました。--Dalaibaatur 2009年11月19日 (木) 13:46 (UTC)

いんどねしあ氏の投稿について検証

いんどねしあ氏が2009年11月16日 (月) 17:53にこの記事その他に投稿したほぼ同一の文章について、ノート:ダライ・ラマ14世にて検証可能性について議論しています。関係者および興味のあるかたはぜひごらんください。--Dalaibaatur 2009年11月17日 (火) 16:08 (UTC)

いんどねしあ氏に典拠の提示をお願い

農奴制/前世の罪その他

いんどねしあさんが、記事の文面でご自身の主張を展開されている箇所を、もとの文章(これにも問題なしとはしませんが)にもどしました。

  • だが農奴制が存在したことは明らかであり、ペマ・ギャルポの主張はなんら事実を反映していない。(『現代チベットの歩み』)
  • 亡命政府はこの時中国が、夥しいチベット文化の破壊・略奪をおこない、中国統治の結果として120万人が死亡したと主張している。しかし、「亡命政府」の主張には客観的根拠がない。

私の手元にあるグルンフェルド(八巻佳子訳)『現代チベットの歩み』(東方書店 、1994年11月)には「だが農奴制が存在したことは明らかであり、ペマ・ギャルポの主張はなんら事実を反映していない。」という記述はみあたりません--Dalaibaatur 2009年11月20日 (金) 01:52 (UTC)追記

以下の文章について、検証可能な典拠のご提示をお願いします。

  • チベットにおいては、チベット仏教がすべてを支配していた。女に生まれることは「前世の罪」からであるとされ、女性はとりわけ厳しい抑圧下におかれた。封建領主や寺院は「現世で苦労すれば来世で報われる」などという教義で、農奴からウラー(無償労役)を搾り取っていた。奴隷は農奴は「話す馬」として人権を与えられず、売買の対象とされた。ダライ・ラマの仏具や食器を作るために奴隷が殺され、皮が剥がされた。ポタラ宮の地下には「サソリ牢」があり、罪人(そのほとんどは反抗した農奴や奴隷)がそこに投げ込まれて殺された。貴族や富めるものは一夫多妻制を実践し、貧しきものは一妻多夫(兄弟で妻を共有する)が普通に行われていた。家族に男子が2名以上いれば1名は強制的に僧侶にされた。平均寿命は36歳で、学校はなく、文字が読めるものは非常に少なかった。

「サソリ牢」「話す馬」「ダライ・ラマの仏具や食器を作るために奴隷が殺され、皮が剥がされ」の表現で、出所は見当つきますが、ご本人に明らかにしていただこうと思います。--Dalaibaatur 2009年11月19日 (木) 23:03 (UTC)

チベット動乱における「反乱」軍と中国軍の兵力

いんどねしあさんが2009年11月16日 (月) 17:53の編集で付加した「2万人の反乱軍はわずか1500人の人民解放軍に簡単に打ち破られた」という一句について、典拠の提示がなく、数値が中国側資料にみえるものととも合っていないため、削除しました。--Dalaibaatur 2009年12月4日 (金) 12:54 (UTC)

いんどねしあ氏は、2009年11月19日 (木) 08:27の編集で、「実際、この反乱においては、孤立していたダライ側の軍隊は20000名いたにもかかわらず、わずか1500名の人民解放軍に簡単にうちやぶられた。土地や家畜は農民のものとなった。農奴制や奴隷制は廃止された。」という一句を付加されましたが、この直近の文章の典拠としてあげられている「『塑像群《農奴の怒り》』」の紹介サイトには、そのような文章は存在はありません。もともとこの典拠は「中国政府は「100万農奴を解放した」と主張している」実例として提示されたもののようです。この位置に文章を付加するのであれば、紹介サイトか、文献『塑像群《農奴の怒り》』の中に実在する文面しか挙げるべきではない。あるいは別個の典拠にもとづいて文章を追加するのであれば、その文章は、典拠のURLが記された[ ]の後に置き、ご自身の典拠は別に明らかにするべきでしょう。典拠に存在しない文章を、勝手に製造するのは問題外。
また、いんどねしあ氏がここもふくめ2カ所で挙げている「20,000人」も「1,500人」も、どちらもぜんぜん問題にならない数値(この編集の251行を参照)であり、かつ典拠もないので削除しました。
中国政府の主張は、中国政府による実際の主張を典拠として提示されるべきであると考えます。--Dalaibaatur 2009年12月4日 (金) 20:10 (UTC)

チベット人大虐殺に関する記述をめぐって

「120万人虐殺」説について

IP[58.89.206.15]氏は、2009年5月22日に行った編集で、「亡命政府は(中略)チベット民族の120万人の虐殺をおこなったと主張している」という記述を変更して「中国は否定している」という一句をつけたし、「中国とチベット:事実と数字2005」というサイトをその典拠として示されました。さらにいんどねしあ氏は、2009年11月19日 (木) 08:54の編集で、「しかし、「亡命政府」の主張には客観的根拠がない」という一句を追加されました。しかしながら「事実と数字2005」の文面をみてみますと、この文章の文責は「チャイナネット」であり、「中国政府がチベット亡命政府のあげる何らかの数値を否定している記述」をはじめ、中国政府による発言はいっさいまったく引用されていません。

  • 「中国政府が」
    • 「チベット亡命政府の挙げている数値をとりあげて、否定する」
    • 「亡命政府の主張には客観的根拠がないと述べている」

などの記述が実際にないのであれば、「中国政府が…否定している、述べている」と記述するための根拠にはならないと考えます。とりあえず注をつくり、文面を「準備中」としておきました。「亡命政府の挙げるなんらかの数値を中国政府が実際に否定している」記述を含む典拠をご存知の方、この部分で紹介していただければ、と思います。--Dalaibaatur 2009年12月4日 (金) 10:12 (UTC)

中国の出版物に登場する記述をめぐって

「根拠が乏しく客観性にかけ、読者に誤解を与える内容であったため削除させていただきます」と称してこんな編集を繰り返す方がいらっしゃるようですが、「根拠」としては「中華人民共和国で出版された文献」の名称と該当箇所の記載ページを提示してありますので、ぜひご確認ください。--Dalaibaatur 2009年12月24日 (木) 01:14 (UTC)

「準敗戦国」とはなんぞや

IP[122.210.10.241]氏が2009年12月24日 (木) 14:20前後に付加した下記の文面について、 1.中国に置けるチベットの分割と、地域呼称ごとの概念内容を説明する文章の中に、なんの脈絡もなくほうりこまれた文章であり、文意を破壊するものであるので、とりあえずこのノートに移転しました。 2.内容的にはチベット近代史に関する記述のようですが、記事の正確性について疑念がありますので、検証可能な出典の提示をお願いします。

日中戦争の際に、アメリカは蒋介石政権支援のための援助物資を送るため、東南アジア方面から援蒋ルートを作り、チベットにも国内を通らせるよう要請したものの、中立を盾にチベットは拒否した。この事がチベットは準敗戦国の扱いを受けた。

特に下記の点について説明を求めます。

  1. 「準敗戦国」とは何か?誰の造語か?
  2. 歴史学や政治学の学術書・学術論文で「準敗戦国」という用語を使用した実例は?
  3. 「チベットは準敗戦国の扱いを受けた」とは、誰の評価か?その評価はどのような検証可能な典拠で確認できるかのか?

お手数でしょうが、よろしくお願いします。--Dalaibaatur 2009年12月24日 (木) 16:44 (UTC)

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