ノート:人間革命

最新のコメント:4 年前 | トピック:人間革命のゴーストライターの件 | 投稿者:126.212.248.176

人間革命のゴーストライターの件 編集

「ともあれ、執筆にあたって、今までも多くの方がたにご協力を戴く。..........とくに私を激励してくれたS氏にいたっては、資料の収集はもちろんのこと、文体の運び方、文章の調子、結構までご協力を戴き、感謝の言葉もない。益々のご協力をただ乞う。」『随筆人間革命』(p47、聖教新聞社)

「資料の収集はもちろんのこと、文体の運び方、文章の調子、結構までご協力を戴き」と言っているんだから、ほとんど代筆ですね。--以上の署名のないコメントは、Roushi会話投稿記録)さんが 2007年7月1日 (日) 07:13(UTC) に投稿したものです。

上記のRoushiさんの文章、元々はWikipedia‐ノート:「要出典」をクリックされた方への方に記述しておられたものですが、場所が不適切ですのでこちらにカットアンドペーストさせていただきました。引用して下さった部分に関してですが、つまりは「資料の収集と文章作法や構成について協力してもらった」ということになりますが、これをもって池田氏が代筆をほぼ認めていると断定できないように思います。現在本文に載っている「池田大作もほぼ認めている」というのは上記出典に対する解釈ですが、ウィキペディアの公式な方針の1つWikipedia:独自研究は載せないに『記事に含められるのは、信頼できる情報源に基づいた、検証可能な内容に、「解釈を加えていないものだけです」』というのがありますので、「池田大作もほぼ認めている」の部分はカットすべきだと考えます。--Mait 2007年7月3日 (火) 08:48 (UTC)返信

あの有名な「人間☆革命 頭がパーン」の人間☆革命ってこのことですよね?--82.237.39.18 2008年2月19日 (火) 11:12 (UTC)返信

小説・人間革命と新人間革命のあらすじを解説してください。

== あらすじ ==

あらすじに書枯れていた内容が、あまりに細かく著作権違反に抵触する可能性がありましたので削除しました。差し戻される場合は内容が著作権に抵触しないか必ずコメント依頼や管理者へ確認いただき了承を得ていただけますでしょうか。--Mondowether会話2018年11月18日 (日) 08:06 (UTC)返信

== 小説の項目 ==

小説の項目に内容の重複及び不用な内容が掲載されていましたので、精査の上、削除しました。不明点や疑問はこのノートページにお願いできますでしょうか。--Mondowether会話2018年12月1日 (土) 02:46 (UTC)返信

「『人間革命』が代作であった可能性を島田裕巳は示唆する」は重複ではないですね。出典のある記述を消すには相応の理由が必要です。「不用」だけでは何も分かりません。 --2001:240:2408:C788:F46D:1F0D:D9DD:D0ED 2018年12月1日 (土) 08:43 (UTC)返信

===作品が代作であるという説への言及=== 作品が代作であるか否かは作者の名誉に関わること。出典があるからといって記載して良い内容ではない。代作の部分は記載はなくても本文に影響無く、問題にならない。IP利用者はブロックされたアンチ学会アカウントのブロック破りでしょうか?--Mondowether会話) 2018年12月1日 (土) 10:55 (UTC) ちなみに小説の項目は戸田版●年●日から●年●日、池田版●年●日から●年●日、新・人間革命は●年●日から●年●日迄聖教新聞に掲載位に簡略しても全く問題ない。IP利用者さんへ。異論に対しては対案を出していただきますでしょうか。--Mondowether会話2018年12月1日 (土) 11:03 (UTC)返信

小説を実際に書いたのが誰かが小説にとってどうでもいい情報(「なくても本文に影響無く」)とは考えにくいですが。著者が誰であるか諸説ある作品も少なくないこと、そういった場合にその諸説を記述するのがWikipediaの役目であることは言うまでもないと思いますが、いかがでしょうか。存命作家の場合はそういった論争の記述に慎重になるのも分かりますが、戸田氏の『人間革命』は存命作家の作品ではありません。しっかりした学者の提唱する説であれば、無視するべきではないでしょう。 --2018年12月3日 (月) 09:09 (UTC)
主流説は戸田氏の作品であるという説、少数説として代作の可能性を示唆する学者もいる、という風な書き方はいかがでしょうか。「主流説は戸田氏の作品であるという説」ということを明記するに足りる情報源はあるでしょうか。 --2001:240:241D:18B:F46D:1F0D:D9DD:D0ED 2018年12月3日 (月) 09:16 (UTC)返信

IP利用者さんへ、まずは対案提示とコメント依頼提出ありがとうございました。この場で御礼申し上げます。さて、対案の中身ですがIP利用者さんの主張は存命人物→代作の掲載×、既に死亡している人物→代作の掲載○。要は戸田城聖は死後50年以上経過しているため著作権侵害にあたらずという主張だと思われます。難しい問題なので回答はあなたがコメント依頼を提出されていることもあり、他の方のご意見も参考に答えを出したいと考えます。ちなみに私は多数派、少数派という主張は混乱回避の為避けるべきと考えます。一括して著作に対する代作やゴーストライターの主張は内容の如何に関わらず、掲載不可の主張に変わりありません。

(IP利用者さんへ質問)このページの12/1投稿と12/3投稿は若干IPアドレスが違うようですが、可変式のIPアドレスを利用した同一人物なのでしょうか?、また混乱を未然防止の為アカウントの取得はなさらないのでしょうか?是非お応えいただきますようお願い申し上げます。--Mondowether会話2018年12月3日 (月) 22:13 (UTC)返信

ここに書き込むのは初めてのコメント依頼者とは異なるIPユーザです。コメント依頼を見てここに来ました。学会とは別の宗教に属しています。学会組織内の(たぶん、上層部的な地位にあるであろう)知人は何人かいますが、学会には興味ありませんし、勧誘されたこともありません。書物の内容も、難しい教義書なのだろうと思っていたくらいで、小説だというのも今日知りました。そのくらい興味がありません。そういう第三者的な立場で、雑感を述べます。
1:議論の中に「著作権に関する意識の時代性」という観点を導入されてみては如何でしょうか?
執筆者を何としてでもたった一人に収斂させようとする方向性は、どうも原理主義的すぎる(あるいは多少、個人崇拝的な傾向があるのかもしれない)ような印象を受けました。個人の印象なので、学術的な議論に資するような根拠はありませんけれども。
議論の流れを大雑把に見た印象では、要するに、今で言うなら代表著者とか映画なら総監督のような表示でされるであろう立ち位置に近いのではないか、という感じを受けました。
私が直接知っている範囲でも、弟子が師匠のために書いて、師匠の名前で出版されるということは20世紀の頃まではかろうじてそういう風潮がありました。21世紀に入った途端に世代交代の波で、一気に縮小しましたけれども。
私の師匠もそういうお弟子さんを(生活に資する仕事を宛がって)1人抱えていましたし、そのほかにも、今90歳代の先生の代筆者だった今60歳代後半の先生も直接に存じ上げ、苦労話なども直接伺ったことがあります。
(具体的なソース出せといわれると、それはちょっと業界内のマナー的に差し障りがあるので、申し上げられません。)
実際には師匠の名前で刊行されたりテレビ放映されたりするわけですから、師匠の名を汚すようなレベルの低い内容しか書けない人は師匠から指名されません。
つまり、そういう立場に取り立てられたお弟子さんを、他の弟子たちは、一種の羨望の眼差しで見ていた記憶があります。
なお、誰先生の“下書き”をするのは誰だ、という事実は、組織の中でごく近しい人しか知らないようになっていました。
おそらく、「S氏」はその当時の、その組織内の中核にいた人たちなら、それが誰なのか、はっきりわかる程度の側近中の側近だったのだろうと思います。
先に挙げた私が直接知っている二人の例では、師匠は当然のような顔をして知らんぷりでしたが、そういった、今でいうなら編集補助者、下書き者、口述筆記を請け負った編集ライター、映画やアニメなら助監督や台本担当者などに相当するような人物が「いた」ということを敢えて「S氏」と明示的に示した所に、当該人物(代表著者とか発表著者名義人でも言えば良いのでしょうか)の「清廉さ」や「公明正大さ」を読み取ることもできるのではないかという気もします。
そうすると、何が何でも一人の執筆者が全部を書き上げた方向に持って行くよりは、「諸説を併記」しながらも、「ゴースト・ライター」というあまりにもマイナスの印象が強い用語(それで失脚した音楽家がいたこともまだ記憶に留めている人も多いでしょうから、抵抗感がある人も多いだろうことは想像に難くないですよね?また、何としてでもゴースト・ライターと書きたがるのも、アンチをこじらせた感があって、第三者的には嫌な印象を受けます。)を避けて、何か、落としどころのある文章にしてみてはどうかと感じました。
文言をどうすべきだ、これこれにしてはどうか、と具体的に提案できないのは申し訳ないのですけれども、第三者的には「紛糾しそうな予感があること」については、双方のメンツが立つような落とし所の書き方を模索するのが「世界平和」のためには良いのではないかという気がします。両国の外交官が事前交渉で、発表予定の「覚書」の文言を相互に意見交換して詰めて行くようなイメージですね。
2:実利的な面で言えば、たった一人に著作権保有を収斂させることは、今後、TPP絡みなどの面で不利に働くのではないかという気もします。「権利者の可能性がある」という風に、分散させて権利者とその失効の捜索がなるべく大変な方向性に持って行った方が、権利の留保を長期化させることができるような気がしました。 --2018年12月25日 (火) 16:02 (UTC)--以上の署名のないコメントは、61.211.97.23会話/Whois)さんが 2018年12月25日 (火) 16:03 (UTC) に投稿したものです(Nami-ja [会話 履歴]による付記)。返信
今のところ、「ゴーストライター」の記述を推す人はいないと思います。元々の記述は「代作であった可能性」でした。「代作であった可能性」については、いかがですか? 「代作」に必ずしも否定的な意味合いはない、といった解説はあっていかもしれませんが、個別の書物の記事ではなく代作(これは現在リダイレクトですが)かそれに相当する記事で解説すべきことのように思います。(個別記事からはそこにリンクすることができます) --2001:240:2413:6892:7562:CD19:291E:DE6A 2019年1月24日 (木) 12:21 (UTC)返信

ブロックされたノーザン123のソックパペットコメントに打ち消し線--126.212.248.176 2019年5月24日 (金) 02:54 (UTC)返信

ページ「人間革命」に戻る。