ノート:鹿児島県立甲南高等学校

最新のコメント:11 年前 | トピック:参考文献の検証可能性について | 投稿者:126.122.176.249

歌詞の掲載について 編集

124.146.93.109さんによる2007年5月3日(木)17:44の編集で、甲南高校校歌を始め3つの校歌が掲載されました。しかし、著作権に注意などでは歌詞の掲載を禁止しています。よって、一時的処置として伏せさせていただきました。著作権に関しては慎重にしなければならない部分があるので、皆さんの考えをお聞かせ下さい。--AFU 2007年5月3日 (木) 12:07 (UTC)返信

一部訂正。--AFU 2007年5月3日 (木) 12:09 (UTC)返信
議論終了(議論はしてませんが)。取り消しということで。--AFU 2008年3月18日 (火) 16:05 (UTC)返信
100周年記念誌によると甲南高等学校の校歌は1950年制定。作詞 伊地知正一とのこと。問題は伊地知正一が存命か、あるいはいつなくなったかということですね。応援歌は記念誌には存在せず。--hyolee2/H.L.LEE 2008年4月7日 (月) 03:56 (UTC)返信
応援歌は五十周年記念誌に掲載されていますが、制作年は不明です。2008年4月8日(火)19:00(X1mask)

議論無き大量削除について 編集

最近更新したページ」で偶然見かけましたが、ちょっとやりすぎでは?個人的な意見ですが、教育方針の節は若干整理する必要があると思う程度で、他が特に不要な記述とは思えないのですが・・・いずれにせよ、大量削除の際は、まずノートページにて提起して議論されることを望みます。--しいたけ 2008年3月22日 (土) 08:40 (UTC)返信

私も今回の大幅削除には正当性を見出すことができません。削除相当と判断するに足る明確な根拠を示していただければ、と思います。--Hammerfest 2008年3月22日 (土) 09:12 (UTC)返信
お二方と同様、私も今回の大幅削除は疑問を抱きます。2008年3月20日の編集2008年3月22日の編集を行ったJIBANさんに議論参加をお願いしておきました。--AFU 2008年3月23日 (日) 15:27 (UTC)返信
他県の普通科高校を観察しましたが、歴史の長さを云々、進学成績は他校と比べてどうだといった、私には冗舌といいいましょうか、「大言壮語」といいましょうか、他校出身の人間からすると「自慢記入サイト」に陥っている感がありました。鹿児島版では、かなり指針に即したある程度適切な編集になっているようです。私個人としては仕事の関係で、九州の高校についてはよく知っている(つもり)ですが、甲南高校の場合は、フリー百科事典とはいいましても、多数の文献にもとづいた記述ではあるようですが、内容が膨らみすぎていることと、結局の所は学校と同窓会のホームページをごらんいただければ充分な気もするので、必要最低限を目標に、削除をいたしました。議論の場があることは存じておりましたが、やり方がわかりませんでした。ご面倒とご迷惑をお掛けしまして、申し訳ありませんでした。--(JIBAN)
  • (インデント戻し)コメントありがとうございます。削除された趣旨は理解できましたので、その上で私見を述べます。まず、『「自慢記入サイト」に陥っている感』との事ですが、具体的にどの部分を指されているのでしょうか?(個人的には、他校記事にありがちな「○○大学に何人進学した」といった記述もなく、全般的にまともな記述と思います。また、教育方針や目標などはWikipedia:検証可能性を満たすソースがあるなら、記述に相当すると考えます。)次に『内容が膨らみすぎている』これについても、ご指摘が抽象的な感があります。(Wikipediaは字引ではなく百科事典ですので、(冗長な記事や意味のない記事ではなく)内容の説明記事が増加し、読者の理解に寄与するなら良いことです。)
削除、推敲すべきと思う内容について。「教育方針」の節は、学期別の具体的なことまでは書かなくても良いと考えます。なお、「著名な出身者」の節も冗長ではないかと考えましたが、かといって削除・推敲すべき基準も見あたりません。(結局は、学校の歴史が長いため各界で活躍する人物を多く輩出しているということかと思うので、個人的には削除すべきという判断には至りませんでした。)--しいたけ 2008年3月26日 (水) 02:15 (UTC)返信
甲南高校の歴史が特徴的なので歴史の記述が多くなり、学校自慢に見えるのかもしれませんね。学校の基本情報(沿革など)は削除前くらいの記載は許容範囲と考えますが、歴史の記述は簡素化できる余地はあると思います。また、登録有形文化財(本館)・制服・主な行事のKIプロジェクト・甲鶴戦・応援歌・映画『海軍』・その他の節や記述は削除してもよいと思います。理由として、説明が細かすぎる・甲南高校そのものの説明になっていない・手元の資料だけを基にしていて情報を披露しているだけに思えること・そもそも『海軍』は甲南高校の映画ではないことなどを挙げます。著名人も、○○大学教授などはきりがなく著名性に欠けるので記載しなくてよいと思います。念のため、告知テンプレート貼っておきます。--AFU 2008年3月28日 (金) 05:36 (UTC)返信
ご説明を拝見してもやはり抽象的な感じが否めません。特に2回目の出身者の全面削除にはさすがにやり過ぎかなと・・。甲南高校の記述は、しいたけさんも仰るように、基本的にはWikipediaのルールに則っており削除するほどのことはないと思います。百科事典という意味で、ここまで詳細に調べられたことに対し私は敬意を表したいと思います。しかしながら、見る側の視点(特に他校関係者)も考えなければいけないのも事実です。学校自慢ネタに受け取られる部分もあるのかもしれません。その上で、以下、おおよそAFUさんと同意見になりますが、具体的に私の考えを述べます。歴史については、藩校~中学造士館以前の前史と二中以降の(正式な)沿革とに分けて記述したらどうでしょうか。「甲南高校と造士館」は必ずしも要らないのかなと。造士館から二中への流れは沿革の中に入ってるようですから。もし短く出来れば載せてもいいのかもしれませんが。KIプロジェクトは、教育方針と行事のなかの記述と重複します。どちらかに統合を。勉学は果たして要るのかな?と。全国1位云々の記述は事実データですから、掲載自体には問題ないと思います。ただこれは一番の自慢ネタと受取られ易い箇所ですから、書くにしても書き方に配意が必要かと。制服はすべては要らないと思います。ただ、白線帽については本校の特徴的な事のようですし、またせっかく写真もあることですから記載してもいいと思います。登録有形文化財も要らないのかなと。ただ、九州最古の鉄筋造りの事項も特徴的ですから、概要の中に記述していいと思います。応援歌も要らないのかなと。「海軍」は本校自体のことではないのですが、本校の卒業生のことを描いていること、また本校の風景が映っているようですから、上記文化財(校舎)との関係もあり、簡略化して記述すればいいのかなと思います。甲鶴戦は、本校の特徴的行事(しかも他校との)の1つですから簡略化して掲載していいと思います。上記白線帽、海軍、甲鶴戦の3つは大項目その他の項目のなかに落とし込んだらどうでしょう。最後に出身者の件ですが、私もAFUさんに同意します。確かに本件は他の高校でもこのような書き方があるようですし、また明確な基準もないようですので当初は良いのかなとは思いましたが、やはり大学教授等はあらゆる大学を含めればきりがありませんし一定の線引きも必要かなと思いました。私見では、著名な学者または学会の長あるいは学長、病院長等の公職にある人に限ればいいと思います。伝統校である甲南高校であればこそ率先してやられてはどうでしょうか。以上は現時点での考え方かもしれません。今後、見る側の受け入れ方など種々の状況が変わればまた掲載の基準も変わっていくのかもしれません。--W.P203.211.239.14 2008年4月2日 (水) 08:44 (UTC)返信
最後の意見から2週間以上経ち、JIBANさんからの意見も新たに出ません。時間が経ったからという理由は嫌ですが、議論が進まないので、私・しいたけさん・203.211.239.14さんの意見をまとめて記事の充実を再び図りませんか?このままでは編集できないので。意見なければ一度記事を再構成します。2008年4月25日頃まで意見を待ちます。--AFU 2008年4月17日 (木) 14:04 (UTC)返信
(コメント)AFUさんの意見および、記事の再構成にも同意します。なお、わたくしの意見は上記に記述したとおりですが、議論の内容を拝見して一つだけ追加の意見を述べます。登録有形文化財の記述を削除する理由はありません。学校内に文化財的価値のある建造物が現存し、それが公に認められているという事実を記述することは、学校の特徴のひとつではないのでしょうか?(「登録有形文化財」は、所有または管理する企業、団体、公共機関の自らの意志によって守られている文化財なのですから。学校の管理物件たる建築物であれば、それは学校サイドの努力の賜物でもありましょう。)--しいたけ 2008年4月17日 (木) 17:20 (UTC)返信
一部ご意見の中に、引っかかるところがあります。「手元の資料だけを基に披露している」のくだりです。手元の資料と申しましても、文献としては20冊ほどあったように思いますが、全て県立図書館や大学図書館の書庫に保管されている刊行物のようです。実際に各図書館で検索し、閲覧しましたら、全ての記述の内容が存在しました。記述した方は、学校関係の歴史を、よく研究・調査されたようです。ウィキペディアは百科事典であることが建前なのですから、参考文献および参考資料を元に記述することは最低限のことではないでしょうか。資料を根拠としない記述こそ、百科事典にはふさわしくないと思います。私が記述すべきと考える項目は、「登録有形文化財(高等学校の建造物として公的に価値が認められたものであるから。これが不可であるなら、松本深志高校の「本館」、鶴丸高校の「尋常中学校門柱」も不可になる)」「甲鶴戦(当校のメインイベントのひとつであるから)」「造士館および中学造士館(郷土史家の間では知られているが、一般にはあまり認知されておらず、トリビア的要素があるから)」「映画『海軍』(当校の卒業生がモデルの小説を原作に映画化され、当校でもロケが行われているから)」「白線帽(三本線の制帽は、鹿児島県はもとより全国的にも数が少ない、当校の特徴であるから)」。 「教育方針」は簡略化するか、「おもな行事」の「甲南塾」などといった項目に組み込んだ上で削除するという手もあるでしょう。削除の必要性は見当たらなかったため、件の大幅削除は驚きましたが、現在掲載されている状態でも「必要最低限」であるような印象はありますが、せっかくのフリー百科事典なのですから、文献に基づいたとリビア的なことも含めて、整理し、読みやすいようにした上で掲載したら良いでしょう。--60.40.252.15 2008年4月30日 (水) 08:11 (UTC)返信

当方も意見をさせていただきたく…。項目としてあってよいと思うものは

「造士館」…あまり周知されていないので、意外なトピックとして掲載しても読み応えがありそうです。
「甲鶴戦」…硬軟高校のメイン行事の一つで、鹿児島の早慶戦のような感じがするし、高崎VS前橋、仙台一VS仙台二の記事も存在し、さらにいえば、鹿児島県での対抗戦の先駆けとも言えます。
「登録有形文化財」…「しいたけ」さんの仰るとおりだと思います。百科事典なので、記録的なものもあってよいでしょう。
「海軍」…甲南高校自体がロケ地だったとのことですし、何よりも、卒業生をモデルにした小説が原作で、大手制作会社によって二度も映画化されているそうですから、記述する意義は十分にあります。
「制帽」…白線が三本ある学生帽自体、珍しいものですし、旧制中学校時代以来の伝統であるとのことですから、記述の価値はあります。
「甲南塾」…甲南高校の教育方針を具体化したもののようですから、記述すべきでしょう。--219.162.254.118 2008年5月9日 (金) 03:49 (UTC)返信
4月2日に投稿した者(W.P)です。以前AFUさんも書かれていましたが、現在Wikipediaとして不完全な状態と思われる状況が2ヶ月近く続いていますので(勿論時間が経過すればいいという訳ではありませんが・・)、とにかく一歩でも前に進めるため、このあたりで一旦再編集・アップしたらどうでしょうか。とりあえず最初に何もないという訳にはいきませんので、もしAFUさん並びに皆様のお許しをいただければ、まず私がタタキ台的なものを下記の方針に基づきアップしてみたいと思います。前回の投稿でも書きましたが、基本的には本校の記述はWikipediaのルールから外れるものでなく、よく調査をし記述されていると思います。これまで出された皆様のご意見を反映させ、事実データは事実として掲載しながらも、今回の最初の大量削除の理由になっていると思われる見る側の視点も考慮し、学校自慢や冗長と受け取られかねない点には出来る限り配意して再編集したいと思っております。以上について、もしご意見がなければ、1週間程度時間をおき25日頃にアップしたいと思います。これからも皆様とともに少しでもより良いWikipediaにしていければと心から願っております。--124.98.2.71 2008年5月19日 (月) 17:37 (UTC)返信
長期間留守にしてすみません。5月中は本職が忙しくWikipediaのためのまとまった時間がとれない状況です。124.98.2.71さんが代わりになさってくれるならお願いします。申し訳ありません。取り急ぎ返事申し上げます。--AFU 2008年5月20日 (火) 10:58 (UTC)返信

記事内容と容量について 編集

以前合意形成無く編集してまずいことになったので、今回はこちらで皆様のご意見を伺いたいと思います。 本校の記事内容について、過剰(という表現がふさわしいかわかりませんが)な印象が多分にあるように思います。 例えば沿革の件は、こじつけではないのかと考えますが(これまでにノートで議論提議が無いようですので、「こじつけ」だと思っているのは自分だけかもしれませんが)?OBの方々が母校の沿革を古く刻みたいという気持ちが"よく"伝わってきますが。 容量の点からも、もっと「贅肉」…と申しましょうか、スッキリさせる必要はございませんでしょうか。--JIBAN 2008年12月13日 (土) 14:50 (UTC)返信

性急な削除編集の差し戻しについての議論 編集

  • (コメント)前回の議論でも申し上げましたが、文章を軽量化・簡素化する必要はありませんし、ましてや「容量」を理由として有用な記述を削除する理由はありません(勿論、不適切な記述を改めたり削除することに反対するものではありませんが)。本件は、一度議論が行われたことの事実上の「蒸し返し」なのですし、抽象的な言い方ではなく整理すべきポイントを箇条書きで明記し、書き換えの私案も明記した上で、Wikipedia:コメント依頼にて広く意見を募るべきではないでしょうか?一旦、大幅削除前の2008年12月31日(水)23:30版(現状との差分)まで差し戻した上で、議論を仕切り直すことを希望します。編集内容を取り急ぎ拝見しましたが、上記の議論でわたくしが提起した内容(登録有形文化財の件ほか)を無視して削除されていることには(ノートでの議論を無視した編集ですので)遺憾の意を表明します。なお、わたくしは当校や鹿児島県には一切ゆかりの無い者であることも、一応表明しておきます。--しいたけ 2009年1月5日 (月) 15:05 (UTC)返信
  • 以前、造士館の関連で鶴丸高校のノートに参加した者です。当校のノートにも同じ方が書き込みをされ、また今回の大幅な編集もされたのを拝見し大きな疑義を覚えましたので、両校の記述を比較したうえで意見を述べます。まず造士館について、私は甲南高校の説(いわゆる実態論)が有力ではと述べ、結果JIBAN氏は両論併記で編集されました。ここまでは理解しますが、今回の当校の編集においてリンクはあるものの本文の沿革からは削除されています。一方鶴丸高校では本文に残したままです。両論併記であれば両校とも記述すべきだと思います。またほとんどの画像も削除されていますが(今は一部復元されているようですが)、これも鶴丸高校は残したままです。進学についても同様で、当校の記述は検証可能なデータに基づいており問題はありません。登録有形文化財についても同様に当校からは削除され鶴丸高校は残っています。これらの削除は、しいたけ氏も言われるように前回論議の蒸し返しであり一部論議結果の無視です。また両校記述の比較においても公平性と客観性に欠けるものと言わざるを得ません(Wikipedia:中立的な観点)。このような書き込みが続くならば、当校のみならず両校にとっても決していい結果にはならないと思います。最後に、この提案およびレスのなかの、こじつけ、コンプ、贅肉、歪んだ・・、という言葉に強い違和感を覚えます。ここは電子掲示板ではなくWikipediaのノートの場です。相手を尊重し礼を失しない態度なり表現が必要とされるのではないでしょうか(Wikipedia:礼儀を忘れない)。私もしいたけ氏の言われるように12月31日の版まで戻ることに同意します。--60.40.219.7 2009年1月6日 (火) 17:44 (UTC)返信
  • 島津さんの勇み足は……。60.40.219.7さんとしいたけさんのご意見に対し全面的に賛成です。削除する理由がありませんし、失礼ながら「再編集」「簡素化」した方々の私怨か何かがあるようにも思いますし、まるで○chのごとき表現はいかがなものでしょうか。島津さん等の編集は行きすぎです。少なくともJIBANさんの両論併記版まで差し戻すことを提案します。--210.237.32.111 2009年1月8日 (木) 02:00 (UTC)返信
  • 上記のように疑義が多く挙げられています。大胆な記事内容の削除、というのは私もよくやっていますが、やりようというものがあります。どうすれば執筆者全体のコンセンサスを得られるかをもう少しよくお考えになられてから投稿すべきでは。私も12/31の版まで戻すことを支持します。--Hammerfest 2009年1月10日 (土) 15:39 (UTC)返信
  • (コメント依頼を提起)独断で行われた大量削除編集の差し戻しについて広く意見を募るため、Wikipedia:コメント依頼#合意形成のためのコメント依頼に提起しました。なお、本件議論はわたくしが上に記述しているとおり2008年12月31日(水)23:30版(現状との差分)へ差し戻すための議論としますが、賛成・反対意見のほか、その他の意見があればぜひコメントを残してくださいますようお願いします。(差し戻しの議論についてはセクションを設けました。)--しいたけ 2009年1月11日 (日) 09:51 (UTC)返信
  • 当該記事を膨大にした張本人です……。当該記事もですが、各地の学校記事に大幅加筆をしています。「大幅改定」(「大幅改訂」?)されてから静観していましたが、意見をさせてください。当校専用の百科事典ではないので、ここまで書き込む必要はないという意見もあるでしょう。ですが、当該記事以上に詳細で膨大な記事はたくさんあるのも事実です。本文に関しては、当初は参考文献を列挙していただけですが、今は文献に番号を振った上で、記事に対応させているようです。これは「検証可能」であるため、削除の理由にはなりません。私は最近、「文献を列挙するだけではなく、記事に対応させながら論拠を示すべきである」という議論を、どこかのページで見ましたが、これにも沿っていると思います。私としては、当然、「大幅改定」以前に戻すべき(戻して欲しい)とは考えますが。--飛鳥リョオ 2009年1月17日 (土) 17:52 (UTC)
    • (コメント)飛鳥リョオさん、コメントありがとうございます。わたくしの問題提起は上に書いたとおり「議論無き大量削除」であり、削除すべき記述があるならば具体的な指摘をして議論を提起すべきだという主旨です(当然ながら、検証可能であれば何でも記述していいというわけではありませんから、削除そのものを頭から否定するものではありません)。なお、わたくし自身は「(2008年12月31日(水)23:30版において)特に削除すべき記述は無い」との認識を持っておりますが、個別議論が提起されれば是々非々で判断しようと考えております。--しいたけ 2009年1月18日 (日) 08:53 (UTC)返信
  • (コメント依頼と処置について)コメント依頼前後にたくさんのご意見をいただき、ありがとうございます。再度の削除提起に関わった方には個別にメッセージを送っておりますが、現在のところ反応がない状態です。引き続き、議論当事者やそのほかのみなさんのコメントをお待ちしたいと思っておりますので、もうしばらくおつきあいくださいませ。--しいたけ 2009年1月18日 (日) 08:53 (UTC)返信

皆様お疲れ様です。再度、張本人です。当記事において大きな比重を占めている一つとして甲南高校と造士館の関係がありますが、ここで異論反論が発生し、大幅削除が行われ、差し戻しても編集合戦が起きる恐れもあったため、関連記述は研究者諸氏の考察を交えて、「造士館」に記述しました。ところが、「造士館」記事でも、藩校としての造士館よりも、その後の流れと後裔についての比重が大きいとして、意見が出されており、当方も思案中です。それから、当方は鹿児島県に関係する者ではありますが、議論となっている両校の関係者ではないこともお断りしておきます。

さて、当記事について妙案はないものか思案中です。

前身諸校については、「藩校造士館との関連性が指摘されている」旨記述するにとどめ、「藩校造士館記事」あるいは新規に作成するかもしれない「中学造士館記事」を参照する方式にするのはいかがでしょうか。 記事内容を、同校を説明するにふさわしい特徴的な項目と解したいのですが、これはどこからどこまで書くかという、フリー百科事典特有の問題に陥るでしょう。そこで私は個人的に「あってしかるべき」と「あってもよい」に分けたいと思います。

「あってしかるべき」→「造士館」(鶴丸記事も同様)、「甲鶴戦」、「登録有形文化財」、「校章」(前身との関連を語る上で)

「あってもよい」→「白線帽」、「進学実績」、「分校の名残として云々」

論理的に説明せよといわれると困ります(これではダメですが…)が、(他の学校記事も含めて)膨大にした責任が私にはありますので、第三者の皆様のご意見に従いたいと思います。--飛鳥リョオ 2009年1月18日 (日) 15:16 (UTC)

  • 上記1月6日に投稿した者です。今回鶴丸・甲南両校、造士館の3つの記事について論議の場が提起されています。これらの記事は互いに関連しますのでこの場で再度意見を述べたいと思います。私は飛鳥リョオ氏の各高校の記述については、出所文献もよく明示されるとともに、種々の情報に触れることの出来る良い機会だと思っております。記事の分量だけが削除の理由にならないことは既出のとおりですが、仰るような責任を感じるなどということはないと思います。前にも書きましたが、今回の大幅な編集により両校の記事項目にアンバランスが生じています。まずはこれを公平にするためにも編集前まで戻すことを前回申し述べました。ただこの際、前史の最終行に分校設置を加えたほうがいいかもしれません(次の正史最初行の二中の( )部分も含め)。鶴丸高校の造士館の記述については、もう既にされているようですが造士館との関係に触れる今の記述でいいのではないでしょうか。造士館の記事については、ノートにおいてこぶまき氏が仰るようにやや分量的にバランスが悪くなっていることは私も感じます。そこで後裔の部分は既に飛鳥リョオ氏もお考えのように、中学造士館などの記事を新規に立てそちらに移すことがいいように思います。以上、追加の投稿で申し訳ありません。よろしくお願いします。--60.40.234.102 2009年1月21日 (水) 17:55 (UTC)返信
    • 簡単ですが意見を。まず、他の人の意見の繰り返しになるかもしれませんが文量に起因して削除する必要はないと思います。しかし、削除前としても文量が多く、ここまで記載する必要があるいのかな、とは思います。つまり、特筆性のある事項を必要最低限の文量で簡潔に記載するように心がけるべきです。さて、削除にあたって議論がなかった件ですが、さほど問題ではないかと。なぜなら、何をどれだけ削除しようと編集者の意図が無いわけではないでしょう(今回は削除文量が多いかも知れませんが1部分まるごと削除、と思った結果でしょう)。その後、しかしそれは問題だと思って今回のように議論すればいいわけで。編集の文量によって事前の議論が必要なんでルールはありませんし。言いたいことをまとめると、文を復活させるなら簡潔に書くべきと考えます。そして、鶴丸高校との兼ね合いが上手くいかないなら、書かない方が無難と思います。--AFU 2009年1月23日 (金) 12:16 (UTC)返信
      • (コメント)AFUさん、『削除にあたって議論がなかった件』は問題がないと仰っていますが、問題大ありです!わたくしの提起は、削除については過去に何度も議論を行っているにも関わらず、そこで提起された内容を考慮せずに記述を削除していることを問題視しています。よもや、どの部分に問題点があるか(削除するとしてどの部分をすべきか?)を具体的に指摘していただくよう求めているにも関わらず、具体的な指摘が無く独断で編集されることは遺憾ですし、対話をもって行うべき「合意形成」のプロセスを著しく軽視したものと考えます(参考:Wikipedia:ページの編集は大胆に)。なお、現状は記述内容についての議論が深まっておりますので、議論の推移を見守りつつ必要な処置を行うか、主な執筆者のみなさんに記事の再構成作業を委ねようと考えています。--しいたけ 2009年1月23日 (金) 16:35 (UTC)返信
        • これは失礼しました。よくよく履歴等を確認し、しいたけさんの問題提起を踏まえると、同一人物によって一度は解決したはずの削除編集がなされているわけですね。自分の考えでは、JIBANさん・島津隼人さん及びコメント依頼からの新たな意見はないようなので削除された部分は簡潔にしたうえで早急にほとんど戻してよいかと。ただ、歴史に関して各人で認識が違うようなことになっているなら(長文で深く深く説明しないと文意のずれを招いてしまうようなら)、書かなくてよいでしょう。確実な事象のみ年表に書けば充分です。また、進学実績も書かなくてよいでしょう。また議論になること必至ですから。--AFU 2009年1月26日 (月) 07:07 (UTC)返信
  • (コメント依頼終了予告)当コメント依頼を提起して約1ヶ月となりましたが、多くの方のコメントをいただき、誠にありがとうございました。現時点において提案(編集差し戻し)については反対意見がありませんし、記事の再構築についての具体的なコメントも多くいただいています。あと7日間ほど様子を見たうえで提案についての疑義や反対意見がない場合は、編集差し戻しのうえでコメント依頼を終了します。なお、議論の継続を希望される場合は、できるだけ明確にコメントをいただきますようお願いします。(記事の再構築作業については、できましたらコメント依頼終了後にお願いします。)--しいたけ 2009年2月5日 (木) 16:13 (UTC)返信
    • (処置、コメント依頼終了)当記事を2008年12月31日(水)23:30版に差し戻しましたので、本件コメント依頼を終了します。記事の再構成や加筆については、上記議論を尊重したうえで別途議論くださいませ。--しいたけ 2009年2月13日 (金) 09:16 (UTC)返信


「造士館」とのつながりについての議論 編集

藩校造士館廃止から七高造士館設立にいたる部分にも一部修正すべき箇所はありますが、甲南高校の沿革に含めるかどうかに関わらず、概ね、このような記述になるのでここはひとまず置いておきます。問題とするのは二中の設立の部分です。(そもそもこの部分が正しく説明できていないと、造士館と二中・甲南がつながっているとはいえず、上記を記述する意味もなくなります)

まず、これは修正ではなく確認ですが、「しかしながら3年生以下の下級生が残っているため、同年5月、県第一中学校分校を設置し3年生以下を収容した」の部分の「しかしながら3年生以下の下級生が残っているため」の表現が気になります。県中学造士館の新4、5年生は第一中学校に収容されたのであって、七高に収容されたわけではありません。(この引用元である参考文献自体がこのことを理解していないような記述になっていたので確認しています)この理解のとおりであれば、現在の記述では誤解されやすいので(どこまでを引用箇所としたかはっきりしませんが)上記の部分は削除した方がよいと思います。

次にすでにお気づきの方も多いと思われますが、「つまり、県中学造士館から県立第一中学校分校と改称された1901年(明治34年)に1年生として入学した生徒が、5年後、二中の第1回卒業生となる」の説明は明らかな誤りで、二中1回卒は1908年(明治41年)ですから、県中学造士館時代に入学した生徒はこれに該当しません。記載中の1901年(明治34年)に1年生として入学した生徒は1904年(明治37年)分校から本校に移って学ぶことになります。(この時点ではまだ分校なので、4年生以上の生徒は在籍できない。)二中は1906年(明治39年)春に新4年生となる生徒を含め4箇学年で開校したので、この4年生が2年後に卒業して二中1回卒となります。参考文献が挙げられていますが、この部分は文献からの引用でなく本記事執筆者の誤解によるものと考えられ、部分削除しても異論は出ないと思われます。

また「この学校は明治29年12月25日に新設され県立中学造士館と称したものが、・・・」に始まる当時の校長事務取扱 沢田重遠 県事務官の挨拶文が引用されています。これを文字どおり忠実に受けとめると、二中の前史は明治29年12月25日から始まっているとはいえそうですが、同時に高等中学造士館より前の歴史に全く言及していない点も指摘できます。この挨拶文は注意して扱わないと、二中前史として遡れるのは明治29年12月25日までで、それより遡る高等中学造士館以前の学校と二中・甲南とは無関係であるということが公式に宣言されているという、むしろ逆の解釈にもなり得ます。沢田重遠氏についてはあまりよく知らないのですが、当時の人の、それもおそらく二中が分校から独立するのに何らかの寄与があったと思われる方の発言は重いです。後の時代の人間がこの発言を乗り越えて22年前まで遡れると記述するには相当の根拠による説明がないと沿革的につながっているとはみなしにくく、この後に続く部分の記述は拡大解釈とされても仕方ありません。少なくとも論旨展開が同じかどうか保障できない別々の文献をただ結合しただけのような現在の引用の仕方では記載全体への信頼や整合性を損なうおそれもあります。

文献10でこの挨拶文が紹介されているのは事実であるものの、(上記のようなことが考慮されたかは判りませんが)その解釈までには立ち入っていません。「中学造士館」ノートに(名称論)=山下氏、(実態論)=芳氏、山田氏とする図式は別の意味で逆なのではないかと記述しました。挨拶の中で「中学造士館」という名称に触れているという事実で沿革的つながりがあるとみなすのか、それとも明治29年から数年にわたって生じている高等中学造士館から尋常中学造士館への大きな隔たり、その実態を示す当時の意識とみるのか、この挨拶文を引用するのであれば、そのような解釈の違いが生じることを考慮しつつ、もう少し慎重に取り扱うべきでしょう。

同窓会誌の内容としてはむしろ現在のような記述でよいとさえ思いますが、事典の記述として詳述するのであれば、未だ掲載できるレベルに到達していないように思えます。かつて大幅削除があったようですが、その削除のしかたには感心できないものの、削除されるには削除されるだけの何らかの理由があり、現在の記述はそういうものが含まれた状態で留まっているとはいえると思います。--Baldwin 2010年4月20日 (火) 16:50 (UTC)返信

参考文献の検証可能性について 編集

まずは宿題ですが、各高等中学校の授業料は当時の各校が示す規定によれば、以下のとおりであって、高等中学造士館の授業料は他の高等中学校より低く設定されているのは明らかです。(単位は、圓/年)

第一高等中学校 本科20 予科15 [1]

第二高等中学校 本科20 予科15 補充科10 [2]

第三高等中学校 本科20 予科15 予科補充15 [3]

第四高等中学校 本科20 予科15(補充科10)[4]

第五高等中学校 本科20 予科15 補充科15 [5]

鹿児島高等中学造士館 本科10 予科6 補充科4 [6]

「高等中学造士館となってからは、貧困による退学者が多かった。官立でありながら、国庫の支出が皆無であり、造士館の授業料が高かったためでもある。」という記述は上記の事実とは全く矛盾しますが、現在挙げてある文献によって検証可能といえますか? 上記の部分だけでなく、ここで挙げてある文献は矛盾や誤解、また検証不可能なものが多く、参考文献の著者らの見解が述べられているだけのように思いますが。沿革もあやしいです。全体をもう一度書き直すべきだと思います。 少なくとも上記の事実の根拠がどこにあるかを示せないうちは記載しない方がよいのでは。島津家は国庫の支出が皆無であっても、学生に負担がいかないようにしていた事実を覆うことになるからです。(造士館の後裔(個人的には全くそう思っていませんが)を標榜する学校の割には、そういう配慮を全く理解しない学校ですよといっているのと同じです) ノートを読んで気付いたのですが、「造士館」とのつながりについての議論はたぶん同じことを指摘しているのでしょう。


[1] 第一高等中学校一覧(自明治二十四年至明治二十五年)第一高等中学校編 57p (1892)

[2] 第二高等中学校一覧(自明治二十四年至明治二十五年)第二高等中学校編 16p (1892)

[3] 第三高等中学校一覧(自明治二十四年至明治二十五年)第三高等中学校編 45p (1891)

[4] 第四高等中学校一覧(自明治二十四年至明治二十五年)第四高等中学校編 37p (1892)

[5] 第五高等中学校一覧(自明治二十五年至明治二十六年)第五高等中学校編 23p (1892)

[6] 鹿児島高等中学造士館一覧(自明治二十四年至明治二十五年)鹿児島高等中学造士館編 27p (1892)

--133.44.1.221 2011年2月16日 (水) 11:23 (UTC)]返信

  • ご意見ありがとうございます。さて、wikipediaは、出典の内容が正しいかどうか、つまり文献著者の説・見解が正しいかどうかを議論する場ではありません。編集者(ログインユーザー・IPユーザー)が記述した内容について第三者が文献等で確認できるかどうかが求められます。反論・異論にあたっては出典を明示の上で編集していただく必要があります。それがなかったため3RR違反となり、他の方が「保護依頼提出」する事態となりました。「(別の出典の)この説が正しい(と自分が思う)」から、それまでの出典明示された記述を削除し書き換えるのではなく、「一方で(著者)は(文献)にて~~と述べている」と書くほうが良いのではないでしょうか。あと、上で示された「○○一覧」ですが、これはあくまでもデータであり、これをもとに件の記述を削除するのは不適切だと思います。なぜならば、そこには、データを基にした「あなた独自の判断・見解」があるからです。そのデータを示すならば「なお、○○一覧(~年刊)によれば当時の学費は以下のとおりである。第一高等中学校 …、第二 …」というような書き方になるでしょうし、データを基にした文献があり著者が見解を述べているならば、先述の通り「(著者)は(文献)にて……」という書き方になるでしょう。注意したいのは、記述に当たって「編集者の見解」を入れないことです。--飛鳥リョオ 2011年2月16日 (水) 14:09 (UTC)返信
    • 件の記載部分について他の編集諸氏の判断を待っているところですが、編集を元に戻した飛鳥リョオ氏は編集保護に至った経緯と何が要求されているのか理解していますか。履歴をよく確認して下さい。件の部分は除去されているのであって、編集されたのではありません。上でいろいろ書かれていますが、むしろ、掲出の文献で検証可能かどうかも確認せず編集を元に戻している方に問題があると思いますが。すでにノートで掲出の参考文献の検証可能性に疑義があることも申し上げました。件の記述に対し、事実の検証可能性を確保できる別の文献を示し、説明する必要があるのは編集を元に戻す側です。(出典を示す責任は、ある編集を行った執筆者、またはその編集を残すことを希望する執筆者にあります。・・・信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません。
「上で示された「○○一覧」ですが、これはあくまでもデータであり、これをもとに件の記述を削除するのは不適切だと思います。なぜならば、そこには、データを基にした「あなた独自の判断・見解」があるからです。」
これは違うと思いますよ。編集者独自の判断・見解があろうとなかろうと除去したところで、記載状態は元々何も書かれていない状態と何ら変わりはないからです。だから記述を追加しようとする側に(特にデータと矛盾するような事実を記述する場合には)記載事実の検証可能性が要求されるのです。老婆心ながら、Wikipedia:検証可能性Wikipedia:信頼できる情報源をもう一度読み直されることをすすめます。
「記述に当たって「編集者の見解」を入れないことです。」
なるほど仰るとおりですね。しかし、記述せずとも「編集者の見解」に沿う資料のみが集められやすい点にも注意すべきです。--133.44.1.221 2011年2月22日 (火) 22:49 (UTC)返信
  • 全体的に、あなたが削除した文章については、直前の版では文末に複数の文献が示されていましたので、私は元に戻しました。鹿児島県立甲南高等学校#参考文献・資料に掲出された文献のうち、1,2,3,5,6,8,9,10,11,12,13,18,19は鹿児島県立図書館蔵書、20は現在も書店で販売中、17はアマゾンで購入可能、16は萩市公式サイト内の10ページ目で確認可能な状態にあります。それから、編集保護の理由ですが、Wikipedia:保護依頼の変更履歴をたどれば、Sakoppiさんが保護依頼を出していらっしゃいます。2011年2月15日 (火) 21:39の版でSakoppiさんは「出典の記入を巡り、IP氏が3RR違反。」を理由としています。繰り返しますが、あなたが記事内容について疑義があるならば、文献を示したうえで「一方で(or ところが)、(文献著者)は~~と述べている」と書くべきであったところを、記事内あるいは文中にて文献を示さないまま、あなたは削除しました。肯定的であるか否定的であるかに関わらず、編集者(ここではあなた)自身が異なる見解を持つからということで文献が示された文章を削除したのは不適切ですので、私は復元を試みました。あと、「○○一覧」(記事内・文中であなたが明示していない)の件ですが、それが一次資料(純粋なデータ)として、数字を見て“あなたが”「他校と比して~~だ」と判断したから当該文章を削除したと、私は受け止めています。しかしここで削除された文章につきましても、先述のとおり当時の版では文末に複数の文献が示されていました。--飛鳥リョオ 2011年2月23日 (水) 15:49 (UTC)返信
    • 133.44.1.221殿って、日本語がわからないのだろうか。読解力がないのだろうか。それともウィキペディアのルールを悪意でもって曲解しているのだろうか。このお方が上(2011年2月22日)で書き込んでいる「編集者独自の判断・見解があろうとなかろうと除去したところで、記載状態は元々何も書かれていない状態と何ら変わりはないからです。だから記述を追加しようとする側に(特にデータと矛盾するような事実を記述する場合には)記載事実の検証可能性が要求されるのです。老婆心ながら、Wikipedia:検証可能性、Wikipedia:信頼できる情報源をもう一度読み直されることをすすめます。」の部分など、最早意味不明。--126.122.176.249 2012年11月1日 (木) 09:07 (UTC)返信

前史について 編集

  • 2012年10月2日(火)14:45‎の126.110.137.210さんおよび2012年10月2日(火)23:56の126.81.120.122さんによる編集において、本記事の沿革より略歴および、年表の前史部分が削除されました。126.110.137.210さんは編集の要約で「論争のもととなる項目を削除。中学造士館と甲南の関係性を否定する者もいる。」と述べていますが、具体的に「誰がどこで」否定しているかは不明です。 / 私は、甲南高校の前身旧制二中の設立の経緯を理解するうえでも前史は必要だと考えています。 / また略歴も大まかな学校の歴史を把握するために必要だと思います。下に書いてあるような鶴丸高校と中学造士館の関係性を否定しないためにも「1884年設立の中学造士館の流れをくむとされる鹿児島県立第二鹿児島中学校(1906年創立)」と述べるにとどめていました。 / 同様に、年表も中学造士館については「前史」として二中設立以降のいわゆる「正史」とし(学校側も「前史」と称している)、「前史」では学校名の変遷等を記載するのにとどめ、詳しい沿革は中学造士館のページにゆずられていました。 / 以上の理由から略歴および前史は必要だと私は思うのですが、皆さんの意見もお聞かせください。
  • この記事もその元となっている文献も、単に「甲南高校のルーツは、中学造士館だ」という旨であり、「中学造士館の後継校は甲南高校のみだ」としているわけではありません。あくまでも、甲南高校からさかのぼると中学造士館にいきつくということであり、鶴丸高校の前身(鹿児島県尋常中学校 ⇒ 鹿児島県第一尋常中学校 ⇒ 鹿児島県第一中学校 ⇒ 鹿児島県立鹿児島中学校)と中学造士館の関係(明治30年、鹿児島県尋常中学校の一部生徒を鹿児島県尋常中学校へ移籍したことや鹿児島県中学造士館廃止時に第4学年及び第5学年を鹿児島県第一中学校に収容したことなど)を否定するものではないと思います。これまでの編集を見ていると「(後裔校は)鶴丸か甲南か」という二択的な考え方を(個人的に)している一部の編集者が話をややこしくしている印象をうけます。
  • なお、2012年10月2日(火)23:56の126.81.120.122さんによる編集では、校章の画像も一緒に削除されていましたが、これについては以前から<! ->で隠されていたようで理由がよく分かりません。著作権の関係かもしれませんが、誰か事情をお知りの方はお教え下さい。

--言葉5.10.8会話2012年10月3日 (水) 14:59 (UTC)返信


  • 中学造士館ノートに続き、本ノートにも書き込みをします。重複するところがあるかもしませんが、予めご容赦ください。

私は、このノートに2008年から参加している。過去、本ノートで定期的にといっていい位、議論が起きそれが終わったかと思えば、しばらくしてまた同じ議論が蒸し返される。私は、一番の問題は今回も含め、先ずノートに提起もせずにいきなり大量削除するという、そのやり方にあると思っている。また、内容については、常にこの学校が造士館とは一切関係がないというものである。しかし、それについての文献は示されることなく、一方的に自己の見解(それこそが、まさにここでよく使われる「独自研究」)の表明の繰り返しである。

さて、ここで議論になっている「前史」「正史」という言葉を使うことを提案し、議論後2008年5月に本ページを再構成したのは私である。当時の議論を見ていただければ分かるが、造士館との関連性を示す文献はいくつか認められることから掲載することに異論はなく、不肖、私がページの再構成をさせていただいた。ただし、歴史については、学校設立は二中創立の1906年になっていることから、正確性を期すため、それ以前の歴史は「前史」とし、以降を「正史」とした。

ここで議論になっているテーマについてだが、提起者の方が言われていることに全面的に同意する。今回の削除の仕方が、先に述べたやり方であること、また、「関係性を否定する者もいる」の意味も不明であることがその理由である。先ず、その文献なり根拠を示すことが必要とされる。ここのページやノートを見ていると、2008年12月のノートを初め、WIKIにはおよそ相応しくないような書き込みが多々ある。なぜか、鹿児島の特徴か権威主義的なものかよく分からないが、学校の問題に非常に拘るところがあること(そうでない人も多いことは承知の上だが)、また書き込みの仕方も高圧的であり、削除理由を概要だけで済まし、ノートで出典・文献を示すことなくきちんと説明しない。他県者には非常に奇異に感じる。書かれたことについて、それを検証できる文献(文献が「独自研究」というならばその基準・根拠を示す必要がある)が示されていれば問題はない。前史とはいえ、学校の成り立ちがその設立以前にあるという研究があれば掲載すべきであろう。多面的な情報の提供はWIKIの読者にとって有益なことだと思う。それが必要か否かを判断するのは読者である。

最後に、お尋ねの校章の画像の件について、ここ一連の編集のなかで一旦ブラインドされていたものが今回の編集で完全に削除されたものでは?著作権については、問題ないのでは。この画像は説明文章を補完する意味で載せていいと思う。大幅削除前のページに戻すことに同意する(進学情報は今ではもう不要でいいと思う)。--180.32.246.202 2012年10月8日 (月) 11:03 (UTC)返信

180.32.246.202さん、コメントありがとうございます。 提起から約2週間たちましたので以下のようにします。

  • 略歴および年表の前史を戻す
    • 具体的理由や根拠の提示がない削除であったため
    • 旧制二中と中学造士館との関連性を示す文献はいくつか認められるため(上述の鶴丸高校の前身と中学造士館の関連性は否定しない)
  • 今回以前のノートも含めそれを無視した編集は行わない。もし、その必要性があると考えるなら、まずノート具体的理由と根拠を提示し、合意の上おこなう(ノートへの提起なしに大量削除などをおこなわない)。

なお、校章についてもとりあえず戻しますので、何か問題があればこのノートでご指摘をお願いします。 --言葉5.10.8会話2012年10月16日 (火) 13:18 (UTC)返信


上記IP180.32.246.202です。言葉5.10.8さん、ページ再構築お疲れさまでした。拝見させて頂きました。このテンプレートは望ましいことではないのですが、このページの経緯を考えると止むを得ないでしょうね。私もここには頻繁に来られないのですが、今回のことも含め何かの縁ですから、他所からではありますが今後も見守っていきたいと思います。皆さんの手によって平穏なWIKIページになることを心から願っております。--180.32.246.202 2012年10月21日 (日) 19:27 (UTC)返信

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