ノート:中学造士館

最新のコメント:10 年前 | トピック:出典の扱いについて | 投稿者:118.21.136.4

「後裔校について」の記述について 編集

一読したところ、後裔校についての記述はおそらく正しくありません。鶴丸説=山下氏、甲南説=芳氏、山田氏という分け方をしていることから、テクストを正しく捉えていないおそれがあります。また(名称論)=山下氏、(実態論)=芳氏、山田氏(そもそも勝手にこのように呼んでいるのはWikipediaだけだと思いますが)というのも別の意味で逆だと思います。

かつて「造士館」項目の2008年12月22日版で、“中学造士館生の“本校”となった”(山下玄洋 『中学造士館の研究 史料の紹介と考察』 1997)という記述から、中学造士館の後身校は鶴丸であるという説が展開され、この記述を受け、鶴丸説(名称論)=山下氏として整理・編集されていますが、ここでの「本校」の意味するところは「分校」に対する「本校」という意味であって、それ以上の意味でないことは前後の文脈から明らかだと思います。少なくとも山下氏は「中学造士館の後身校は鶴丸である」とするような説明を資料のどこにも展開しておりません。両者の考え方の違いは「後身校は鶴丸か甲南か」なのではなく、「甲南高校は(中学造士館からの流れにあるけれども)ルーツとしてどこまで遡れるか」という点で大きく異なっているはずです。

芳氏、山田氏の論考は両氏とも二中・甲南との関わりが深いためか(芳氏は元・二中教諭、山田氏は元・甲南高校教諭)あるいは参考資料として挙げてあるものに同窓会誌の記事が多いためなのか判りませんが、「中学造士館」と二中・甲南との沿革的なつながりを認め、また「中学造士館」という名称で辿りつつ、割と積極的に時代を遡って記述する傾向があります。一方、山下氏のそれは「中学造士館」の変遷に伴う各段階の実態と取り巻く状況に主眼が置かれ、当時を知り得る資料の探索と検証に最も労力が割かれており、記述そのものは全般にわたって抑制の効いた慎重なものとなっています。特に明治29年から数年間にわたる高等中学造士館から県立尋常中学造士館への遷移を正確に説明できているのは、現在のところ、山下氏の記述だけではないかと思います。二中・甲南高校のルーツとして、芳氏、山田氏が高等中学造士館から県立尋常中学造士館の変遷を(「中学造士館」という名称の一致で、は言い過ぎですが)さほど問題視せず、極端な場合には藩校にまで沿革的な拡張を試みているのに対し、山下氏はその頃の「中学造士館」の実態から、この時点での隔たりは大きいと見ていて、二中の萌芽を(といっても、あまり後身校としての記述のようには読めませんが)県中学造士館の廃止で分校に移った時の校舎建築の予算成立あたりに見出されているようです。

記述の最後に引用してある沢田事務官の挨拶は(どのような意図により引用したのかわかりませんが)このような二つの見方の違いが顕著にあらわれる例の一つになるでしょう。すなわち、名称論の立場でいけば、「県立中学造士館と称した・・・」の「中学造士館」というキーワードが尊重されるでしょうし、実態論の立場ならば、「この学校は明治二十九年十二月二十五日新設され・・・」に始まっていることを重視することになるでしょう。ここで言いたいのは、どちらが正しいということではなく、このような見方の違いであるということです。

「中学造士館」の後身校はどこであるかということがしばしば話題になるのは「中学造士館」そのものに関心がある場合もありますが、その根底に両校の卒業生あるいは在校生が母校の歴史をできるだけ古くしたいという思いが語られている側面もあります。上記の論考の違いが後身校とする両校の対比という形で記述する結果になっているのも、このことが背景にあるだろうと個人的には見ています。--Baldwin 2010年4月20日 (火) 16:15 (UTC)返信

Baldwinさん、ご意見ありがとうございます。本記事を新規作成した者です。さて、「名称論」「実態論」と名付けたのは別の執筆者さんです。また、山下さんの論文にある「本校」の意味については、ご指摘のとおり、下級生収容のために新規設立された「分校」に対するものであることに間違いはないと思います。▼ところで、Baldwinさんが二中・甲南と関わりが深いと指摘された芳さんと山田さんですが、ご両名とも甲鶴両校に勤務経験があります。また、山下さんは、鶴丸高校卒業生で、鶴丸高校教頭で定年退職された方です。従いまして“どこの学校と深い関係があるから件の記述になる”ということにはならないと考えております。▼それから、芳さんと山田さんは「造士館」という名称のみで、“極端な場合”“沿革的な拡張”を試みているとのご意見ですが、藩校も中学造士館も島津家が大きく関与した教育機関である点も考える必要があるでしょう。もちろん、江戸時代と明治維新後の教育機関は別物であって、継承性はないと考えておりますが、島津家が出資、創設(願も含めて)し、名称と教育機関を「復活」させたという面からは、必ずしも極端な沿革の拡張にはならないと思います。▼高等中学造士館から中学造士館への変遷については、山下さんが“正確に説明できている”というよりは、“詳細に論述できている”との表現が良いでしょう。“山下氏はその頃の「中学造士館」の実態から、この時点での隔たりは大きいと見ていて、二中の萌芽を(といっても、あまり後身校としての記述のようには読めませんが)県中学造士館の廃止で分校に移った時の校舎建築の予算成立あたりに見出されているようです。”とのことですが、これは読む側の受け取り方の違いもありましょうが、高等中学造士館は官立で本科=旧制高等学校課程=新制高等学校課程、予科・予科補充科=旧制中学校課程=新制高等学校課程で成り立っており、この予科・予科補充科の生徒が県中学造士館へ移籍したという観点からは、また異なる受け取り方になるかもしれません。▼二中一回卒業生については当方の記述誤りで、山下町の仮校舎から現在地へ移転した際に建築された木造校舎への最初の入学生が第一回卒業生です。▼最後の段落につきましては、Baldwinさんの一印象として拝読致しました。またいろいろご教示下さい。--飛鳥リョオ 2010年4月21日 (水) 03:07 (UTC)返信


本記事の編集について 編集

わたくしとIP氏(利用者: 133.44.1.221 )の編集について。

  • 高等中学造士館が廃止に至った理由や内実の件。「「官立」と冠していながら国庫による支出が皆無で授業料が高く、貧困による退学者が多かった」という記述は、わたくしが複数の出典を示しながら掲載したものです。それに対してIP氏は文中で出典を示さず要約欄で「文部省年報に基づき明らかな間違い」であるとして削除します。削除と復元はこれまでにも数度あります。わたくしは「高等中学造士館の授業料は高くはなかった」といった趣旨がなされている出典があれば、併記するのが良いと考えているところです。
  • 中学造士館の後裔についても同様で、複数の出典(甲南や前身の関係ではないものも含む)を文中で示しながら記述されたものを、「内容の検証可能性は結局確保できていない」「出典の一部については著しく信頼性を欠いたものも含む」といった理由で削除されることがあります。

第三者の皆様から幅広いご意見をお待ちしております。--飛鳥リョオ会話2012年9月19日 (水) 03:13 (UTC)返信


まず「文部省年報に基づき明らかな間違い」としたのは、明治30年に第一中学校の生徒を移籍した事実を明治31年としている誤りについてであり,授業料の件ではありません。(飛鳥リョオ氏はコメントされた部分について検証すらせず、記事を元に戻しているようです)
さて「「官立」と冠していながら国庫による支出が皆無で授業料が高く、貧困による退学者が多かった」という記述削除の件、出典もなくはないですが、わざわざ必要でしょうか?すでに明治二十年造士館騒動の箇所で飛鳥リョオ氏がご自身で造士館生は通説と異なり、学費が問題となるような学生でないという原口泉氏の考察まで引用しておりますので。また造士館の授業料が低く設定されていることは別の機会に「甲南高等学校」のノートに記述したので、史料的裏づけの詳細はそちらを参照していただくことにしましょう。飛鳥リョオ氏は小生独自の見解により削除したように書いておられますが、削除したのは(授業料が)「高い」だの「安い」だの個人の金銭感覚に依存する表現は事典の記述として適切でなかろうという理由からです。仮にこの授業料を安いとしている出典があったとしてもそのように記述すべきとは思いません。事典の記述としては、史料に基づき造士館の授業料が他の高等中学校より低く設定されていることをただ単に記述する方がよかろうと思っています。この授業料が高かったという記述自体には、史料的裏づけは何もありません。
また飛鳥リョオ氏は併記すべきとしていますが、史料的裏づけがあるものとないものとを等しく扱って併記するのは中立的な観点という面で適切でないでしょう。
中学造士館の後裔については、飛鳥リョオ氏はよく資料を集められていると思います。ただし、ご自身の見解に沿った出典についてはという条件付きですが。これは何も飛鳥リョオ氏だけでなく、甲南高校が造士館とのつながりとして記述する沿革は都合よく題材を取り上げてそういったイメージを作り上げていく感じですね。厳密に精査すると実は造士館とは何ら関与がないことが明らかになるのですけれど。しかし、事典の記述がそれでは困ると思いましたので、自分なりには以下の視点での記述が必要かと思っています。(たぶん、このあたりが閲覧者の知りたいことだと思いましたので)
1° 中学造士館とその後裔校との継続性を示す公式な文書の存在(現在のところ、第七高等学校造士館一覧しかありません)
2° 当の島津家がどのようにとらえている(いた)のか(尚古集成館からの発信)
3° 後裔校の候補を中学造士館生はどうみなしているか(後裔校側からはいくらもこじつけるでしょうが、こじつけられた本人たちはどう思っていたか)
4° 地元鹿児島での捉えられ方(この部分は飛鳥リョオ氏ががんばると思います)
上でBaldwin氏が書かれているようなことなんだろうと想像しますが、結局、鹿児島県の史料の貧弱さにつきると思います。田中智子氏の批評は少々ひどい感じもしますが否定もできません。[1](要するに書いてあることは信用できないから本人にヒアリングしたいっていうこと。ここまで酷評されているのも珍しい。これを真に受けるとここらの出典は「鹿児島県史」から派生していますから、ほとんどが信頼性に乏しい情報源というお墨付きをいただいたことに)故人を悪く言うつもりはありませんが、何となく二中・甲南関係者の記述で鹿児島の方には残念な感じになっていますね。そういう背景があって極力、無理な記述は削除しているところもあります。--133.44.1.221 2012年9月20日 (木) 23:07 (UTC)返信


初めてノートに書き込みますので、至らぬ点があればご指摘下さい。

  • 「1.概説」についてですが、鹿児島県中学造士館が廃止した際の《生徒は第一中学校(現・鹿児島県立鶴丸高等学校)に吸収された》という表現は、中学造士館第1~3学年の生徒→鹿児島県第一中学校分校に収容、中学造士館第4~5学年の生徒→鹿児島県第一中学校に収容されたとするほうがより正確だと思い修正させて頂きました。
  • 鹿児島県第一中学校分校および鹿児島県立鹿児島中学校分校について、分校には第3学年以下しか設置できなかった旨について「要出典」がついていたと思いますが、甲南高校百周年 同窓会記念誌『樟風遥か』46ページに「それまでは鹿児島中学の分校であり、そこで三学年を修了して本校に進学することになっていたのを」とある他、鶴丸高校の『創立百年』か『鹿児島県教育史』のどちらかに「規定により分校には~~」とあったと記憶しています(不確かで申し訳ありません。どなたか確認をお願いします)。
  • 中学造士館の後裔校を甲南高校とする芳即正氏と山田尚二氏についてそれぞれ元・二中教諭、元・甲南高校教諭と記述したがる方が多いようですが、旧制中学時代の人事はわかりませんのでともかくとして、山田氏が甲南高校教諭をしていたころには教職員異動があり公立学校教職員の場合特定の学校の教員だとするのはよろしくないのではと思います(現に『甲南紀要十二号』に山田氏の「二中の歴史」が掲載されたときには、末尾に、氏が他校に異動された旨が掲載されていました)。なお、(ここに記していいのかはわかりませんが)以前鶴丸高校出身の方が甲南高校の校長を務められた際、式典や講演会などで学校の概略を述べる際、中学造士館から説き起こし(ときには藩校造士館を源流とすると述べ)ていましたので、で、徒に甲南卒か鶴丸卒か記すのもいかがなものかと思います。これらのことから、一々「○○(甲南高校が後裔校だとする人物)は甲南高校卒である・でない/元甲南高校教諭である」などと記すのは不要ではないでしょうか。
  • 上に他の編集者の方が資料不足について述べて下さっていますが、確かに公式の記録が不足しているのは否めません。「後裔校の候補を中学造士館生はどうみなしているか(後裔校側からはいくらもこじつけるでしょうが、こじつけられた本人たちはどう思っていたか)」と鹿児島県立鹿児島中学校が第一鹿児島中学校に、鹿児島県立鹿児島中学校分校が第二鹿児島中学校に変わった直後の当事者たちの意識については、これまでの編集を見る限り、《1950年9月刊行の「鹿児島県立第一鹿児島中学校同窓会記念誌」には中学造士館卒業生でのちに一中に奉職した樋渡清廉[35]と一中第五回卒業生の寄稿が掲載されており、二中と中学造士館の関係についても触れられている》樋渡はp5で「要するに館は沿革多く、廉等の初頃は単に中学造士館で後高等中学となり、いったん廃せられて尋常中学と復活し、我校と両立の形で岩崎先生兼勤で安藤格学士実務を執り、生徒は我校のを程よく移すといふ変則の制であつた。今の二中の前身ともいふべしだ。」(原文の漢字は旧字体)とし、第五回卒業生はp56で「明治卅年春、私は今の根占町神山小学校から、無試験の推薦生として中学に入学した。此年は県の中学教育上画期的な年であった。(中略)この年は新に、前に廃止せられた高等中学造士館が、中学校として復活し、これが後の二中の前身となり、また川内、加治木が分校として発足したので、全くこの年は鹿児島県中学教育の躍進期であつたと思ふ。」と記している。》と《「二中が独立してからしばらくの間は、その前身が造士館である意識を持っていた。二中の初代教頭中馬庚は、中学造士館時代から一中分校・鹿児島中学分校の時代を通して、勤め抜いてきた人だった。中馬教頭は、よく中学造士館時代の話を生徒たちにしていた。二中二回卒の龍野定一氏は、二中の池田校長が一中に転任しそうになった時、中馬教頭の話を引用して、二中の伝統の古さを演説した。(中略)『鹿児島県の中等教育の変遷 中学造士館を中心に』山田尚二、1979年、p12(後略)》がそれにあたると思います(但し山田氏の中馬庚についての文は、その情報源をさらに探す必要もあるでしょうが)。

以上4点私の考えを述べさせていただきました。--言葉5.10.8会話2012年9月21日 (金) 08:43 (UTC)返信

  • ひとまず後裔について。これまでの変更履歴を見ると、立項者の飛鳥某は諸文献から関連記述を紹介しているのであり、それをもって133.44.1.221が主張するような、特定の観点へ誘導されているとは思わない。中学造士館と二中(甲南)の関連性を認めない立場であることを明確にしている(ココ)IP133.44.1.221が排斥せんとする芳即正、山田尚二両氏による著書のほかに、鶴丸高校や加治木高校の創立百周年記念誌での考察を紹介しているほか、最近では一中同窓会記念誌に掲載の、樋渡清廉(中学造士館卒、一中で長期にわたり教師として勤務、一中校歌作詞)や一中卒業生の文章も載せている。いずれも二中(甲南)との関連性について触れられているのは事実。一方でIP133.44.1.221は文中で文献(件の一次資料を収載した書籍名、出版社、出版年)を示すことはなかった(編集要約には記したようだが)ほか、個人の見解を加えている。これでは差し戻されても文句は言えない。編集要約に記した文献とは一次資料とのことであるが、それをもって二次資料の考察が正しくないというIP133.44.1.221の文献排斥行為は責められなければならない。あくまでも「文献の著者はこのように考察している」ということに過ぎないのであるから。中学造士館の血脈がいずこに受け継がれているのかについて、飛鳥某がどのように考えているのかはわからない。しかしながら甲南との関連性について考察された文献が多いことをもって関係者であろうとするのは邪推であろうが、記事全体が二次資料の寄せ集めであることは疑いがないので冒頭にテンプレートを貼った。IP133.44.1.221が、田中某の鹿児島県史に対する一個人の見解[2]を持ち出してきて、県史を参考資料にした全ての文献にある考察は誤りであるとの印象を抱かせる工作をしたり、独自の見解を挟み込む行為に出ることは懸念材料である。故人を悪く言うつもりはないがと言い訳をしながら、実は正しくない考察をしているといいたげな態度も。--126.122.186.135 2012年9月22日 (土) 11:24 (UTC)返信


IP133.44.1.221氏(以下IP氏と略す)のコメントを見て気になったので一言。 IP氏は記述にあたっての視点を4点挙げているが、まず、3,4について、これらはここでの後裔校の議論とは基本的には関係ない。やや意味不明だが、4は飛鳥氏に失礼で一方的な物言いではないか。飛鳥氏が二中、甲南出身者とは限らない。甲南の過去のノートではどうもそうではないようだが。どうしてもIP氏はここでの議論を(出身)学校と結び付けたいようだが、山田氏、芳氏も二中、甲南出身者ではないし、ましてや鶴丸、甲南両校で勤務経験があることも、確か飛鳥氏がどこかのノートで書いている?ここでの議論に過剰に学校を持ち込むと無用に議論を見誤る。むしろ、IP氏が鶴丸出身者?だからか、と逆に邪推されることになる。 次に1,2について。1は、七高造士館の文書のことをあげているが、これだけをもって、それ以外の可能性を研究・考察することを排除することにはならない。2については、すでにHPから削除されているようだが、この掲載されていた記述に至った経緯なり真意は当事者に聞いてみなければ本当のところはわからない。 また、上記の方も述べているが、一人の方の言を基に当時の鹿児島の資料が信用できないとのことだが、それを言ったら歴史研究は何も出来ない。個々の資料の信用性なりについては、その時その時で逐次検証していくしかないと思うが。 最後に、何より私が一番奇異に感じたのは次のコメントである。「厳密に精査すると実は造士館とはなんら関与がないことが明らかになるのですけれど」。幾人かの先人が研究公表しているのにも関わらず、ここまで自信をもって言い切れるものはなにかと・・。--180.32.246.202 2012年9月23日 (日) 10:32 (UTC)返信

wikipedia編集者の皆様、ご意見ありがとうございます。IP133.44.1.221氏の上記書き込みについて、彼の次元(文献を本文中に明示しない+独自考察を披露)でいちいち反論することは不毛だと考えておりますので触れません。 後裔についてはIP氏の意に沿いそうな文献が見つかり追記したほか、個人の考察と見られる記述は除去しました。今回はひとまずここまでにします。--飛鳥リョオ会話2012年9月30日 (日) 06:09 (UTC)返信

  • そもそも合意を最初から放棄し、一方的な削除(除去)をする姿勢にも問題があると思います。議論がひと段落した直後に「大きな溝があり、永遠に合意はありえず、論争のもととなる項目は除去せざるを得ない」などと書くのもいかがなものかと。節、丸ごと除去するなら具体的にどういった点が「記事として(「編集上の論争のもとになるから」ではなく)」どのように問題があるのかを指摘したうえですべきだと考えます。他の方の意見も宜しくお願いします。 / また、「甲南に有利な記述を際限なく書き込む姿勢も問題」と書かれていますが、具体的に「どの記述」が「どのような面で」甲南高校に有利だと「何をもって」断言するのかよろしければお教え下さい。最近では鶴丸高校の『創立百年』p27「現在の一中同窓会名簿には中学造士館卒業生や分校卒業生も載せている。先に述べたように尋常中学校から尋常中学造士館に転入させたこともあるのだろうが、しかし、その歴史的流れからみるとこの卒業生達は二中すなわち甲南高等学校の先輩でもあるわけである。」や、平凡社新書の『47都道府県の名門高校 藩校・一中・受験校系譜と人脈』p258-260「薩摩藩の藩校である造士館(1773年創立)は、むしろ、旧制七高に引き継がれた。だが、明治27年に設立された鶴丸高校(旧一中)や甲南高校(旧二中)がその精神のもとにあることは間違いない。西南戦争による途絶はあるが、明治11年には県立鹿児島中学が開かれた。そして、明治17年には島津家の援助で設立された鹿児島県立中学造士館となり、鶴丸城内に移ったが、明治21年にこれは高等中学校に昇格した。だが、明治27年に廃校となり、本科生はほかの高校へ転校し、予科は県立尋常中学造士館と模様替えされた。一方で、明治27年には別の県立尋常中学が設立されていたが、31年にその一部が造士館に転校させられた。その後、県下の各地に中学が設立され、鹿児島の尋常中学は一中と呼ばれるようになった。34年になり再び第七高等学校造士館が設立されたのにともない、低学年の生徒は一中の分校を設けて収容され、これがのちに二中になった。この一中が鶴丸高校、二中が甲南高校の前身である。この経緯から、鶴丸と甲南のどちらが造士館の伝統を引き継ぐのかといった議論もあるが、どちらにも、かなり濃厚に関与するものの、直接的なものとはいいにくそうだ。」と、甲南高校のみならず鶴丸高校との関係にもふれた文献を追加しています。2012年9月25日 (火) 08:11時点における版では「七高設立時に鹿児島県中学造士館の生徒が収容されたことから、鹿児島県立甲南高等学校および鹿児島県立鶴丸高等学校を鹿児島大学とともに後裔校とする主張もある。」と記述されていました。具体的指摘無しに、「一方で甲南に有利な記述を際限なく書き込む姿勢も問題」と書くのも問題だと思います。 /  甲南高校のページのノートにも書きましたが、各文献は、鶴丸高校と甲南高校の両方が中学造士館と関係があるとしているか、甲南高校と中学造士館の関係を述べている(鶴丸高校と中学造士館の関係を否定するものではない)かなので、一部の編集員が、「後裔校は鶴丸か甲南か(確定はできないにせよ)どちらか」という考えをもって編集するのはあまりよろしくないと思います。 --言葉5.10.8会話2012年10月3日 (水) 15:35 (UTC)返信

言葉5.10.8さん、いつもコメントありがとうございます。さて、中学造士館の記事については、合意に至っていないというのがわたくしの認識です。かつてわたくしが文献を明示の上で記述(誰々は~~という考察をしている)をしたところ、文献や著者が独自研究であるとか、信頼できる文献ではないとの理由から削除されました。差し戻し(記述の復元)と削除が繰り返された経緯があります。Wikipedia:検証可能性に則ると「いずれの解釈が正しいか」や「文献にある記述が正しいか」、例えば後裔についていえば、「本当の後裔はどの学校か」を議論するのは適切ではないということになります。なので、IP133.44.1.221さんが甲南高校記事のノートで表明している考えをそのまま行動に移す(自分の考察が正しい。異論が載った文献は一切認めない。)のはよろしくないといえましょう。なお氏が文中で文献名・著者名・出版年・掲載(参照)ページを明示したことは一度もなかったと、わたくしは認識しています【編集履歴(平成23年2月14日以来、ウィキペディアにおける活動のほとんどを甲南高校(の前身)に関する記述の削除等に費やしているようです)】。わたくしは多種の文献から多様な記述を載せたいという立場ですので、言及されている文献の列挙程度で良いかと。最後になりますが、IP133.44.1.221さんからは小ばかにされたり(当ノートにおける上の書き込み)、あしざまに言われたり(~~を載せていないのは故意か)、合意形成は難しいと考えています。--飛鳥リョオ会話2012年10月3日 (水) 17:17 (UTC)返信

  • コメントありがとうございます。私も現状では合意形成は難しいとは思いますが、だからといって今回の126.110.137.210さんのように、合意形成を最初から放棄する姿勢はよくないと思います。また、IP126.110.137.210さんが、「合意がなかなかまとまらないため、一旦当該の節を除去してみました。皆さんの意見もよろしくお願いします」とノートに提起するならまだしも、実際には「永遠に合意はありえず、論争のもととなる項目は除去せざるを得ない」と一人で結論づけていることにも問題があると思います。さらに、ノートで話題になっているような記述を、節丸ごと除去するなど、重要な編集をするのなら、きちんとログインしてほしいとも思います(Wikipedia:説明責任)。
  • 私も飛鳥リョオさん同様、wiki方針にのっとると「本当の後裔はどの学校か」を議論するのは適切ではないため「後裔校は~~である」と記事本文で断定的な書き方できないが、後裔校について言及されている文献の列挙で閲覧者に情報を提供する必要はあると考えます。そのため、これから一週間ほど他の方の意見もつのり、具体的かつ筋の通った反対がなければ、2012年9月25日 (火) 15:28‎ の版から2012年10月2日 (火) 14:04‎の版にかけて見られるような、文献の列挙にとどめる方式に戻した方がよいと思います。皆さんの意見を宜しくお願いします。

--言葉5.10.8会話2012年10月4日 (木) 04:24 (UTC)返信


文献や過去ログについて調べたといってもすべてを網羅した訳ではないし、結局は憶測でしか述べられないが、その点についてはご容赦いただきたい。

まずIP133.44.1.221氏に訊きたいのだが、「二中・甲南関係者の記述で鹿児島の方には残念な感じになっていますね」とは何か具体的なことがあってのことなのか。私が手元にそろえた文献ではよくわからなかった。貴殿の記述は天下り的だし、(すでに理解できている人にはそれでもわかるのかもしれないが)かといって、すべてがデタラメという訳でないところも却って始末が悪い。出典として挙げないまでも「中学造士館」についてはそれなりにいろいろと文献を知ってはいるようだし、そういった見通しが利いてのことからだとは思うが、いくらか礼節に欠いた文章が何とはなしに危なっかしい感じがすると思うのは私の僻みだろうか。しかし根拠なく書き込んで済む内容とも思えず、何らかの説明がなされてもいいだろう。

飛鳥リョオ氏にも訊きたい。IP126.122.186.135氏は、貴殿の編集が「特定の観点へ誘導されているとは思わない」と仰っておられるけれども、過去ログを見る限り、私にはそうは思えなかった。それぞれの文献の著者らの出身校を記述し始めたのは貴殿ではなかったか。(「造士館」2008.12.23 14:47版)山下氏が鶴丸高校出身と書くのは仕方がないにしても、山田氏、芳氏が甲南高校出身ではないとわざわざ書いているのはいかなる理由によるのか。

それともう一つ、貴殿が精力的に文献を収集し、多くの文献を紹介してきたことは本当に敬服に値すると思うけれども、あまり触れたくない内容、自分にとって都合の悪い情報を含む文献については敢えて伏せてきたということはないのだろうか。ここに集めた文献の中に甲南高校の創立五十周年記念誌があるのだけれど、沿革の中には中学造士館を含めていないばかりか、「中学造士館」という言葉すら全く出てこない論調の違いに驚いている。他校の記念誌にまで目を通している貴殿がこの文献の内容を知らなかったとは思えない。「わたくしは多種の文献から多様な記述を載せたいという立場」であるならば、この文献における沿革の取り上げ方も甲南高校としての見解の一つとして触れるべきでなかったか。貴殿はIP133.44.1.221氏を出典云々で批判したが、もし貴殿が意識して文献を伏せているなら考え方次第では貴殿の方が物事を見にくくしている点でより悪質といわざるを得ない。

ここからは私の憶測だけれど、IP133.44.1.221氏と飛鳥リョオ氏に限って言えば、両氏は沿革のことで揉めているのではない。IP133.44.1.221氏は飛鳥リョオ氏が都合の悪い文献を故意に隠している(と思っていて)その編集姿勢を非難している。飛鳥リョオ氏も実はIP133.44.1.221氏が何を言っているのか理解しているけれど(むしろ理解しているから)敢えて出典を示さず除去していると別のことで非難している。IP133.44.1.221氏が「甲南高等学校」のノートに残した「記述せずとも「編集者の見解」に沿う資料のみが集められやすい点にも注意すべきです」と書いているのはそういうことを指してのことでないのか。それだけのことならば、IP133.44.1.221氏がもう少し寛容さを示せば済むことであるし、飛鳥リョオ氏もご自身の編集傾向について意識しさえすれば、合意というより和解に至る道筋は見出せそうに思う。

しかし、後裔校についての項目を継続するか削除するかでは126.110.137.210氏がいうように私も削除する方が良いと思う。 理由は三つあって、一つ目はこの論争を沈静化するには論争の種となるこの項目を削除するのが最も効果的だということ。現在、後裔校の記述が除かれた状態になっているが情報としては必要十分で何も問題は生じていない。「後裔校について言及している文献の列挙で閲覧者に情報を提供する必要はある」との判断だが、そもそも閲覧者の側では後裔校についてどの程度関心を持っているだろうか。どこどこの後裔校について知りたいとなるのは、後裔校が前身校についてさまざまな情報を保持しているからで、例えば、記念館がある。資料室がある。となれば意味もあるが「中学造士館」はそうではあるまい。この項への閲覧者が何を欲して読みにくるのか、記述する内容に対してそういうことを考慮していくことは必要だろう。

二つ目は「中学造士館」本来の記述を充実させたいということ。これまで後裔校についての記述ばかりが多くなる傾向があるが、それは後裔校がどこということに関心があるからという一方で、その部分についての記述の方が取り組みやすく、それ以外(本当はこっちが本体だ)について記述することはかなり難しいということがある。実際立項されてから現在に至るまでこの部分にはほとんど手が入っていない。文献とも見比べてみたが、記述されている部分もほとんど文献からの引き写しでしかない。記述しやすいところを塞ぎ、本来の記述を促すことはこの項のあるべき姿に近づけることにはなるだろう。

三つ目は二週間ばかり前に起こったらしいHPのこと。(少し出遅れたので魚拓と見比べての判断だが、最後の一行が削られたということでよろしいか。削るほどのことでないとも思えるのでこの部分か自信がもてない)この項の記述とHPとの関連ははっきりしないし、その経緯もわからない。しかし、ここの編集諸氏はたぶん関連がある、あるかもしれないと思っている。それに何よりこれはWikipediaので起きたことである。確かにこれまでWikipediaで何かこのような事態で責任をとらされたという話は(あるのかもしれないが)私は知らない。けれども本体の方は記述を削り、事態を引き起こしたかもしれない方では記述し続けるという状況は健全であろうか。このまま続けてより深刻な事態が生じることかもしれない。そうなる前にそれをうまく避ける知恵として、また楽天的な編集環境を整える工夫として、後裔校の項を設けない選択もあると思う。

IP126.110.137.210氏は長々と説明は書かなかったが、おそらくこういった懸念はあっただろう。 --222.151.83.112 2012年10月6日 (土) 00:07 (UTC)返信

  • コメントありがとうございます。私も過去の記録で見ただけなのですが、鶴丸・甲南両記事から源流についての記述を、「中学造士館」のページ新設時に後裔校の記述として移したため、後裔校のが多めでしたが、確かにあなたがおっしゃるように「中学造士館」のページとなった以上後裔校の記述へのウエイトは減らすべきという主張もうなずけます。
  • 飛鳥氏について少しフォローすると、『五十周年記念誌』に中学造士館との関連性が記されていないことを書くのは山田氏、芳氏が甲南高校出身ではないとわざわざ書くのと似たりよったりではないでしょうか。中学造士館について触れられているものを挙げて言っているのですから。そのようなことをいえば鶴丸側にだってふれられていない資料はありますし、きりがありません。(五十周年記念誌自体にいえば時代性もあって封建時代とのつながりを書けないこともあったかもしれません。GHQによる学制改革から10年たたないうちの発行ですから。推測なので当然記事本文には書けませんが)。しかし、例えば、鶴丸高校の『創立百年』の「現在の一中同窓会名簿には中学造士館卒業生や分校卒業生も載せている。」との記述が挙げられていなかったことは問題かもしれませんが、それで個人を責めるのはおかしいと思います。なぜなら、Wikipedeaは複数名で編集するものであるため他の人が挙げればすむことだからです。仮に、誰かが挙げた文献を他の編集者が不都合だとして削除したとすればそれは責められるべきですが、文献を挙げていなかったこと、ましてや関連項の記述がない文献を挙げていなかったことは非難の対象にはならないと思います。
  • 後裔校の記述が多くされていく傾向についてのあなたの指摘は理解できますので、削除の選択肢も含め、引き続き意見を募ります。

--言葉5.10.8会話2012年10月6日 (土) 13:34 (UTC)返信

  • 五十周年記念誌のことについては納得。ただ、言葉5.10.8氏には気の毒なことをした。お詫びする。

--222.151.83.112 2012年10月8日 (月) 00:40 (UTC)返信


そうですか、わたくしは悪質な犯罪者なんですね。wikipediaから手を引きます。さようなら。お世話になりました。--飛鳥リョオ会話2012年10月7日 (日) 12:12 (UTC)返信

  • 言葉5.10.8氏がフォローまでしてくれているのに、見当違いなら見当違いと書けば済むことではないか。答えてくれなくても結構。

--222.151.83.112 2012年10月8日 (月) 00:42 (UTC)返信


  • 23日に書き込みした者です。遅くなりましたが、今回の大幅削除の件見ましたので、再度書き込みします。

私は、2008年に甲南高校ノートに参加して以来、本ページや同高校ページなど一連の流れを見ている。今回の件は、問題は大きく二つあると思う。一つは、編集の仕方(WIKIへの参加の仕方)。二つ目は、「論争のもととなる項目は除去せざるを得ない」とのコメント。一点目は、同高校ページで定期的にIP氏(何人いるか分からないが)が出てきて、ノートで出典・文献も示さず、いきなり要約だけで大幅削除するやり方を指す。今回もそう。WIKIは顔も見えない多くの人が編集にあたっている。だからこそ、何を言ってもいいということではまったくなく、むしろだからこそ無用の論議を起こさないように礼はつくさなければならない。自己の考えに沿わないという理由で高圧的で乱暴な編集は厳に慎むべきだ。二点目について。論争になるから記述はしない、は、WIKIであっても、文章を書くものにとっては、あってはならないことだと思う。一義的には、当然先ずノートで論議すべきで、論理的に根拠を示しながら議論すれば合意は可能だと思う(ただし、どちらかに恣意的理由があれば不可だが)。不可の場合は、出典・文献を提示できている研究・考察を掲載すればいい。勿論、そうでないという研究があれば、その出典を示し両論併記すればいい。やってはいけないのは、出典・根拠はないが、反対の主張があるからといって、当該記事に関してすべてを記述しないということだと思う。WIKIの読者は多くいる。人が何を目的で見るかは千差万別で一個人の判断ではできない。

以上の理由から、私は、今ここで一部編集者がコメントしている後裔については載せないという意見には強く疑問を持つ。言葉氏の意見に賛成する。最近修正されているように、具体的に何校が後裔というのではなく、WIKIとしては、文献の提示にとどめたらいい。記事量については、もし可能ならば再考の余地があるかもしれない。

あと、IP222.151.83.112氏が述べられていることについて。まず、学校のことだが、甲南ノートの2008年末頃の書き込みをご覧いただければわかるとおり、酷い表現で他校のことを悪しざまに言って、学校名に拘る編集者がいた。だからこそ、飛鳥氏は、またそのような“曲解”を避けるため、わざわざ研究者の出身校まで記したと、私は理解している。今でも、常に何校出身者・関係者だから「独自研究」をしていると言っている編集者がいるのだから。 次に、IP氏、飛鳥氏の両名は沿革のことで揉めているのではない、との憶測だが、少なくとも私がずっと見ている限りでは、そうは思わない。過去履歴を見てのとおり、IP氏は一貫してそこに拘っていると思う。 最後に、「深刻な事態」、「引き起こす」、「悪質」の言葉はこの場ではあまり相応しくないのではないか。いささか過剰反応のような気がする。私が過去見てきた限りでは、「飛鳥氏が物事を見にくくしている点で悪質」とは思わないし、この文章は前段があるにせよ、少し行き過ぎではないかと思う。

以上、私は今回の削除前に戻すことに同意する。--180.32.246.202 2012年10月8日 (月) 09:51 (UTC)返信

  • コメントありがとうございます。

とりあえず、本ページおよび関連ページにおけるWIKIへの参加の仕方に問題があるという指摘がありましたので、

  • これまでのノートの議論を尊重すること。再度、議論したいことがあれば、まずノート具体的理由と根拠を提示し、合意の上おこなう(ノートへの提起なしに大量削除などをおこなわない)。
  • ノート記入時には礼儀を守る。
    • 個人自体を攻撃しない(誰々は悪質と書くなど)、あくまで記事改善のためにその人の編集の問題点を客観的に指摘するにとどめる。

以上のことを今後とも皆さんお守りください。 本題のIP126.110.137.210氏による削除への対応ですが、上記議論をふまえ以下のように編集いたします。

  • 大量削除前の2012年10月2日 (火) 22:35の版まで戻す。つまり、中学造士館と現在の学校群の関係性についてふれられた文献名の列挙にとどめる方式にする。
    • その版から現在の版までの間に、126.122.172.144氏が(引き写しなど批判があった部分について削除。)として編集をしているが、これは、出典の文献名や頁までも削除してしまっている(出典追加依頼のテンプレートまであるにも関わらず)ので、一旦2012年10月2日 (火) 22:35の版まで戻す。その後126.122.172.144氏の編集にそいながらも、出典文献名は残しつつ丸写しの部分を除去する。
  • 記事量(記事全体のバランス)については今後改善していく。

とりあえず今回はここまでにします。くりかえし言いますが、再度議論したいことがあれば、まずノート具体的理由と根拠とともに提起してください。宜しくお願いします。--言葉5.10.8会話2012年10月16日 (火) 14:49 (UTC)返信

(追記)
  • テンプレートを議論の告知から編集前の注意(「~~。編集する前にこの記事のノートをご確認ください。」のメッセージ)へ入れ替えました。今後また議論が始まった際には、議論告知のテンプレートは、「編集前の注意」を残したまま、別に貼っていただけるとありがたいです。これまでのノートが無視された編集がたびたびおこっているのでこの「編集前の注意」のテンプレートは必要だと考えます。
  • 「独自研究」のテンプレートはとらせていただきました。理由は、Wikipediaにおける「独自研究」とは「文献上にないwiki編集者独自の考察」のことであり、それにあたるものは現段階ではみあたらないためです。(なお、「文献上にないwiki編集者独自の考察」のことが「独自研究」なので、このノートでたびたび使われている「この文献の内容は独自研究」という使い方は、明らかに誤りだと思います。むしろ複数の文献で関係性が指摘されているにも関わらず、出典の明示なく「現在の学校(群)とは関係がないので削除」という編集の方が、wiki編集者の「独自研究」に当たります)

--言葉5.10.8会話2012年10月18日 (木) 02:20 (UTC)返信

  • 222.151.83.112さんのコメント「言葉5.10.8氏がフォローまでしてくれているのに、見当違いなら見当違いと書けば済むことではないか。答えてくれなくても結構。」について。おたくの言動が原因なのに、この言い草は何でしょうね。逆ギレですか?
  • 言葉5.10.8さんの(五十周年記念誌自体にいえば時代性もあって封建時代とのつながりを書けないこともあったかもしれません。GHQによる学制改革から10年たたないうちの発行ですから。推測なので当然記事本文には書けませんが)について、自分は違う意見があります。ざっと斜め読みしたところ、封建時代ではありませんが軍国主義だったころの出来事、「軍神横山少佐」について詳細に述べられているので、戦後の学制改革とは無関係に結構自由に著述できているのではないかと思いました。--126.122.183.89 2012年10月25日 (木) 12:03 (UTC)返信
  • コメントありがとうございます。確かにそう考えることもできるかもしれません。Wikipediaは編集員の主張を述べ合うところではないのでこれ以上それについては議論しませんが。その点でいうと、私の件の文章は蛇足だったかもしれません。失礼いたしました。どちらにせよ、いちいち~~の文献には~~と書いていないなどと書くことは不毛ですし、Wikipediaは複数名で編集するものですので、誰々が『』の文献を挙げなかったと責めることはできませんので(誰かが挙げた文献を論理的・具体的理由なく削除することは問題ですが)、飛鳥リョオ氏に非はなかったでしょう。--言葉5.10.8会話2012年10月25日 (木) 13:58 (UTC)返信

大教授IP133.44.1.221さまのご高説(編集要約欄)は以下のとおり。

  • 中学造士館記事
    • 出典著者の独自研究。「高い」といった個人の金銭感覚に依拠する表現は中立性を欠くとの判断で削除。[3]
    • 記述はあってもその内容の検証可能性は結局確保できていない。また出典の一部については著しく信頼性を欠いたものも含む。[4]
    • この文献を挙げながら、この頁を引用していないのは故意か[5]
  • 鹿児島県立甲南高等学校記事
    • 参考文献に記載された内容の明らかな誤りおよび独自研究に該当する内容[6]
    • 高等科はその後の旧制高等学校、予科と補充科は旧制中学校の課程に相当は実態ではない。また国庫の支出が皆無=造士館の授業料が高い で(はない←文字数制限で入らなかった部分を補足)[7]
    • 第一、第七高等学校一覧を比較参照すれば明らか[8]
    • 高等学校一覧は当時のデータ(二次資料)、記述の文献は三次資料[9]
    • 検証不可能な記述を除去。[10]
    • 信頼できる情報源に拠っていない[11]
    • 沿革に関して、史料による裏付けがない部分についてより明示的に記述[12]
  • 福岡県立明善高等学校記事
    • 鹿児島県(甲南高校)に関しては、史料に基づいて記述された文献は見当たらず、出典として無効なものがほとんどです。[13]
    • 「削除者の主観」ではなく、文献に対する外部の評価に基づく。また尚古集成館(島津家)Webページは甲南高校につながるといった説明はしていない。[14]
  • 旧制中等学校・新制高校のナンバースクール一覧記事
    • 根拠とできる史料(官報、文部省年報、各校一覧)にない記述。また校種の混同。[15]
    • 校種の混同、独自研究[16]

以上、すべて甲南高校関係について編集していらっしゃいます。--126.31.146.225 2012年10月25日 (木) 23:05 (UTC)返信

島津家に関する記述について 編集

「後裔校について」に《現在、「造士館」の館号を付した学校はなく、また島津家も学校運営を行っていないため、後裔校に該当する学校は存在しない。[要出典]しかしながら、島津家の事業体の一つである尚古集成館の公式サイト内における藩校造士館の説明では「その系脈は第七高等学校造士館や鹿児島第一中学校・鹿児島大学に受け継がれることとなる。」との記述がある。》とありましたが、2012.9.22.18:30に尚古集成館該当ページ[17]閲覧時には《明治2(1869)年に漢学・国学・洋学に分割され、学館となる。さらには本学校と改称し、小学校を卒業した生徒たちを受け入れる学校となった。明治10(1877)年の西南戦争で灰燼に帰したと考えられる。》と修正されているので、記事から削除させて頂きました。ちなみにこのページは「藩校としての」造士館について書かれたものです。『創立百周年記念誌 龍門』(鹿児島県立加治木高等学校百年誌編集企画委員会編、1997年)では公立鹿児島学校と、前項の県立鹿児島中学は統合されて県立中学造士館が設立されるときに関し《島津忠義は県令に「造士館再建の願」を提出し、》とありますが、一時断絶したので「再建」なのでしょう。 それから、《また島津家も学校運営を行っていないため、後裔校に該当する学校は存在しない。》との部分ですが、大半の元藩校は現在国公立の学校ですのでいささか見当外れではないでしょうか。要は「中学造士館は、その後、どの学校のルーツとなった(とされる)のか」がこの節には記載されているのだと思います。 このノートでもこれまでに、「当の島津家がどのようにとらえている(いた)のか(尚古集成館からの発信)」の観点が必要ではないかという指摘もありました。島津家がどうとらえていたかの記述は確かに必要かもしれませんが、それは中学造士館が廃止され鹿児島県第一中学校および鹿児島県第一中学校分校に生徒が収容されたころから鹿児島県立第一鹿児島中学および鹿児島県立第二中学校分校が成立したころの、当時の島津家の考え方が記された資料がみつかれば載せるべきだと思います。尚古集成館は「島津家」の事業ではな、あくまで「島津興業」という会社の運営する施設です(確かに創設者や現在の代表取締役会長などが島津家の方ですが)。尚古集成館のホームページは同館の職員の方々が作成しているので、一つの参考資料にはなりますが、「島津家の考え」と安易にみなさないほうがいいと思います。--言葉5.10.8会話2012年9月22日 (土) 10:56 (UTC)返信

  • コメントありがとうございます。IP氏が(本記事を含めた)編集方針の根拠としていたのが、尚古集成館サイト内の造士館解説でした。本記事が複数名によって編集が集中している時に、後裔に関する記述が削除されました。これが偶然か否かはわかりません。わたくしは、IP氏がかつて記述した「現在、『造士館』の館号を付した学校はなく、また島津家も学校運営を行っていないため、後裔校に該当する学校は存在しない。」という部分も、出典が示されておらずIP氏個人の見解と考えています。--飛鳥リョオ会話2012年9月30日 (日) 06:09 (UTC)返信

出典の扱いについて 編集

当記事内で用いられている出典のうち「中学造士館の研究」は自費出版物なのですが、情報源として可なのでしょうか。wikipediaの方針によれば、「原則として」という条件付きで「情報源としては認められません」とあります。著者の山下玄洋氏は県立鶴丸高校1回卒[18]で元高校教師[19]のようです。山下氏の他にも高校教師の執筆による文献(鹿児島史学=鹿児島県高等学校歴史部会など)が挙げられているので、それらとの文献採用における整合性がわかりません。--126.31.143.179 2012年10月20日 (土) 13:36 (UTC)返信

  • 私は最近編集に参加を始めたため、どういう経緯で『中学造士館の研究』が掲載されるに至ったか正確にはわかりませんが、編集履歴等でわかったことをここに書きます。当時から参加し事情をお知りの方もいらっしゃればコメントをお願いします(私の履歴理解に誤りを発見した方はご指摘下さい)。
    • 最初にこの文献が挙げられたのは私が見つけた限り、「甲南高校」の2008年3月10日14:19の版であるが、単なる参考文献・資料の一つとして挙げられているだけであり、記事本文の記述の根拠とはされていない。
    • 「造士館」(藩校)の2008年12月12日16:42の版において、出典の明示すらない編集がおこなわれたが、明らかに『中学造士館の研究』をもとにした記述である。なぜなら、このノートの一番最初(「後裔校について」の記述について)でBaldwinさんが指摘している、“本校”の意味を誤解した記述であるからです。こうして『中学造士館の研究』が出典としてもちこまれ、その後もこの文献にもとづく記述が増えていったようです。
    • なお、「鶴丸高校」のページで挙げられるのは2008年12月23日14:53の版でまず関連文献として書名だけ挙げられ翌24日06:40の版で例の“本校”の意味の誤解による記述が執筆されたようです
  • 経緯は以上のようなものだと思われますが、本題の『中学造士館の研究』が情報源として可かどうかについて、私は「個人出版は原則情報源として使えないが、他の個人出版でない文献で認められたもの(言及があったもの)については、一つの観点・意見の紹介として使える」と解しているため、以下のように考えます。
    • 副題「史料の紹介と考察」からわかるように『中学造士館の研究』は過去の史料・資料を参考にしているため、他の文献に同様の記述があることも多い。そのような場合は、そちらの文献を出典として差し替えることで対応したほうがよいのではないでしょうか。
    • 『中学造士館の研究』内の著者自身の考察については、他の文献での言及があれば掲載できるでしょう(みつからなければ、その時点では掲載しない方がよいかもしれません)。誰かお知りの方はコメントを下さい。
  • なお、『鹿児島史学』などについては、著者と著作の間に「鹿児島県高等学校歴史部会」などの組織が入っていて(=個人発行ではない)かつ鹿児島県立図書館で閲覧可能(=検証可能性を満たしている)のでWikiの方針からいえば問題ないでしょう。
  • 以上が私の意見です。--言葉5.10.8会話2012年10月21日 (日) 04:20 (UTC)返信

私家版を情報源としないことに賛成です。また同じ理由で同窓会誌、記念誌の類も情報源とするべきではありませんね。これらについても他者による査読があるわけではなく、信頼できる情報源という意味では同レベルだと思います。ただ単に発行したのが個人か団体かというだけの違いで区別する必要もありません。ついでにページのみの記載部分を削除したとのことですが、実際には文献名とページで書誌情報のみを示すのが正しく、現在あるように必然性なく、かつ主体となる文章がないままで該当箇所の転載を続けている状態の方が著作権上問題があり、好ましくありません。 --133.44.1.221 2012年10月24日 (水) 13:27 (UTC)返信

粘着IP氏のおでまし。この方、私家版その他の著書(同窓会・学校刊行記念誌)を蔑視し貶める工作をしながら、自分では何ら有意な編集をしていません。鶴丸高校の百周年記念誌「創立百年」、甲南高校の百周年記念誌「甲南」、一中同窓会誌の一中卒業生と一中教師の寄稿、甲南高校百周年記念同窓会誌など、中学造士館と甲南高校に関連性があるとした文献すべてを排除する意図だということですね。著作権については、書名、著者、発行年、出版社を明示した上で「 」で範囲を示しているので問題ありません。関連性についての文章を隠したいという考えであるのはわかりました。--126.31.151.19 2012年10月24日 (水) 13:44 (UTC)返信

  • IP133.44.1.221さんは、《同窓会誌、記念誌の類も情報源とするべきではありませんね。これらについても他者による査読があるわけではなく》と書かれていますがそれは誤りです。同窓会誌も学校の○周年記念誌も同窓会および学校の公式発行物です。編集員を務めて下さる方が原稿をとりまとめて当然目を通しますし、同窓会や学校の公式発行物ですからその組織の長(この場合同窓会長や学校長)の責任のもとで発行されています。原稿に不適当な記述があれば、当然掲載をしません(個人出版とは違います)。あなたの今回の意見はこういった編集の過程を無視したものであり、公式発行物およびその発行組織に対していささか失礼ではないでしょうか。あなたのこれまでの編集態度(たびたび、氏個人の主張を記事本文に記載する、議論もなしに大量削除を行うなど)からすると、単に自分の主張に合わない文献を排除したいだけでは?と疑われても仕方ありません。
  • 関連してもう一つ。133.44.1.221さんは以前このノートで、「1880年代教育史研究会」の広報物上における田中智子氏の文章を挙げ《[20](要するに書いてあることは信用できないから本人にヒアリングしたいっていうこと。ここまで酷評されているのも珍しい。これを真に受けるとここらの出典は「鹿児島県史」から派生していますから、ほとんどが信頼性に乏しい情報源というお墨付きをいただいたことに)》と述べていますが、私が見るかぎり「信用できない」とはどこにも書いていませんよ。彼女は単に、史料保存状態の悪さを指摘した上で、芳即正氏から史料の所在場所を聞き取ることを提案しているだけです。内容についての懐疑はここではのべられていません。さらに、《ここらの出典は「鹿児島県史」から派生していますから、ほとんどが信頼性に乏しい情報源というお墨付き》というのは明らかにあなたの考えでしょう。むしろ、田中氏は《なお通史的な叙述としては、上記『鹿児島県史』『鹿児島県議会史』のほか、『鹿児島県教育史』下巻(1961)、地元史家山下玄洋の『中学造士館の研究』(私家版、1997)がある。また個別論文として、芳即正「鹿児島学校と三州義塾 史料と政治的背景についての考察」(『鹿児島純心女子短期大学研究紀要』13 1983)、中川言美「島津奨学資金による育英事業の成立と展開」(『地方教育史研究』16 1995)などが参考になる。》と参考文献として容認しています。
  • もし、133.44.1.221さん自身が、文献の内容に疑いをもっているのなら、それはWiki上で議論すべきことではありません。このことは再三注意されてきたはずです。
  • それから、IP126.31.151.19さんは、2012年10月24日 (水) 13:53‎ 、2012年10月24日 (水) 14:29、2012年10月24日 (水) 14:52‎ に記事の記述を大量削除(除去)していらっしゃるようですが、このノートでも、議論無き削除は行わないよう(まずは提起し、合意の形成を試みるよう)喚起していたはずです。マナーは守ってください。

--言葉5.10.8会話2012年10月25日 (木) 01:41 (UTC)返信

  • 必然性なく⇒当該文献において著者がどう述べているかを示す意味で必然性あり。
  • 主体となる文章がない⇒例えば中学造士館の後裔についてなら、当該記述箇所を「 」で引用部分をはっきり示している。
  • 該当箇所の転載日本の著作権法に即した引用。

133.44.1.221なる人物は、他人の発言・記述を自分に都合よく解釈したり、自分の考えに即した考察がある文献を自分で示さないまま自分の考えを書き込んだり、自分の考えに即さない文献はすべて「査読がない」「信頼できる出典ではない」として排除することに一生懸命です。

  • 以下はIP氏の問題発言(一部)。
    • 中学造士館の後裔については、飛鳥リョオ氏はよく資料を集められていると思います。ただし、ご自身の見解に沿った出典についてはという条件付きですが。これは何も飛鳥リョオ氏だけでなく、甲南高校が造士館とのつながりとして記述する沿革は都合よく題材を取り上げてそういったイメージを作り上げていく感じですね。厳密に精査すると実は造士館とは何ら関与がないことが明らかになるのですけれど。
      • ⇒中傷もたいがいにしましょうね。
    • 後裔校の候補を中学造士館生はどうみなしているか(後裔校側からはいくらもこじつけるでしょうが、こじつけられた本人たちはどう思っていたか)
      • ⇒文献の正確性(これはIP氏のwikipediaガイドライン曲解ですが)を求めておきながら、中学造士館卒業生の感情に訴えるという支離滅裂。では一中同窓会記念誌掲載の一中卒業生と中学造士館卒業生の文章は?あ、関連性について述べた文章があって、あなたにとって都合が悪いから、同窓会関係を排除したいのですね。
    • 地元鹿児島での捉えられ方(この部分は飛鳥リョオ氏ががんばると思います)
      • ⇒失礼千万。
    • 何となく二中・甲南関係者の記述で鹿児島の方には残念な感じになっていますね。
      • ⇒意味不明。
  • 中学造士館とその後裔校との継続性を示す公式な文書の存在(現在のところ、第七高等学校造士館一覧しかありません)⇒これについては「同三十四年ニ至リ第七高等学校造士館ノ設置セラルヽニ当リ本館ヲ廃シ生徒ハ総テ同時ニ設ケラレタル鹿児島県第一中学校分校ニ収容セリ」ということで記述があります。この文献をIP氏は「公式な文書」としていますが、鶴丸高校の「創立百年」、甲南高校の「創立百周年記念誌 甲南」と同様に学校刊行物として同類です。--126.81.122.116 2012年10月25日 (木) 03:05 (UTC)返信

(報告) Wikipedia:コメント依頼に提起いたしました。--126.81.118.233 2012年10月27日 (土) 04:50 (UTC)返信

コメント依頼ありがとうございます。分かりづらくなっているので、一旦私の意見を整理しまとめます。

  • 『中学造士館の研究』は個人出版なので、その個々の考察を評価した文献が見つかっていない現段階では情報源にはできない。
    • 但し、「1880年代教育史研究会」の広報物[21]で書名は挙げられているので、(記事本文の情報源にはできないが)参考文献の1つとして紹介することはできる(「私家版」と付記するなどの配慮は必要)。
  • 学校や同窓会の刊行物は公式発行物であり、著者と著書の間に他による編集過程が存在している。よって出典として認められる。
  • 学校や同窓会の刊行物については上記のとおりなので、133.44.1.221氏は、学校や同窓会の刊行物と個人出版物とは《信頼できる情報源という意味では同レベル》としているが、Wiki方針に照らし合わせるとそうはいえない。
    • 133.44.1.221氏の挙げている理由は、自分の考え(甲南高校のノートで《(造士館の後裔(個人的には全くそう思っていませんが)を標榜する学校》と述べている他、《現在、「造士館」の館号を付した学校はなく、また島津家も学校運営を行っていないため、後裔校に該当する学校は存在しない》などと独自の考察(これ自体も問題)を当記事本文に書いている)に合わない文献を排除するために、Wiki方針を牽強付会したものである。それを他の編集者に指摘されても改めようとせず(例えば、甲南高校のノート上で、別の編集者に《wikipediaは、出典の内容が正しいかどうか、つまり文献著者の説・見解が正しいかどうかを議論する場ではありません。編集者(ログインユーザー・IPユーザー)が記述した内容について第三者が文献等で確認できるかどうかが求められます。》と「検証可能性≠文献の内容の真否の確認」「検証可能性=文献にその記述があることを他者が確認できる状態かどうか」を指摘された直後に《記載事実の検証可能性》と言うなど。「独自研究」の意味についても同様に誤用)、またそのように指摘された後は、今度は別のWiki方針を牽強付会して文献を排除しようとしています。
    • 氏は、上述の氏の主張に出典を求められても全く応じず、ただ現在挙げられている文献を排除しようとしています。(このノートの「本記事の編集について」の《 厳密に精査すると実は造士館とはなんら関与がないことが明らかになるのですけれど 」。幾人かの先人が研究公表しているのにも関わらず、ここまで自信をもって言い切れるものはなにかと・・。》に答えずいきなりこの「出典の扱いについて」で学校・同窓会発行物の除去を主張している)
  • 引用については、「」でちゃんと範囲を示し、引用元の情報も記されている。(そもそもこのような関連記述を引用で紹介する形式になったのも、一部ユーザーが根拠もなしに後裔校についての記事文章を削除する、あるいは現在の学校と中学造士館の関係を否定する独自見解を記事本文に記入するなどの問題が多発し、それを避けるための苦肉の策であった)

以上です。他の方の意見も宜しくお願いします。--言葉5.10.8会話2012年11月1日 (木) 01:37 (UTC)返信

  • なかなか意見が集まらないようですね。この記事やノートの履歴、その他関連記事・関連ノートの履歴をなぞったところ、どうやら、いずこの記事もIPユーザー:133.44.1.221氏の編集を契機に荒れる傾向があるようです。133.44.1.221氏はウィキペディアのガイドラインや文献記述に対して独自の歪んだ思想を持ち込んで曲解する主義のように見受けられます。どなたかが書いていますが、私も、133.44.1.221氏がここまで甲南高校関係の記述を改変することに執念を燃やすところからして、私怨でもあるのではないかと思えて仕方ありません。133.44.1.221氏はこれまで甲南高校のノートで2回、中学造士館のノートで2回、議論に参加しています。日本語として意味をなさないコメントがあるほか、彼の意見に対して他人が何がしかの指摘をすると、その後はノートに書き込まず、しばらくしてから従来と同様の改変作業を繰り返しています。今回もそうなるでしょう。さて、文献の取り扱いですが、ガイドラインでは原則として私家版は出典として避けたいということなので、私家版のみを出典とした記述は削除し、他の文献で同様の記述があればその文献を出典として採用するということでよいと思います。学校や同窓会関係の出版物については、学校長・編集委員長・同窓会長を中心とした編集委員会が編集方針を定めて添削をしているので、私家版と同列に語ることに意味はありません。--210.237.32.28 2012年11月7日 (水) 04:25 (UTC)返信
    • Wikipedia自体は査読しませんから、Wikipediaの要求を満たし、持ち込まれるべき文献はだいたいこんなイメージの手続きを経たものをイメージしていました。[22] 同窓会誌、記念誌が私家版と何ら変わりないといったのは、こういった査読制度によって編集などされていないからです。(原稿が著者によって自ら投稿されているのと原稿依頼されているのでは、当然審査手続きは違うはずです。学校側で原稿を依頼しておいて、送られてきた原稿の掲載拒否をするかしら? 内容を査読しているとは学校側も言わないでしょうし、査読された同窓会誌というのも妙な出版物です) それと引用の件は、本当にこのような形でよいのか、詳しい方に聞いてみた方がよいと思います。確か最初にちょこっと文章があって、あとは引用箇所を列挙するだけというのは、引用としては認められないケースが多かったような気がするのですが。--133.44.1.221 2012年11月14日 (水) 23:31 (UTC)返信
  • 査読を経た文章だけがWikiの出典として認められるわけではありません。wikiの方針をちゃんと読んでから編集に参加して下さい。査読のあるなしにかかわらず、私がおかしいと言っているのは同窓会誌・学校出版物を私家版と同様として「情報源とするべきではない」とあなたがいっていることです。このノートでは、同窓会誌や学校出版物に査読があるとは誰も言っていません。ちゃんと著者以外による編集があり、私家版と違って情報源とできるといっているのです査読が云々といっているのはあなただけです。査読のあるなしはWikiの出典としての条件に入っていませんし、そもそも「査読」とは「投稿された論文を審査のために読むこと。」(広辞苑第六版)ですから、あなたの勝手な解釈に沿うと、一般出版物もはぼすべてが出典として無効になっています。Wikiの方針にそわず、自分よがりな考えばかりを披露するあなたの態度を問題視します。
  • なるほど確かに引用の際は、引用箇所と本文の量的主従関係はあったほうがいいかもしれません。それでは、もし、単なる引用をへらし文献にもとづく記述を本文にした場合、「イメージに依拠」だの「独自研究」(wiki方針に合う文献にもとづいていれば独自研究でない)だの「後裔校などない」(これこそあなたの独自研究)だの「この文献を挙げていないのは故意か」(wikiは複数名で編集するものなので文献のもれがあっても個人の責任ではない)だの的外れな文句は言わないということで宜しいですか?--言葉5.10.8会話2012年11月15日 (木) 01:18 (UTC)返信
    • ああ言えば上祐」的な粘着質のIP氏が約1名。しかも上から目線。さて、Wikipedia:検証可能性で彼が大好きな語「査読」は5回ほど用いられているが、「学術的な内容については」という文脈である。また、彼は「査読」の定義的なものとして、わざわざ「外部」リンクを貼っているが、その「外部」リンク自体がウィキペディアの公式ガイドラインではない。余談だが、「査読」が求められる学術誌でも森口某みたいなこともある。次に、引用のあり方について。引用ではなく文献を基にした記述(要約)をした場合、彼は相変わらず「文献の内容は正しくない(から文献も記述も削除)」だの「当該部分の要約は誤り」だの、最終的にはまた「信頼できる情報源ではない」といった主張をして、彼"ら"により記述の改変や削除がなされる悪寒。記事本文の編集履歴を見ると、これまでに起きた数回の"事件"は、いずれも彼が甲南高校関係の記事に対して異常に粘着し(まるでどこかの国民のように)、ガイドラインを"わざわざ"(気に入らない文献を排除したいがために)捻じ曲げて読んだ結果起きたものであろう。甲南高校関係といえば、そのノート(節では3つ目のコメント)で彼はこんなことを書いている。彼がガイドラインを曲解していることを表していると思う。掲出の文献で検証可能かどうかも確認せず編集を元に戻している方に問題があると思いますが。すでにノートで掲出の参考文献の検証可能性に疑義があることも申し上げました。件の記述に対し、事実の検証可能性を確保できる別の文献を示し、説明する必要があるのは編集を元に戻す側です。(出典を示す責任は、ある編集を行った執筆者、またはその編集を残すことを希望する執筆者にあります。・・・信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません。)「上で示された「○○一覧」ですが、これはあくまでもデータであり、これをもとに件の記述を削除するのは不適切だと思います。なぜならば、そこには、データを基にした「あなた独自の判断・見解」があるからです。」これは違うと思いますよ。編集者独自の判断・見解があろうとなかろうと除去したところで、記載状態は元々何も書かれていない状態と何ら変わりはないからです。--126.110.140.124 2012年11月15日 (木) 15:06 (UTC)返信
      • (追記)ああ言えば上祐・牽強付会なIP氏から応答がないということは、ハナから合意する気はなく、これからもこの記事や他の記事で関連記述の改変・削除を繰り返すつもりでしょう。これまでもこのような行為を繰り返してきましたし、ガイドラインについて意味不明な曲解をしたり、他者に対して上から目線の頓珍漢な発言をしたり、最早、ただの荒らしですから、次回同様の行為に及んだら半保護を依頼するのがよいと思います。--126.31.146.8 2012年11月24日 (土) 12:22 (UTC)返信
        • (追記)提案から1ヶ月以上たちました。議論参加者は私(本項の提起者)を含めたIP利用者数名、そして言葉5.10.8さんの限られた人数ですが、そろそろ締めたいと思います(約1名、懸念すべき編集者がいて、その方は今頃またいろいろ理屈を思案中で、そのうち改変・削除を繰り返す虞があります)。編集方針案(1)ウィキペディアの原則どおり、私家版を出典とすることは避ける。(2)ただし、他の文献で同様の記述がなされていたら、その私家版ではない文献を出典とする。(3)後裔に関する記述については、単に文献を元に要約すると「その要約は違う」などといった無用の論争や編集合戦が起きる虞があるので、(a)記事本文には、著者名と要約を記した上で、(b)文献の当該記述から最小限の部分を脚注方式で引用し「」で範囲を明示し、文献名・編著者名・出版元・出版年を明記する。(3)学校記念誌等の扱いについては、一個人が考察を披露したものではなく、教職員の共同作業(「創立百年」では、旧制・新制を社会科・国語科で役割分担し、責任者を置いている。某IP氏は「名前だけの責任者だから無意味」という難癖をつけそうであるが。)であり、校長および記念事業実行委員長の名の下に刊行しているので、問題はない。--126.110.134.186 2012年12月3日 (月) 13:27 (UTC)一部文言の位置を修正しました。--126.110.134.186 2012年12月3日 (月) 13:34 (UTC)返信

「中学造士館の研究」の内容は未発表のものではなく、「鶴苑」にてすでに発表済みのもの。著述にはきっちり裏付けがなされており、情報源とすることに問題はない。しかも後書きに「鶴苑」に発表したことの訂正を含めたことが記されている。

一言付け加えておく。ここまでの議論のやり取りを読んで、退場いただくべきは、IP133.44.氏よりもIP126.110氏の方。議論をする態度でない。中学造士館のノートに「ああ言えば上祐」など持ち出すことに何の意味があるのか?説明できまい。読んでいてあきれるほどの品格のなさ。--118.21.136.4 2013年10月20日 (日) 04:39 (UTC)返信

ページ「中学造士館」に戻る。