ノート:放蕩息子のたとえ話

工事中テンプレ。削除報告。超教派記事として作り直します。 編集

リベラル系の方でも福音派系の方でも、自分の好む文献のみで記事を作成しようとする傾向がjawpに存在します。これこそが、プロジェクト:キリスト教/出典の明記プロジェクト:キリスト教/中立的観点で問題になる記事がこれまで量産され続けている問題の本質です。

たとえば私が、「放蕩息子のたとえ話」について、正教の文献のみで記事を作成したらどうなるでしょうか?痛悔機密や聖体機密(領聖)との関連の意義付けばかり載せた記事になったら、それは「一般の百科事典」と言えるでしょうか?

どうか御賢察を賜りたく思います。国会図書館で明治の文献まで漁らなければならない正教の文献までとは申しません。せめてリベラル、福音派、ローマカトリック位のものは揃えるのが筋ではないでしょうか。

またこの削除についてですが、ローマカトリックでもよく聞く重要な話ですし、正教に至っては特別に記憶する「蕩子の主日」が正教会暦三歌斎経に定められています(まさしく来週がそれに当たります。三歌斎経参照)。プロテスタントのみが殊更に記憶しているかのような記述を削除しました。--Kinno Angel 2011年2月13日 (日) 14:19 (UTC)返信

これに特筆性があって、奇蹟関係の記事に特筆性がないとは、一体どういう基準かわかりません。--イザヤ 2011年2月13日 (日) 14:52 (UTC)返信
奇跡関連の記事については、一律で特筆性が無いなどとは申しておりません。現段階では「感覚」と申し上げるしかないのですが、お望みであれば「記憶する主日の存在」「福音書の読まれる頻度」「取り上げている注解書の頁数」といった裏打ちデータを示しても宜しいです(正直言って何で私がこんなことをしなければならないのか、感情的には得心行かないのですが)。--Kinno Angel 2011年2月13日 (日) 14:56 (UTC)返信
上記イザヤさんと私Kinno Angelの会話で出ている「奇跡関係の記事の特筆性」を巡る議論につき、第三者の皆様に申しますが、ノート:イエスの奇跡での議論のことです。--Kinno Angel 2011年2月13日 (日) 15:16 (UTC)返信
で、上記ノートでも申しておりますが、「他言語版の数は、もちろん絶対の基準には成り得ないが、指標の一つには成り得る」旨申しております。本記事についても、他言語版が大変数多く存在しており、聖書関連の記事に対する(私個人の)行動基準には反していません。--Kinno Angel 2011年2月13日 (日) 15:17 (UTC)返信
Kinno Angelさんの言われることは、ごもっともです。私の記事の文献が福音派に偏りすぎているという点は否めません。以前は、自由主義神学の文献も大量に蒐集しておりました。しかし、今現在は地理的、住居的制約があって、それらの文献をほとんど手放してしまい、手元には福音派中心の文献しかない状態で、自由に文献を読むことができない状態です。制約がありつつも、必死で文献を集めていますが、追いていないのが現状です。そして、実際自由主義神学について正式に学んだことのない私には、まだ自由主義神学について知識が浅く、福音派的な視点に引きずられているのが状態です。生半可な知識で見当はずれなことを書くのではないかという恐れがあります。ですから、自由主義神学、ローマ・カトリック、正教会などの文献をお持ちのかたがたに、修正と加筆をお願いしたいと思って、あえて、福音派POVの色の濃い記事を書いております。その点は心苦しいと思っておりました。ですので、私のスタンスは、遠慮なく偏向を修正していただきたいのです。ですので、福音派、自由主義神学、ローマ・カトリック、正教会、そして一般の研究者のスペシャリストがみんなで知恵を出し合って公平な記事になることが私の理想です。是非、それらのスペシャリストで交流を持てるようにしたいと以前から思っていました。プロジェクト:キリスト教がそういう場になればと願っています。さらに、私自身でも、公平な記事を生産するように努力は続けていきたいと思います。--More blessing 2011年2月14日 (月) 23:29 (UTC)返信
More blessingさん、真摯なコメントを頂き、恐縮です。
残念ですが、あまりにもいろいろと面倒な議論に巻き込まれ、コメント依頼まで出されるなど粘着を受けるようになり、疲れてしまいました。短期間ではありますが少し休ませて頂きます。工事中テンプレは外させて頂きました。--Kinno Angel 2011年2月15日 (火) 06:35 (UTC)返信

内容についての確認  編集

スミマセン、本文に「二人の息子のたとえ」ともかかれておりますが、マタイ21:28以下の二人の息子のたとえと混同してしまう(内容的にも大幅に違うので)ので確認したいのですが、「放蕩息子のたとえ話」を「二人の息子のたとえ」とされているのは何処ら辺の文献なのでしょうか?キリスト教は宗派によって幅が広すぎて…。
私も同感です。「二人の息子のたとえとも呼ばれる」という解説はよくないと思います。マタイ21:28の二人の息子のたとえと混同してしまいます。削除させていただきました。--村田ラジオ会話2017年11月9日 (木) 21:47 (UTC)返信

「完全なる小品、短編物語中の最高傑作、福音書の中の真珠」の表現について 編集

以前からなんとなく引っかかる一文だったのですが、理由がわかったので説明します。このたとえ話のすばらしさを賞賛する表現なのはわかるのですが、イエス・キリストのたとえ話はすべてがすばらしいものでありまして、上下のランク付けを意味してしまう表現はふさわしくないと思うのです。「完全なる小品」も「最高傑作」も「福音書の中の真珠」も上下のランクづけを意味してしまいます。たとえ話はどれも、ある状況のなかで、神の知恵がひらめいて出てきたものだと思うので、文学作品のような賞賛の仕方はつつしむべきではないかと考えます。それで、この部分を「福音書に登場するたとえ話のうちで最もよく知られているもののひとつである」と書きかえさせていただきました。--村田ラジオ会話2018年10月8日 (月) 21:45 (UTC)返信
ページ「放蕩息子のたとえ話」に戻る。