ノート:一九二八年三月十五日

最新のコメント:50 分前 | トピック:改名提案 | 投稿者:大杉剣士郎

改名提案

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  • 記事名を本来の題名である一九二八・三・一五に改名を提案します。岩波文庫の「蟹工船・一九二八・三・一五」1951年初版、2003年改版[1]の解説に、本来の題名が「一九二八年三月十五日」ではないあるからです。この255頁にい解説の蔵原惟人が、1928年8月8日付の小林多喜二からのハガキで「力のこもったのものを作っているので、いずれお目にかけたい」と予告され、その後本作の原稿が蔵原宛に送られてきたとあります。244-245頁に作品を戦旗に掲載した経緯について述べられています。蔵原から勝本清一郎に「君が手を入れて『戦旗』の方へ」と依頼しています。そして戦旗1928年11、12月号に掲載されるわけですが、戦時中原稿を保管していた勝本はこの作品の掲載について「検閲で通りそうにない表現や言葉づかいを改めたり、伏字にしたり、削除したり」して、「今度岩波文庫に収録するにいあたり、復原した」と述べて、最初掲載された時の一番の変更は題名で、変更したのは立野信之だが、立野自身がなぜ「一九二八年三月一十五日」に変えたのか、その気持ちが思い出せないと言っていて、小林自身ものちに「一九二八年三月十五日」を使うことがあったので、そのままになったが、今度は題名も復原したとあります。蔵原と小林のやりとり初期は、題名が「一九二八年三月十五日」になっても、しばらくは本来の題名で書いていて、それは262-263頁、蟹工船脱稿翌日付の蔵原宛のハガキにも「第二作をお送りしました。『一九二八・三・一五』よりも一歩前進」とか「一九二八・三・一五で試みた…」とあります。255-257頁に、のち1931年7月「処女作を思う」では「一九二八年三月十五日」の題で…と振り返ったり、260頁では1932年2月「一九二八年三月十五日の経験」を書いて、たしかにのちに小林自身も「一九二八年三月十五日」を使用はしているようです。ですが、戦時中に原稿を保存し、復原発刊にこぎつけた勝本、蔵原からすれば題名も復原ということですから、意思を尊重して「一九二八・三・一五」への改名を提案します。一九二八・三・一五の読みは、「いちきゅうにいはち・さん・いちご」かもしれませんが、読みはさておき題名の改名を提案します。--紫巻紙会話2024年7月12日 (金) 01:04 (UTC)返信
    •   コメント状況によってはコメント依頼の提出も視野に入れています。--紫巻紙会話2024年7月12日 (金) 01:09 (UTC)返信
    •   コメント提案文の中に意味がつかみかねる部分が多く、判断に苦しむところです。まずはこの内容を本文に反映し、内容を充実させるところから始めてはいかがでしょうか。--秋山夕子会話2024年7月12日 (金) 05:45 (UTC)返信
      •   コメント提案文がわかりにくいのであれば、小林多喜二『蟹工船 一九二八・三・一五』(改版)岩波書店〈岩波文庫〉、2003年。ISBN 4-00-310881-7 に載った勝本清一郎「「一九二八・三・一五」の復原本文について」(243-247ページ)やその後の解説を読んで各自判断すればよいと思います。改版以前の版にも載っていますし、もっと参照しやすいものですと山崎安雄『岩波文庫物語』白凰社、1962年。 の「無キズの『一九二八・三・一五』」にも状況が書かれています。ただ、これは題名を変えた人が理由を説明している文章ですから、これだけを読んでどちらの題名が妥当か判断するものではないと思います。検索すると『戦旗』1928年11月号では目次が『一九二八・三・十五』、本文が『一九二八年三月十五日』になっていたのが、12月号では両方『一九二八年三月十五日』になっている、という状況で、『一九二八・三・十五』が本来の姿かどうかはよくわかりません。--西村崇会話2024年7月16日 (火) 12:00 (UTC)返信
        参考になりました。ここはやはり原稿を所持していた勝本さんの意向を尊重して・入りが良いと思いますね、私は。--大杉剣士郎会話2024年7月18日 (木) 00:41 (UTC)返信
  賛成 ということは出版社によって題名が異なっている状態ですか。しかし、それが本来の題名なら賛成します。--大杉剣士郎会話2024年7月13日 (土) 00:28 (UTC)返信

出典

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  1. ^ ISBN 978-4003108819 岩波書店
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