ノート:百人斬り競争/過去ログ2

最新のコメント:8 年前 | トピック:たぬき氏の自分勝手な削除について | 投稿者:総持庄一
過去ログ1 過去ログ2 過去ログ3

記事の検証、判決

一連の東中野修道+笠原+他の記事検証結果は、どうして消すのか。独自研究は一行も含まれていない。構成は独自のものだが、それは他の人も同じ。どうして消すのか?---総持庄一会話2015年11月10日 (火) 01:36 (UTC)

歴史と判決とがごちゃまぜ。野田、向井両方の記述で記事は事実だったと言いたいみたいだが。2年後に向井が話したという記事にあたってみたのか?その記事なぞ、会ったという事実(私の想像)以外、何も真実を伝えていない噴飯記事。こんな記事を向井が自分からしゃべっただのと、まともに取り合うのはおかしい。---総持庄一会話2015年11月10日 (火) 01:36 (UTC)

判決について。日本は講和条約を受け入れて独立を回復した。条約には極東裁判を受け入れる条項が含まれていた。条約は国内法に優先する。極東裁判の有罪を無罪にできない。極東裁判の判決文に収束させるように、日本の裁判所は判決した。裁判官が歴史を決めるなら、歴史家は要らない。歴史と判決を分けてくれ!---総持庄一会話2015年11月10日 (火) 01:36 (UTC)

「捕虜や一般民衆に対する殺害・・多数存在している」は、なぜ根拠になり得るのか。世に殺人が横行している。だから野田は殺したんだ、と言っているようなもの。これを載せるなら、私が書いた反論も載せてしかるべき。---総持庄一会話2015年11月10日 (火) 01:36 (UTC)

消したのは管理人だと思うが、正当な理由を付した返事がほしい。---総持庄一会話2015年11月10日 (火) 01:36 (UTC)

  • 利用者:たんたたたぬき (旧名: 利用者:東中野花道)さんはこの編集で要約欄に「編集者の主張、独自評論、関係のない話を削除」と書いて情報の大量除去を実行してしまっています。まず、「編集者の主張」は書かれていないように見受けられますが、どの部分がそれにあたるのかをノートにて指摘してください。次に、編集者の独自評論はおろか編集者の評論も入っていないように見受けられますが、もしあると考えるならば、具体的にノートに書いてください。最後に、「関係のない話」とはどの部分にあたるのでしょうか? いずれにしても腕ずくで解決しようとしないで問題点があると感じたならそれらを指摘したうえでコンセンサスを得るよう努めてください。あと、Wikipedia:記事の所有権も読んでいただくと他の利用者は助かると思います。
  • 総持庄一さんへ:利用者:たんたたたぬきさんは、管理者ではありません。そもそも管理者はルールを遵守しますから、こうした強引な編集はありえませんね。Takabeg会話2015年11月10日 (火) 03:57 (UTC)

「編集者の独自評論はおろか編集者の評論も入っていないように見受けられます」と管理人が判断しているなら、削除したのが不当だということ。こんな事が横行するなら削除のし放題だ。削除は一瞬。管理者の責任で元に戻し、勝手なことをやっている編集者をなんとかしてくれ。---総持庄一会話2015年11月10日 (火) 05:19 (UTC)

Wikipedia:管理者#管理者一覧を見てください。私は「管理人」ではありませんし、管理者でもありません。また、管理者に元に戻す責任というのもありません。当該箇所は除去されただけで削除されたわけではありませんので、ここを見て総持庄一さん自身が適切だと思った版に戻すこともできます。それでも、問題がおさまらないときはWikipedia:論争の解決に従って解決してみてください。Takabeg会話2015年11月11日 (水) 09:37 (UTC)

花蝶風月雪月花警部氏は、私の表現を修正しまくっている。その時それが最適だと判断してそう書いたのだから、それを尊重してくれないかなー。ある文なぞ、句読点まで修正の対象になっている。私は小学生か。「朝日新聞と裁判所はちがった」は事実だろう。そうじゃないのか?「何故か裁判所」は、裁判所批判とも言えない表現だが、裁判所は批判の対象にしてはまずいのか?「浅海記者は・・矛盾を抱えることになった」は、穏当な表現にした結果だ。浅海記者はあちこちで嘘をつきまくっている。「取材手法について、・・・と批判した」は、意味が通じない所あり、「批判した」が2度出てくる。修正には、理由があれば対応するつもりだが、なんで勝手に修正するかねー。---総持庄一会話2015年11月12日 (木) 07:04 (UTC)

  コメント 私の編集は、文章を百科事典に則した表現に修正したものである。ウィキペディアは利用者のエッセイや評論を記述する場所ではない (WP:NOTESSAYWP:NOTOPINION)ので、御自身の感情や考察を挿入しないようにお願いします。--花蝶風月雪月花警部会話2015年11月12日 (木) 13:46 (UTC)

花蝶風月氏はもっともらいい事を言いながら、私の書いた文をずたずたにし、勝手に気書き直している。これによって焦点をぼかし、責任の所在をあいまいにしている。要するに東京日々、朝日新聞、本多勝一に有利に導くことを目的に、こんなことをやっている。本多の応援団でもいいが、卑怯なことをするな!こんなことやってると本多の評判も悪くなるだろうに。---総持庄一会話2015年11月12日 (木) 18:32 (UTC)

総持庄一氏の編集について

  • "肯定側の主張"節
  • 「遺書は本多勝一によると、互いに罪をなすりつけ合っている。」は、典拠が示されていないため除去した。
  • "否定側の主張"節
  • 志々目彰氏の回想記への批判は、内容について直接言及した典拠が皆無のため除去した。
  • 下記の文章は、誰が発したものなのか典拠が示されておらず、総持庄一氏の感想や解説の類にしか見えないため除去した。
「この訊問記録の発掘によって、浅海記者は自身の問題として矛盾を抱えることになった。」
「朝日新聞と裁判所はちがった。」
「何故か裁判所は証人を一人しか認めなかった。」
「と言われる所以か。」
  • 佐藤振壽氏の証言(氏が2少尉と浅海記者の会見内容に対して抱いた疑問)が除去されていたため復帰した。

総持庄一氏に対し、Wikipedia:検証可能性Wikipedia:中立的な観点Wikipedia:独自研究は載せないWikipedia:ウィキペディアは何ではないかを読んだ上で編集をおこなってもらいたいと強く希望するものである。--花蝶風月雪月花警部会話2015年11月30日 (月) 13:42 (UTC)

両少尉と同じ大隊(歩兵9連隊第3大隊)の大野少尉(第3大隊第9中隊第1小隊)陣中日誌に拠り東中野修道が検証 (中略)11日戦況は進展しなかった[12]、とある。

この部分、話に関係ないですよね?少なくても、これは「当時の報道」ではありません。 挿入する意味がわかりません。 あと、「高い評価を受けた」という文言はWikipedia:大言壮語をしない に抵触します。

北村稔は、(中略)死刑判決が下ったとしている

日本語が変です。「下ったと主張している」でしょう。

山本(中略)論争を『死人に口なし』に逃げ込んで、今後相手はご免被ると一方的に打ち切った」

山本七平氏の「私の中の日本軍」と鈴木明氏の「南京大虐殺のまぼろし」のことを言っているのでしょうが、 時系列がおかしいです。両方とも書いてある箇所がすぐ下にあるのだから、そちらに書くべき。 それから、「本多は論争を一方的に打ち切った」というのは事実に反しますし、 (論争の打ち切りを宣言したのは山本七平) 原告サイドを称揚し被告サイドを批判(というより中傷に近いレベル)する原告側の書いた 文章をそのままwikipediaの文章にするというのは、Wikipedia:中立的な観点に反します。

臼井吉見「特派員の署名記事で、銃後の話題を賑わそうとの特ダネゲームの与太ばなしであった・・」、開高健「ジャーナリズムの幼稚と無責任をうまくついた作品で・・もっと正面から告発してもよかった」、小田実「百人斬りというような事件は、真実には、それ自体はたしかになかったものにちがいない」

ここに「南京大虐殺のまぼろし」を評価する文章を載せる必要があるのでしょうか? 「南京大虐殺のまぼろし」の項目にも同様の文章がありますし、 論争について一つの本にひいて評価をする文章を載せるのなら、同量の批判する文章も 載せなければ中立性の侵害ですし、一つの本について全部そういうことをしていたら 無秩序に文章が膨れ上がっていくだけではないでしょうか?

「肯定側の主張」「否定側の主張」ですが、「肯定側の主張」側が 肯定的な資料の紹介という客観的なものに対して、 「否定側の主張」側はまさに「主張」(裁判の判決で明確に否定された原告側の主張も多く含まれる)です。 あと、否定側の主張は量が多すぎます。 総持庄一氏は原告側に対する応援の気持ちを強く表明していて、wikipediaの項目を原告(否定側)の主張で 埋め尽くしたいのだと思いますが、 Wikipedia:中立的な観点に、

論争の余地のない主張を単なる意見として記さない。

対立する観点との相対的な勢力差を正確に示す

とあります。 「裁判で正しいと判定された被告側の方が受け入れられている説である」 という気はないですが、「肯定側の主張」と「否定側の主張」はせめて同文章程度にすべきではないでしょうか。 それと、「肯定側の主張」というタイトルと内容(主張は入っていない)が一致していないので、 タイトルは「肯定する根拠」に戻すべきかと思います。

”民衆に対する殺害”に、次ぎの留意はあっていいだろう。

独自評論です。


そんなことも有ってか、記事を書いたのは光本記者と言われていた。だが、名誉毀損訴訟中に東京裁判の訊問記録が発掘される。

独自評論です。東京裁判の尋問記録は裁判前から知られていました。

被告側の主張で、引用する遺書全文はこちら

両少尉自身が、遺書等で両少尉が記者に話したと記していることは、判決で認められています。 判決で認められた被告側の主張にわざわざ「被告側の主張」と書き、 判決で却下された原告側の主張をあたかも客観的な真実のように書くのは、 中立性に反します。--たんたたたぬき会話2015年12月5日 (土) 02:30 (UTC)


花蝶風月氏に反論

  • 「直接言及した典拠が皆無のため除去した」とは妙な言いがかり。直接とは何を以て言うのか。あらゆる重要と思われる情報を提供して読者の判断材料にするのは、論述の基本。この場合、志々目は「極東裁判が開かれた・・・(銃殺は)当たり前だな」と言っている。「(銃殺は)当たり前」という結論を導いたのは、文章の論理構造から、「極東裁判」の理解が大きな要因であることが分かる。それが検閲による報道規制によって大きく歪められていたとなれば、読者にその情報を提供する。これがあると本多側に都合が悪いのか?再度いう。卑怯なことはするな。
  • 「矛盾を抱えることになった」は、事実そうだから。矛盾していないとでも言うのか
  • 「朝日新聞と裁判所はちがった」。これも事実。そうじゃないとでも言うのか。
  • 「何故か裁判所は証人を一人しか認めなかった」は出典明示する
  • 「と言われる所以か」は後述に改良。
  • 佐藤振壽の証言―1項目目は否定側の主張3で既に述べられている。特に佐藤振壽しか出来ない内容ではない。自分が書いたものは大層な扱いで、人が書いたもの削除のし放題か。

自己の公平を言いながら、肯定論には何の制約も課していない。

  • 「・・・浅海、光本、安田、鈴木記者が創作した』と主張したが」は出典が示されていないが、花蝶風月氏はなぜ削除しない?
  • 「1947年の夏、ともに陸軍少佐・・・南京軍事法廷において住民捕虜虐殺の容疑で起訴された」は出典が示されていない。なぜ削除しない?
  • 「住民捕虜虐殺の容疑で起訴された」とは書かれてていない。削除希望。「虐殺した」罪でとは書かれていない。訂正したらどうか。
  • 「据え物斬りだった」と「推測している」はなぜ削除しない。推測ならなんとでも言える。本多が言えばいいのか。
  • 肯定側の主張ー3項目目は出典が挙げられていない。なぜ削除しない。

「Wikipedia:中立的な観点」はどこへいったのか。---総持庄一会話2015年12月7日 (月) 06:02 (UTC)


削除しろと言った。なぜ私の時と同じように削除しない。追加

  • 「野田少尉と同じ小隊に所属していた」出典がない削除希望。
  • 「否定するような証言はしておらず、むしろ自分の故郷などで武勇伝的に語」出典がない削除希望。
  • 志々目の件。再度いう。卑怯なことはするな。
  • 佐藤の記述「出廷した際、陳述書の中で」は妙な表現。これについての悪口は省略。

---総持庄一会話2015年12月8日 (火) 05:29 (UTC)

  • 「当時の報道ではありません」→後述に改良
  • 「高い評価を受けた」は出典明示する
  • 「北村稔は・・・下ったとしている」「主張しているでしょう」。この人がこう感じこう表現しているものを、こう直せと言うあなたの主張が理解できない。「脚色、事実の書き換え」は事実で、事実は主張しなくても事実。北村が言っていつことに根拠がない、論理の飛躍があるなら、本を読んでそう指摘すれば済む話。ちなみの、これは私が書いた文ではない。
  • 「一方的に打ち切ったというのは事実に反します」ならその典拠を示せ。
  • 「時系列がおかしいです。・・下にあるのだから、そちらに書くべき」。雑誌連載で論争が行われた。単行本が出るのはその後。、「鈴木明が出版し・・事実でなかったと主張した」は私が書いたものでないから、敢て直さなかった。主張はその前からしている。
  • 「原告側の書いた 文章をそのまま」「中立的な観点に反します」。肯定側の主張も被告側の言っている文章をそのまま載せている。これをどうするのか。この場は、主張し合っている場なのだから、原告の主張でも何も問題ないはず。
  • 「評価する文章を載せる必要があるのでしょうか」。文それ自体は、「百人斬り」を言ったもの2つ、南京事件報道に関しジャーナリズムへの警鐘を言ったものが1つ。どの機会に言おうが、当時の受け止め方が直に伝わってくる文章だ。小田実のは全然別の機会。
  • 「中立性の侵害です」。秦、洞富雄の肯定説だけだったのを、否定説を載せて中立を保ったんですよ。
  • 「裁判の判決で明確に否定された原告側の主張も多く含まれる」。それなら、裁判所はこう言った、と言えば済む話。
  • 「主張は量が多すぎ」「同文章程度にすべきではないでしょうか」。なかったことを証明するには難しい。あらゆる矛盾、祖語を衝かないと出来ない。それには分量がいる。それに対し、あった事は1つ記せば済む。あなたはその1つで十分余裕を感じていればいいだろう。
  • 「論争の余地のない主張」それを言ってくれて、納得すれば、私の書いた部分は応じよう。
  • 「根拠に戻すべき」。変更したのは、仲間の花蝶風月だ。
  • 「民衆に対する殺害”に、次ぎの留意はあっていいだろう」評論だとは思わないが、変えてみよう。
  • 「尋問記録は裁判前から知られていました」埋もれていたのを「発掘した」。変なところはないが、なんなら変えてもいい。「光本記者」出典は挙げられるが、削除したほうがいいだろう。
  • 「遺書全文はこちら」は読者に判断を下す材料を提供している。これになぜ文句が出るのか。「判決で却下された原告側の主張をあたかも客観的な真実のように書く」はどのこと。注釈に「遺書全文」を書いただけなのだが。

直すのに時間がかかるが、もう少し待っていただきたい。----総持庄一会話2015年12月8日 (火) 06:11 (UTC)

総持庄一さんと花蝶風月雪月花警部さんへ、編集の履歴を見ると、御両名の「プチ編集合戦」のような様相を呈しているように見受けられます。ノートを使用している点はよいのですが、議論がかみ合っていない様子ですよね。現在、総持庄一さんの作業が継続しているので、とりあえず書いていただいて、ある程度まとまったところで、検証して問題点を指摘するという形にしてはいかがでしょうか?それと、総持庄一さん、現在加筆にあたり使用している資料を具体的に列挙していただけませんか? 恐らくは私も所有しているはずですので、優先的に時間を割いて検証作業にお付き合いさせていただきたく思っております。それでは。Takabeg会話2015年12月8日 (火) 14:43 (UTC)

  • 『南京事件』秦育彦
  • 『「南京大虐殺」のまぼろし』鈴木明
  • 『南京「百人斬り」の真実』東中野修道
  • 『「百人斬り競争」と南京事件』笠原十九司
  • 『百人斬り裁判から南京へ』稲田朋美
  • 『「百人斬り訴訟」裁判記録』百人斬り訴訟を支援する会
  • 『本当はこうだった南京事件』板倉由明
  • 『南京戦史』偕行社---総持庄一会話2015年12月9日 (水) 02:59 (UTC)

追加


変更点を以下に---総持庄一会話2015年12月9日 (水) 07:46 (UTC)

  • [報道を検証]として別項目に立項
  • 「高い評価を受けた」にレファレンスを追加
  • 本多はこの論争を『死人に口なし』、『今後相手はご免被る』と一方的に打ち切った
  • 「その後、鈴木明が南京大虐殺のまぼろしを出版し百人斬りは事実でなかったと主張した」→「その後、鈴木は雑誌分載の主張をまとめた「南京大虐殺のまぼろし」を出版し、大宅賞受賞する」に変更
  • 「当時の著名著述家の反応」を挿入。
  • ”民衆に対する殺害”に、次ぎの留意はあっていいだろう → ”民衆に対する殺害”に関し、研究者は次の留意を記している。
  • 「そんなことも有ってか、記事を書いたのは光本記者と言われていた」削除。付けたしを入れ「句容の記事(6日付)も光本記者ではなく、浅海記者が書いたものと確認された」に変更
  • 「何故か裁判所は証人を一人しか認めなかった」 → 「何度となく、証人を調べてほしいと申し入れ、上申書も提出した。しかし裁判所は認めなかった」出典明示
  • 勝手に削除された「志々目彰の回想記」の記述を復活。「(銃殺は)当たり前」という結論を導いたのは、文章の論理構造から「極東裁判」の理解によっていると分かる。その裁判とはどんなものだったのか、読者に情報を提供するのは、大いに意味がある。
  • 「電話取材した稲田朋美に望月の親族は言った」これを花蝶風月氏はなぜか執拗に改変する。
  • 「秦郁彦は、田中正明が本多勝一を"無責任なレポーター"と評したことを紹介している」に変更

レファレンス付きで示すと-----------------------------------------------------

総持庄一氏の編集について(2度目)

  • 「報道を検証」の項は、要するに「報道は記者らの創作だったと主張する原告の主張は正しい」

と言いたいのでしょうが、でしたら「否定側の主張」に移動してください。

  • 「南京大虐殺のまぼろし」を褒める文章は、鈴木明の項に既にあるのだから、

そちらを参照する形にするべきです。明らかに冗長でしょう。

  • 「論争を『死人に口なし』に逃げ込んで、今後相手はご免被ると一方的に打ち切った」

は、これも「否定側の主張」なのだから、否定側の主張に移動してください。

議論の余地のない

判決文を引用します。 『両少尉自身も,その遺書等において,その内容が冗談であったかどうかはともかく,両少尉のいずれかが新聞記者に話をしたことによって,本件日日記事が掲載された旨述べている』

  • 「志々目彰の回想記(公演から三十数年後の発表)について」

要するに、「そのような左翼的な考え方を持つ志々目彰の証言は嘘に決まっている」と主張 したいようですが、そのように自分の主張をwikipediaに記載することを「独自研究」といい、 wikipediaが禁止していることです。

”民衆に対する殺害”に関し、研究者は次の留意を記している。

言い方を変えても独自研究は独自研究です。 そもそも、研究者って誰ですか? 本多が主張する「民衆に対する殺害」に反論している研究者がいて、 その研究者の反論を引用するのでなければ、それは独自研究というものです。


これにより記事は光本記者ではなく、浅海記者が書いたものと確認された。

独自研究です。 そもそも、光本、浅海の両名記載されている記事に対して浅海氏が「私が書きました」 と言っても、それは光本氏が書いていないという根拠にはなりませんよね?

  • あと何点か「弁護側」という箇所がありますが、これは「原告側」の間違いですね。
なかったことを証明するには難しい。あらゆる矛盾、祖語を衝かないと出来ない。それには分量がいる。それに対し、あった事は1つ記せば済む。あなたはその1つで十分余裕を感じていればいいだろう。

何か勘違いをなされているようですが、wikipediaはあなたの主張を載せるための場所ではありませんし、 私はあなたの反対の主張をしているわけでも花蝶風月雪月花警部氏の仲間でもありません。 分量がいるのなら、どうぞあなたのブログなりホームページなりで堂々となさってはいかがですか? --たんたたたぬき会話2015年12月12日 (土) 03:39 (UTC)

検証その1

1.「南京百人斬りの虚報で死刑戦犯を見殺しにした記者が今や日中かけ橋の花形」『週刊新潮』1972年7月29日号、36頁。

「そして記事にあるように、紫金山麓で二人の少尉に会ったんですよ。浅海さんもいっしょになり、結局、その場には向井少尉、野田少尉、浅海さん、ぼくの四人がいたことになりますな。あの紫金山はかなりの激戦でしたよ。その敵の抵抗もだんだん弱まって、頂上へと追い詰められて一旦ですよ。最後に一種の毒ガスである"赤筒"でいぶり出された敵を掃討していた時ですよ、二人の少尉に会ったのは・・・・。そこで、あの記事の次第を話してくれたんです」とあります。

続きもあるのですが、鈴木二郎さんの記憶違いなのか、それとも嘘をついているのか、わかりませんが、鈴木さんの発言が史実に即していないのは確かなようです。ただし、「10日両少尉に、11日向井少尉に会ったと記事に書いた鈴木二郎記者は、」とありのはおかしいのではないでしょうか?鈴木二郎さんがどの記事に書いたのでしょうか?『週刊新潮』の編集部が書いたのではないでしょうか?

2.『南京事件』中公新書、2007年、279頁。

「ともあれ、『南京戦史』は最終的に中間派の立場をとったこと、資料集に軍関係の公文書や日記などの第一次資料を大量に収録したことで高い評価を受けた」とあるのは確かで、続けて原剛さん、板倉由明さんの功績を賞賛していますが、それは秦さんや中間派から見た評価になってしまう感じを受けますし、実際に「大虐殺派」や「マボロシ派」からは批判もあります。個人的には『南京戦史』は優れた業績であると考えていますが、ウィキペディア的には、Wikipedia:大言壮語をしないにはあたらないものの、Wikipedia:中立的な観点に若干抵触するような気がしますし、読者に先入観を与えてしまいかねないため、評価の部分は、南京戦史を立項して、そこで書くのがよろしいかと思います。また、信憑性の低いとの指摘があるソースについては脚注などで指摘する必要があると考えています。

3.『南京戦史』偕行社、1989年、91頁。

これは第四報に関する検証ですよね。向井、野田両少尉は、第16師団第9連隊第3大隊所属。「10日に高地を奪取して敵中に突出した」というのは、歩九第一大隊のことですので、直接関係ないのではないかと思います。まぁ、戦闘は続行していましたよ、いぶり出された敵を掃蕩していた時ではありませんよ、ということは分かりますけど。それに続いて、「十一日、左翼隊右正面では、歩九第一大体主力が「桂林石屋」を南下して右第一線、第三大隊が霊谷寺北側から進んで左第一線となり攻撃を行ったが戦況は進展しなかった。」とあります。第三大隊の攻撃は行われていますので、東中野さんが『南京「百人斬り競争」の真実』で使用した『大野日記』によると、10日金曜日に第三大隊が連隊の左第一線となったことがわかります。「霊谷寺より記念塔へ至り、山腹に出る。迫撃砲にて盛んに射撃を受く。後、中隊は大隊の左第一線となり、南方の稜線に至る。一夜中壕中にて、益々敵の射撃猛烈なり」とありますので『南京戦史』の記述ともあっています。佐藤さんは、10日に無電の連中 (無電技師の安田さんだと思います)と連絡がとれて、11日に中山文化会館に到着したと日記に書いていて、二人の少尉の写真を撮影することが物理的に可能だったのに常州で撮影した写真を使っているのでおかしいというのが東中野さんのアプローチです。いいところを衝いていると思いますが、現像に出すので間に合わなかったかもしれないし、映りが悪かったかもしれないし、鈴木さんが両少尉に会っておらず、第四報が創作であったかもしれないというは指摘できていますが、創作であったことを証明しきってはいません。第二報と第三報の「創作性」が高いというのはわかりますけど。

鈴木二郎記者は、1972年の『週刊新潮』の記事で「抵抗もだんだん弱まって・・いぶり出された敵を掃蕩していた時ですよ、二人の少尉に会ったのは」との述べた。『南京戦史』、『大野日記』、『(福知山第二十連隊)第四中隊陣中日誌』などによれば、附近では激戦が継続していた。

あたりに変更してはいかがかなぁと思います。

4.『「百人斬り訴訟」裁判記録集』百人斬り訴訟を支援する会、2007年、42~43頁。

「その後、鈴木は雑誌分載の主張をまとめた「南京大虐殺のまぼろし」を出版し、大宅賞を受賞」、「当時の著名著述家の反応」、臼井吉見「特派員の署名記事で、銃後の話題を賑わそうとの特ダネゲームの与太・・・ものにちがいない」というところですが、臼井は「。。。にちがいない」と断定したとは書かれていません。

第四回大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれたときの選考委員のうち、臼井吉見は「特派員の署名記事で、銃後の話題を賑わそうとの特ダネゲームの与太ばなしであったことを改名していく」と評し、、、、

という具合にかえてはいかがでしょうか?それと臼井吉見のことは42頁ではなく43頁に書かれています。

その2、その3と検証を続ける予定ですが、本日のところは、この辺りでお休みさせてください。Takabeg会話2015年12月13日 (日) 13:25 (UTC)


検証を読んで

*「記事に書いた鈴木二郎記者は、とありのはおかしいのでは」鈴木記者が書いたのは、日日新聞の第四報記事。署名入り。尋問調書でも、浅海記者が主に書いたが、鈴木が加わったと述べている。

*「現像に出すので間に合わなかったかもしれないし、映りが悪かったかもしれないし」佐藤振壽の手記では、紫金山麓で2度目の写真を撮った記憶はないようだ。

*「証明しきってはいません」私もそう主張していない。写真の件の他に、記事中の「紫金山を見下ろす」、鈴木証言の戦史との食い違い、浅海証言の鈴木証言との食い違い等(後ほど)を読者に情報提供している。

*「。。。にちがいない」は臼井でなく小田実。、開高健も・・・に含めた。---総持庄一会話2015年12月15日 (火) 06:02 (UTC)

総持庄一氏の編集について(志々目日記など)

志々目彰の回想記について

回想記の内容についての評価が1つもない。挙げられている出典も南京事件や東京裁判、回想記の著者について記述したものであり、回想記の内容には触れていない"無効出典"である(『百人斬り競争 日中戦争の追憶』志々目彰(月刊『中国』1971年)による記述のみ、"肯定側の主張"節へ移動した)。文脈からしても、総持庄一氏が個人的に持った疑問にしか読み取れないため、除去した(WP:NOR)。

非百科事典的な文章

「だからどうというので無く」、「・・・とは望月回想記の一節」、「電話取材した稲田朋美に望月の親族は言った」、「朝日新聞と裁判所はちがった」などの表現は百科事典にはそぐわない(WP:NOT)。

佐藤振寿氏が百人斬り訴訟で原告側唯一の証人だった件について

"名誉棄損裁判"節へ移動している。訴訟に関連する記述は同節で触れたほうが良い。

御自身の疑問や感情を記事本文に反映することは出来ない。また、主語の無い文章や非百科事典的表現は可読性を著しく損ねる。--花蝶風月雪月花警部会話2015年12月15日 (火) 14:41 (UTC)


花蝶風月氏のやりたい放題は目に余る。独善な理由づけをして削除のし放題、こんな事が許されたら百科事典の内容の公平を保てない。wiki管理者へ花蝶風月をなんとかしてくれ。---総持庄一会話2015年12月16日 (水) 03:52 (UTC)

検証その2

5.板倉由明『本当はこうだった南京事件』、1999年、219~220頁

"ラーベ日記と南京の「新事実」"のなかに"「掠奪」考"という項目にありますが、「中支では、たとえ老婆といえども情報を探って通報する恐れのある存在であった。女性が赤ん坊を装って手榴弾を運んだり、ゲリラを手引きして日本軍陣地に誘導したり、まして壮年男子は突然隠した武器でテロを行う危険があった。上海で日本軍歓迎の旗を振る婦人の列の陰から便衣隊が一斉射撃をしたのはその一例である。殺さねば殺される、怪しければ殺せ。かくて、中支では非戦闘員の殺戮が常態のようになったのである。」とあります。「"民衆に対する殺害”に、次ぎの留意はあっていいだろう」「民衆に対する殺害”に、次ぎの留意はあっていいだろう」という部分は、ソースが無いことと、検証可能性が確保されていないことから記載すべきではないですし、言葉を濁さないに従って、「板倉由明は○○○と主張している」という形にするのがよいと思います。

6. 鈴木明『南京大虐殺のまぼろし』、1973年、155~156頁。

  • この部隊が上陸の際に、ちょっとしたエピソードが伝えられている。第三師団の先発梯団が本船から呉淞桟橋に上陸しようとしたとき、日本の愛国婦人会のような格好をした多数の女性が、手に手に日の丸の小旗を持って迎えたというのである。兵士たちは安心して、次々に桟橋に降り立ったが、それまで並んでいた女性たちの姿はたちまちにして消え、次に展開されたのは、中国軍による凄まじい一斉射撃であった。不意を衝かれた日本軍の死体は、見る見るうちに山と築かれていった。指揮官の顔は一瞬士気色に変り、口惜しさに唇は噛みしめられて、血をにじませていた。
  • このことは、日本軍の胸に、中国軍に対する根強い不信の念となって刻みこまれることになった。俗にいえば「畜生、やりやがったな」という感情である。このエピソードは後の部隊にも「教訓」として語り継がれ、長く憎悪の対象となったようである。

とありますが、「否定側の主張」なのでしょうか?

「たとえ子供といえども、一刻も油断はできないということであった。庭で食事をしていただけで狙い撃ちにされたというような例はいくらでもある」と向井・野田両少尉との関係はどういったものなのでしょうか?「百人斬り」ではなくて「南京事件」に関連した部分のはずですが。。。

7.鈴木明『南京大虐殺のまぼろし』、1973年、224頁。

「一度自分がやられそうになった時、相手をやらなければ自分がやられるのだな、ということをしみじみ痛感させられた」というのは、向井・野田両少尉とどういった関係があるのですか?これは、朝日新聞カメラマンの証言で、「百人斬り」ではなくて「南京事件」に関連したものですよね。

8. 立作太郎『戦時国際法論』、1938年、44頁。

「私人は敵國の直接の敵對行爲に依る加害を受けざると同時に、自己も亦敵國軍に對して直接の敵對行爲を行ふを得ざるを以て、敵對行爲を行うて捕へらるれば、敵軍は、自己の安全の必要上より、之を戰時重罪人として處罰し得べきである。」は、「否定側の主張」なのですか?

9. 鈴木明『南京大虐殺のまぼろし』、1973年、74頁。

「向井少尉が昭和15、16年頃、母校の京城の公立商業学校を訪れた際、「校長から『生徒達に是非百人斬りの話を』とすすめられたが、何故か固辞して語らなかった。」というのは、否定する説と何の関係があるのかわかりません。普通のエピソードとして入れておけばいいのでは?

10. 稲田朋美『百人斬りから南京へ』 2007年、150頁。 稲田さんの本では、宮村喜代治ではなくAさんとなっています。同書にある原告側提出書証の114番目にある陳述書ですよね?宮村喜代治と実名表記するためには、稲田さんの本に加えて『南京大虐殺と「百人斬り競争」の全貌』の158頁なども併せてソースとして提示する必要があります。

「報道陣は第一線までは来ず、突撃演習が実戦として放映されたことがあるが悪い気はしなかった」という部分は厳密にいうとWP:SYNTHESISに抵触します。

  • Aさんはその話を聞いて「ありえる」と信じた。なぜなら、Aさんは突撃演習をしているところを撮影され、それが実戦の場面としてニュース映画で放映された経験があったからだ。それでも自分が勇敢に突撃しているところニュース映画として内地で放映されれば悪い気はしない。ただそれはまったくのうそのニュースである。新聞記者も従軍していたが、第一線までは来ず、いつも記事がなくて困っていたので、冗談話を新聞記事にすることは十分考えられるという。向井中隊長が「百人斬りは冗談話だった」と話したことは他の下士官も聞いていた。

というのを上手にまとめるのがよろしいかと思います。

11. 稲田朋美『百人斬りから南京へ』、2007年、153~154頁。

  • 向井小隊長が百人斬りを記者に話したということは、その当時聞いたことがあります。話を聞いた時、刀で百人など斬れないので何を言っているのかと思いましてね。それでよく覚えています。まわりの兵隊達もその話は知っていました。しかし誰も信用していません。
  • 小隊長は砲撃を我々分隊長に任せて、全体を見ていて、無錫から南京にいくまでほとんど私の側にいました。この間、小隊長が刀を抜いたのを一度も見ていません。百人斬るとか何とかの前に、我々の周りに中国兵などいません。中国兵がいないのですから、斬るも斬らないもありません。

となっています。

12. 東中野修道 『南京百人斬り競争の真実』2007年、91、120頁。

  • 両少尉は「丹陽」にも「句容」にも入城していなかった。それにもかかわらず記者たちは「丹陽」と「句容」に入城したあと、あたかも両少尉に会って取材したかのように、「丹陽にて三日発」の第二報と「句容にて五日発」の第三報を書いて日本へ打電し、東京日日新聞と大阪毎日新聞に掲載したのである。
  • 記者たちが両少尉に会うことなく記事が書けたということは、創作以外のなにものでもない。まさに本書二五~二九頁の野田少尉の第二上訴申弁書にあるように、《記事は一切、記者に任せて下さい》と記されていたとおりであった。だからこそ、記者たちは両少尉に会って話を聞くこともなく、自由に第二報と第三報を創作できたのである。91頁
  • 十一月二十九日発の第一報は、たしかにそのとき写真を撮影していたから、それが本書四一~四二頁で述べたように、両者が合っていたことを裏付ける物証となっていた。しかし十二月十二日發の第四報には、そのとき会って撮られたかのように掲載された十一月二十九 (または三十日)撮影の写真が掲載されたため、逆に、両者が出会っていなかったことを裏付けていた。記者は、「時百人斬り」突破の記念撮影をおこないたくとも、三者が出会っていなかったから撮影できず、十一月二十九日 (または三十日)撮影の写真を使わざるを得なかったのである。120頁

とあります。第二・第三報については東中野さんだけでなくても気がつきそうなところです。しかし、「写真撮影がなかったために第四報は創作である」というのは、第四報は紫金山で書かれたことになっているにもかからわず、写真は以前に常州で撮影されたものを使った写真を使ったのは事実ですが、「会っていたら両少尉の写真撮影を必ずや頼んでいたであろう」という点は東中野さんの推測ですので、そこを明らかにしておく必要があり、断定的な表現にするべきではありません。

13. 『南京百人斬り競争と南京事件』2008年、205頁。原告側準備書面(2004年8月10日)

『南京百人斬り競争と南京事件』の204~205頁は、2006年6月30日付の江蘇法徳永衡律師事務所 (中国・南京市) 談臻 (弁護士)による「〈資料〉夏訴訟・保佐人意見陳述」に割かれていますので、ページ番号の記載ミスではないでしょうか?

14. 『「百人斬り訴訟」裁判記録集』2007年、152頁。

「浅海記者はその後も丹陽にとどまり、12月10日鈴木記者と合流したことが戦後の東京裁判尋問調書で知られる」というところは、

「鈴木二郎は、昭和21年6月15日のパーキンソン検事による尋問を受けた際、「12月10日に丹陽で (浅海と)合流して、12月13日に中山門から南京に入りました」と回答した」

というふうに具体的に書いた方がいいでしょう。

15. 『「百人斬り訴訟」裁判記録集』2007年、70頁。

「この点からも「12月5日の句容(丹陽の先)での記事は虚偽である」というのは、原告弁護団の意見ですので、その旨 (主語)を書く必要があります。関連部分を示しておきますと、

  • 浅海記者と鈴木記者は12月10日に丹陽で合流したというのだが、甲八二の地図から明らかなように丹陽は句容の手前であり、12付10日に丹陽に浅海記者がいたということは12月5日の句容での記事 (本件第一報)は虚偽である。と同時に12月10日に二人が取材した第四報も二人の創作と考えるのが自然である。第三報が虚偽であることは、冨山大隊が句容の手前で北上、5日は賣崗里で宿泊していること、同じ12月5日に浅海記者が丹陽で記事を書いていること (甲六の一)から明らかである。
  • この点について被告朝日新聞社は、第三報については記事の場所と日付は正確でないと主張し、第四報については12月11日に紫金山山麓で取材したもので矛盾しないと主張する。
  • しかし少なくとも12月10日まで浅海記者が丹陽にいたことは丁一から明らかであり、句容で両少尉を取材した五日の記事 (十二月六日東京日日新聞に掲載)は創作である。

16. 『「百人斬り訴訟」裁判記録集』2007年、154頁。

  • ソースにはそう記述されています。

17. 光本さんのことですが、「記事を書いたのは光本記者との見方も一部にあった」というのは、鈴木明『「南京大虐殺」のまぼろし』 (初出は『諸君!』1972年4月号、179~180頁)には、《「諸君!」編集部のたしかめたところによると》とありますので、そうであれば主語を明確にする必要があります。また、光本さんの所属ですが、「日日新聞京都支局」ではなく「大阪毎日新聞京都支局」では?

  • この記事には「浅海光本両特派員発」というクレジットがついている。この浅海とは、あるいは、毎日新聞の大記者として著名であり、また新中国の理解者として昨年『新中国入門』を書いた浅海一男氏のことではないだろうか?「諸君!」編集部のたしかめたところによると、このクレジットにある「浅海」とは、まさに浅海一男氏のことなのだが、実際これを取材したのは光本氏の方であり、しかも光本氏はすでに死亡しているとのことで、この件についてのこれ以上のことをたしかめる余裕はなかった。

となっています。Takabeg会話2015年12月21日 (月) 10:23 (UTC)

検証その3

18『「百人斬り訴訟」裁判記録集』2007年、67、229頁

  • 被告毎日新聞社は昭和六十三年において「この記事は当時、前線勇士の武勇伝として華々しく報道され、戦後は南京大虐殺を象徴するものとして非難された。ところがこの記事の百人斬りは事実無根だった」と自ら認めたのであり (甲四六)、虚報と認めている本件記事を放置していることは違法である。
  • 被告毎日新聞社は、丁二六の解釈として浅海、鈴木記者が一貫して「創作ではない」と述べていたことを強調するが、無錫郊外 (常州)での冗談話をもとに無錫から紫金山までの記事を書いたことが「創作」であることに変わりはない。
  • 新聞記者が目撃も検証もせずに、真実でないことを報道することを「創作記事」というのである。

以上が原告側の最終準備書面であることを明記する必要がある。また、229頁にあるのは、控訴理由書ですので、その旨を明記する必要がある。

  • ①本件日日記事が事実でないことを訂正することはきわめて簡単である。
  • ②毎日新聞社自身、毎日新聞社が、平成元年三月五日発行の『昭和史全記録』 (甲四六)の中で、百人斬りに触れ、「この記録は当時、前線勇士の武勇伝として華々しく報道され、戦後は南京大虐殺を象徴するものとして非難された。ところがこの記事の百人斬りは事実無根だった」 と書いている。
  • ③本件訴訟の原審において、上記は著者 (誰かは不明である)の個人的見解であるなどと稚拙な弁解を展開しているが、いったん否定した事実を改めて、毎日新聞社としては、本件日日記事は、記事の記載内容のとおりの事実であると述べた。この時点で、改めて事実摘示がなされたことになるのであるから、原審の論法に拠ったとしても除斥期間は経過していないというべきである。
  • ④毎日新聞社は、第四報に掲載された両少尉の写真が、現在でも各種の記録や展示に掲載ないし展示されているのに、それを放置している。
  • ⑤原審の論法では、先行行為の除斥期間が経過した後の行為は放任されることになるが、増刷、改訂、あるいは出版替えといった新たな行為の伴うものまで不問に付されるという結果は明らかに不当である。
  • 以上の事情から、本件には除斥期間の適用をすべきではない。

これに関連して質問しておきます:畠奈津子+大舘亞津子『マンガで読む昭和史「南京大虐殺」の真実』の191頁には「毎日新聞社はこの年鑑を編集した「カメラ毎日」の元編集長西井一夫氏 (故人)に罪をかぶせて逃げたのだ」「毎日新聞が発行した年鑑でありながら責任を編集者一人に押しつけるとは何事であろうか」「毎日新聞は浅海記者の記事も「昭和史全記録」の記載についても「毎日新聞には責任はない」の一点張りである」「こんな新聞社がなぜ今も併記で権力を振り回し続けていられるのだ!」とありますが、西井一夫さんに罪をかぶせたというのは事実なのでしょうか?

19 佐藤振壽「陳述書」『「百人斬り訴訟」裁判記録集』百人斬り訴訟を支援する会、2007年、99頁。

陳述書には著作権はありませんので、wikisourceに全文掲載してもいいのではないかと思います。

20 稲田朋美『百人斬り裁判から南京へ』、2007年、170頁。

  • 平成一七年五月一八日
  • 今となっては何のために裁判所が公開の法廷を開くのを嫌がったのか、それが疑問である。
  • 佐藤振壽証人が現れ、「百人斬りは一〇〇パーセント信じていない」と証言したことの衝撃が大きかったのか、裁判所はその後一人の証人も採用しなかった。
  • 何度となく、証人を調べてほしいと申し入れ、上申書も提出した。しかし裁判所はこれ以上証人を調べなくとも判断ができるという一点張りだった。
  • そのかたくなな態度をよい方向に解釈していた。ここまで私たちが要求する証人を調べないということは私たちの主張を認めるつもりなんだと。
  • とうとう一審の最終弁論期日を迎えた。三人の遺族もそれぞれ一番の最後に臨んで、意見陳述をした。私も一審裁判のしめくくりの意味で意見陳述を行った。以下のとおりである。

とあります。

21 「証人調書」東京地裁 2004年、21頁。

21頁となっていますが、これはどの書籍に掲載されているものですか?

22 148頁以下,219頁以下『南京大虐殺のまぼろし』1973年 『聞き書き南京事件』1987年 「雑誌新聞などの事前検閲も行」われたので、それが媒体に載るのは何十年後だが。戦後「大虐殺」を言い出した2,3の記者にも批判は多い(215,221頁 鈴木明 173頁 板倉由明 他)。

「南京戦を間近に見た多くの従軍記者が大量殺害に否定的な見方を抱くなか」という部分をここにもってくるのは独自研究になります。なぜなら、志々目さん本人によれば、「日中戦争の追憶 "百人斬り競争"」を書いた背景・動機となったのは、『丸』11月号「日中戦争の全貌」という特集のなかにあった当時毎日新聞社会部報道班員鈴木二郎氏の「私はあの"南京の悲劇"を目撃した」ことだからです。

23 「百人斬り競争 日中戦争の追憶」志々目彰(月刊『中国』1971年),141頁『南京百人斬り競争と南京事件』2008年

  • そして敗戦。変り身のはやくない私は、二・一ストのあとまで、依然として軍国主義者だった。そのころ極東裁判が開かれた。マスコミと世論が旧軍隊の、ことに戦争遂行の骨幹であった正規将校の腐敗をあばく度にくやしがっていた私だったが、南京虐殺事件の報道はすなおに受け入れることができた。N少尉の話の全体像がつかめてきたように思い、自身もにない手であった日本帝国主義の対外的な責任を考えるようになったのは、この頃からであった。
  • しばらくすると地方新聞で、N少尉らは南京で戦犯として銃殺されたというきっじが報ぜられた。ああ、そうだろうな、当たり前だな。これで一つ決着がついたなと思い、それ以上は考えなかった。

とあります。

24 藤原正彦『日本人の誇り』、2011年、101頁。

当該記述は101頁ではなく99~100頁にあります。ただし、志々目さんの証言とは直接関係がありませんので、除去が適切です。どこかで生かしたいのならば、極東国際軍事裁判に転記するのがいいかもしれません。藤原正彦さんは立派な方だとは思いますけど、本職は数学者ですし、『日本人の誇り』は軍事裁判に関する専門書ではありませんので、同様の記述のある極東国際軍事裁判を扱った専門書から引用したほうが有益ではあります。

25 南京・東京裁判判決と根拠

志々目さんの証言とは直接関係がないので、除去が適切です。

26 百人斬り訴訟を支援する会『「百人斬り訴訟」裁判記録集』、2007年、54頁。

「志々目彰は、氏の大阪陸軍幼年学校会報の寄稿文によると、終戦後共産党員になり党員として活動しているときに傷害罪で実刑を受け、その後共産党を離党し、30年間児童文学に携わった人である」は本文ではなく脚注に入れるのが適切ですが、志々目彰さんの人生をうまくまとめているとは言えないので、加筆を考えています。著書も少なくとも二冊あって独立した二次資料で志々目さんに関する有意な言及も決して少なくないので、もしかするとWikipedia:特筆性 (人物)にぎりぎりひっかかるかもしれません。志々目彰単独立項も視野に入れ、立項の際は上記の箇所も脚注から除去してもいいでしょう。

27 稲田朋美『百人斬りから南京へ』、2007年、133頁。

望月さんの『私の支那事変』は確かに問題がありますよね。「敵前立哨中の居眠りは銃殺」、「戦車が城門めがけて激突破した、城門がギイイと音をたててくずれた」、「常州へと進撃する行軍中の丹陽付近で大休止」なども追加するとよいと思います。「今ここで、はっきりと、間違いだらけの恣意的な本だというレッテルを貼りつけなければ、とても後世に残せない本です」という阿羅健一さんの結論も書いておくべきです (134頁)。

Takabeg会話2015年12月22日 (火) 12:01 (UTC)


検証を読んで----------------12・23----------------------------

5.「次ぎの留意はあっていいだろう」→変更した

「板倉由明は○○○と主張しているという形にするのがよい」→板倉は主張していない。「こういう事があった」と述べている。事実を述べる時に論争があり確定していなければ、「主張している」が適切な場合もあるだろう。だがこれは確定事実を述べている。ウソを書けば各方面から突っ込みが入り、訂正されるが、これは数十年間そうなっていない。同じことは鈴木明も言っている。なぜ論争もない歴史事実を述べる時にわざわざ、「主張している」を入れるのか?

6.7.8.「否定側の主張なのでしょうか」「百人斬りではなくて」「向井・野田両少尉とどういった関係があるのですか」「立作・・・否定側の主張なのですか?」→これは肯定論「南京攻略戦においては、捕虜や一般民衆に対する殺害はごくありふれた現象だった」に反論したもの。肯定論が向井・野田に関係なく「南京攻略戦において」と言っているのだから、こちらも南京戦の事を言ったまで。南京戦に於いて、便意兵、ゲリラの定義と扱いは重要な関心事。

9.「否定する説と何の関係があるのかわかりません」→こちらの方が分かりません。野田は何度か百人斬り講演を行ったことが重要な証拠とされている。その重要な証拠が、向井についてはありませんよ、と否定している。裁判所は向井が殺害したことを立証せずに、両人による”殺人競争”が行われたと判決している。私は向井は殺人競争をしていませんよ、と否定論を展開した。

10.出典に『「百人斬り訴訟」裁判記録集』の183頁が抜けた。この文は両方から採っている。出典は訂正する。 「上手にまとめるのがよろしい」→原文「新聞記者も従軍していたが、第一線までは来ず」「突撃演習」「実戦の場面として」「放映されれば悪い気はしない」。私の文「報道陣は第一線までは来ず、突撃演習が実戦として放映されたことがあるが悪い気はしなかった、とも語っている」これがなぜいけないのか?

12.「撮影を必ずや頼んでいたであろうという点は東中野さんの推測」→佐藤がいなくて撮影出来なかったことも考えられるが、それならわざわざ写真に細工してまで載せる必要はなかった。写真は記事に信ぴょう性を持たせるために使われた。「断定的な表現にするべきではありません」→肯定側にも望月云々。これは否定側の主張であり、断定的になっても問題があるとは思えないが。

13.「記載ミスではないでしょうか」→205頁の(注)の(12)に書いてある。

14.「具体的に書いた方がいいでしょう」→考えてみるが、書き換えは一切許されないのか?資料の文言だけでは、意を尽くせない場合だってある。

15.「その旨 (主語)を書く必要があります」→そのように書くことにする。

17.光本云々。→「光本は『大阪毎日新聞』の特派員で、京都支局から派遣され、郷土部隊の第16師団について記事を書いていた」(99頁『「百人斬り競争」と南京事件』笠原十九司)。事実を書く時にもいちいち、笠原が言っているなどと書くのか?「日日新聞京都支局」ではなく「大阪毎日新聞京都支局」はその通り。

「実際これを取材したのは光本氏の方」とは、第何報の事で、誰が言っているのか?。それを示してほしい。5日の記事は「私がこの記事の執筆者です」と浅海は答えている。これ以上の確証はないだろう。鈴木とは共同執筆だと言っているが、こちらは言っていない。

18.「最終準備書面であることを明記する必要」→毎日新聞が訴訟とは関係なく『昭和史全記録』の中で言っている(229頁『「百人斬り訴訟」裁判記録集』)ことを、なぜ準備書面が言っているなどと書く必要があるのかサッパリ分からない? 「西井一夫さんに罪をかぶせたというのは事実なのでしょうか」→毎日新聞は、訴訟で『昭和史全記録』は社としての公式見解ではない、とかなんとか言っている。「裁判記録集」のある。

19.「全文掲載しても」→ちょっと見2,500字以上あるが。

21.本多の本だったような?。だいぶ後ろの方。

22.24.25.「鈴木の『私はあの"南京の悲劇"を目撃した』」が動機であったこと確か。それはきっかけであり、「南京虐殺事件の報道はすなおに受け入れることができた」思想形成は、戦後の極東裁判の頃。その極東裁判に納得できなかったのが従軍記者。同じ報道を聞き、同じ時期に感得しているにもかかわらず、思想形成が反対になったのは、一方は実体験に元づいたから、志々目のほうは報道によったから。その報道は検閲されていたし、裁判は藤原正彦の言っているようだった。出典は細かに提示してある。なぜ「独自研究」なのか?「直接関係がありませんので、除去が適切」→「ウィキペディアは紙製の百科事典ではありません。・・注意事項を除き、取り扱うことのできる項目数や内容の総量に実質上の限界はありません」と寛大だが。

26.「脚注に入れるのが適切」の判断の根拠はどこ?「志々目彰単独立項も視野」それもあり得よう。

世の論述では、思想信条から過去の行動履歴等、事柄を理解するうえでポイントとなる事項は網羅される。wikiでもそう。それなのに、「これは書くな」とか言っている。こういうのを検閲というのだろう。権力者は検閲によって、都合の悪い情報を国民に知らせないようにするが、あなたの目指すところは何か?------------------総持庄一会話2015年12月23日 (水) 06:50 (UTC)

たぬき氏の自分勝手な削除について

wiki管理者へ

たぬき氏は何箇月か前の版に戻し、その間の史実の全てを削除している。氏は何者?こんな事が許されていいのか。早急に直近の版に戻し、た氏をなんとかしてほしい。---総持庄一会話2016年1月20日 (水) 04:24 (UTC)

総持庄一さん、ウィキペディアでは、ウィキペディアでは検閲は行われません。「都合の悪い情報」って例えばどれですか? 「百人斬り」と関連して書かれていない文章をこの記事に書き連ねるのは、Wikipedia:独自研究は載せないに抵触するので、そうしたものは除去されるべきであると言っているだけです。総持庄一さんが「それは関係がある」と思ってもだめなんです。二次資料を書いた人 (研究者とか評論家とか)が「百人斬り」とからめて書いていないとだめなんです。私も利用者:たんたたたぬきさんによる大量除去は議論を経たわけでもなく非常に乱暴であって (ただし、直近の版ではなくて2015年12月18日の版に戻しています) 不適切と考えますが、上のほうにあるコメントを読む限り、同氏も総持庄一さんの編集の中にWikipedia:独自研究は載せないに抵触したものが多いと考えているのだと思いますよ。資料において「百人斬り」と関連させて書かれていない部分の引用・記述を、ご自身で除去してみてください。総持庄一さんに熱意があることはわかりますので、Wikipedia:腕ずくで解決しようとしない#いつまでも「納得」しないとかWikipedia:妨害的編集#いつまでも納得しないも読んで、ウィキペディアのガイドラインや方針に従った意見や指摘があれば、受け入れるべきところは受け入れながら編集してください。それと、Wikipedia:個人攻撃はしないWikipedia:礼儀を忘れないを繰り返し読んでください。それでは (「wiki管理者」でも「たぬき氏」でもありませんが、そろそろわかってほしいと思って返答させていただきました)。Takabeg会話2016年1月20日 (水) 11:39 (UTC)

---

  • 「研究者とか評論家とか)が「百人斬り」とからめて書いていないとだめなんです」→これを具体的に述べているwiki規定を提示してほしい。その線に沿う気はある。
  • 「非常に乱暴であって」→そんなレベルではない。事実で反論せず、気に食わない記述を削除するなど、言論に対する侵害行為だ。

---総持庄一会話2016年1月27日 (水) 06:00 (UTC)

---追

  • 「都合の悪い情報って例えばどれですか? 」→「すなわちは日本刀の優秀性を謳う個所」これをさらに4項目書いてある。この個所は秦郁彦『百人斬り事件の虚と実』から採っている。
  • 志々目が共産党員で逮捕歴がある件。これが関係がないから削除を要求しているらしい。恐らくこれが不都合な真実なのだろう。以下、無関係ではない理由。冷戦当時アメリカに於けるソ連のスパイは共産主義者が多かった。イデオロギーは祖国をも売る。もっと分かり易い例は共産主義者尾崎秀実。祖国日本がどうなろうと、情報提供で日本人が何万人死のうと、共産主義国家・ソ連の為なら、国をも売って平気。拉致被害が頻発した頃、新潟の海岸近くでは労組活動家が北朝鮮の金親子に忠誠を誓い、拉致の手引きをしたのではないかという疑いを、舘雅子は深く抱いている。イデオロギーとはそういうもの。だから人を語る場合、思想信条があれこれ詮索される。志々目が1972年告発手記を書いた当時すでに、中国は共産主義国家だった。
  • 逮捕歴がある件。これは目的のためなら手段を択ばない人間のやる典型例。
  • 例えばある学者が何処其処にこう書いてある、と言ったとする。調べてみると、そんなことは書かれていない。wikiで書かれていないと指摘する。これは事実の指摘であり、学問的素養が無くても誰にでもできる。だから研究と呼べるものものではない。「自ら」「話した」という笠原の説はこれに近い。これを自己研究だというなら、そのwiki規定を示してほしい。
  • 例えばある学者が、誰それは何も書いていない、と言ったとする。調べてみると、50%は書かれている。wikiでこう書かれていると指摘する。以下同じ。これは秦郁彦の場合。
  • 志々目の場合は、研究者が研究した結果、銃殺は極東裁判当時まったく知られていなかった。よってそれを基に志々目が考えたことは、極東裁判当時ではないことは誰にでも言える。学問的素養が無くても。これは志々目回想記全体の信用性に関わってくる。少尉が「ニー・ライライ」と言ったと、志々目は述べているが、これは後知恵ではないのかという懸念も浮かぶ。志々目の同級生で、中国語の一字一句まで覚えているものは居ない。従って無関係では決してない。---総持庄一会話2016年1月28日 (木) 03:42 (UTC)
  コメント
> ―これを自己研究だというなら、そのwiki規定を示してほしい。
Wikipedia:独自研究は載せないおよびWikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは独自の考えを発表する場ではありません
方針は順守するように。--花蝶風月雪月花警部会話2016年1月28日 (木) 04:32 (UTC)

自分に都合の悪い事実を削除しまくるあなたに言われたくない。「方針は順守するように」はそっくりそのまま、あなたに返す。なお、私は「未発表の分析やまとめ、解釈など」していない。 ---総持庄一会話2016年1月28日 (木) 05:04 (UTC)

ページ「百人斬り競争/過去ログ2」に戻る。