ノート:第二次木津川口の戦い

最新のコメント:1 年前 | トピック:3月14日以前の記事を「研究」としてまとめさせていただいた件 | 投稿者:Kan8

第二次木津川口海戦に、このページへのリダイレクトを作ったほうがよいかと。--218.131.212.144 2006年10月20日 (金) 23:45 (UTC)返信

九鬼嘉隆の家紋は九曜ではなく左三つ巴です。--Kan8会話2019年9月1日 (日) 18:14 (UTC)返信

3月14日以前の記事を「研究」としてまとめさせていただいた件 編集

下記の通り以前の記事を「研究」としてまとめさせていただきましたが、後日、各段落ごとに指摘させていただいた問題点についての説明を少しずつ書き加えさせていただきたいと思います。尚、代わりに置かせていただいた本文については、Wikipediaの性格についての「UNISISTモデル(英語版)では、(中略)三次資料は一次資料を統合したものとされる」と書かれた説明に倣い、極力水源に近く我々にとって扱いやすい資料を典拠として用いる事を心がけてまとめたつもりでございます。単純にご不快な思いをされた方や編集の要領の悪さにいら立ちを感じておられる方などが居られるかと思いますが、どうぞご理解ください。頑張ります。--Kan8会話2022年3月21日 (月) 05:06 (UTC)返信

研究 編集

大坂表の警固開始を天正6年9月30日以降とする研究 編集

第一次木津川口の戦いで敗れた織田信長は、天正6年6月、九鬼嘉隆に命じて、伊勢湾で大安宅六艘を建造させ[1]、滝川一益にも一艘の大船を建立させている[2]。大鉄砲を備えて6月に完成すると、6月26日に熊野浦に進んだ[2]。 天正6年(1578年)9月30日、新造船は信長の船揃いをうけた[3]。そのあと大坂表に出動して、本願寺の海上補給ルートの遮断任務についた[3][要出典][注釈 1])。

主張の問題点 編集
  • 本「研究」記事は、「信頼性に乏しい情報源」を引用して作成されている。
説明1 編集

本段落の下線を引かさせていただいた部分は、出典『毛利元就のすべて(河合正治編)』を読むと、

天正六年(一五七八)九月三十日、新造船は幟・指物、幕を打廻し、湊々浦々の武者舟をしたがえて、信長の船揃いをうけた。そのあと大坂表に出動して、本願寺の海上補給ルートの遮断任務についた。[3]

と書かれており、ほぼ、そのままのテキストを引用をしていた事が判ります。この宇田川氏の記述についてですが、同氏は当然『信長公記』を元にしてこれを書き起こしたのでしょうが、ミスをしているように思われます。『信長公記』の該当部分は、

寅七月十七日堺の津へ着岸候し也見物驚耳目候し也翌日大坂表へ乘出し塞々々に舟を懸置海上之通路を止堅固仕候也[5]
晦日(9月30日)にㇵ拂曉より堺之津へ御成 近衛殿 細川殿 一色殿 是も御同心然而 九鬼右馬允 大船を飾立のほりさし物幕打廻し湊々浦々之武者舟是又兵具を以て我手々々をかさり又堺南北として 御坐舟事も生便敷唐物其員を集てかさり 進上物を我不劣と持参無際限堺南北之僧俗男女此時 信長公を拜み奉らんと結構に出立候てにほひ燒物ふん々々として衣香撥當四方に薰し群集候し也 九鬼大船へ只御一人めされ御覽有之それより今井宗久所へ御成 過分忝次第後代之面目也御茶参り…(翌月朔日までの間に警固に関する記述無し)[5]

この通り、7月17日の翌日には大坂表へ乗り出し海上補給ルートの遮断任務に就いた事を示しております。

もし、「そうじゃない、こんな史料も在ってちゃんとした研究として成立しているのだ」というご意見があればお知らせください。そういった物の存在が確認できるのであれば、「研究」の項目に書き残す価値は十分にあると思います。そういった物が無いのだとすれば、本段落は残す必要は無く削除を推奨する次第です。

どうぞご検証ください。--Kan8会話2022年3月21日 (月) 06:35 (UTC)返信

鉄甲船の寸法を修正する必要があるとする研究 編集

この大型船の大きさは『多聞院日記』の天正6年(1578年)7月20日条に「横へ七間、堅へ十二、三間もこれ在り」とあることから、長さ十二、三間、幅七間(一間は約1.8メートル)であったと考えられているが、これでは幅に比べて長さが短かすぎる[6]。これに対して、『信長公記』の伝本のうち尊経閣文庫所蔵の一本(外題『安土日記』、江戸時代の写本)では、九鬼嘉隆が建造した六艘について、巻十一に「長さ十八間、横六間」と記載されていることから[7]長さ十二、三間、幅七間という寸法は、長さ十八間、幅六間に訂正する必要がある[要出典]のではないかと指摘されている[8]

主張の問題点 編集
  • 本「研究」記事は、修正すべきとする『対象物』が不明確である。
  • 本「研究」記事は、鉄甲船の項に記載の無い有益と思われる情報が含まれており、鉄甲船の項にマージする事が望ましい。
説明2 編集

本段落の下線を引かさせていただいた部分を含む全体の文は、出典『信長の戦国軍事学(藤本正行著)』を読むと、

例えば、この船の大きさである。これは奈良興福寺多聞院の院主の日記『多聞院日記』の天正六年(一五七八)七月二十日の条に「横へ七間、竪へ十二、三間もこれ在り(原文は片仮名交り)」とあることを根拠として、長さ十二、三間、幅七間(一間は約一・八メートル)であったと、一般に考えられているが、これでは幅に比べて長さが短すぎる。従って、これを疑問視される海事史家もいる。

この点に関し、注目されるのが『信長公記』の伝本のうち尊経閣文庫所蔵の一本(外第『安土日記』、江戸時代の写本)である。これは巻十一、十二にあたる天正六、七年(一五七八、七九)の記事の一部のみを残す残闕本であるが、信長を「上様」と呼んでいることをはじめ、他の伝本には見られぬ記事や特色がある。その好例がこの船の寸法で、七隻のうち、伊勢水軍を統括する九鬼嘉隆が建造した六隻について、巻十一に「長さ十八間、横六間」と明記されているのである(残る一隻については記述がない)。

この寸法は無視できない。なぜならば、これから十三年後の天正十九年(一五九一)十二月五日付けで、秀吉が文禄の役(文禄元、二年=一五九二、九三)を前にして、遠州掛川城(現、静岡県掛川市)の城主山内一豊とその与力松下重綱に大型船の建造を命じた朱印状の追而書に、

船の儀、先日長さ十九間に仰せ付けられ候へとも、今日長さ十八間に御定めなされ候条、その意成さるべく候。横は今以て六間に相定め候なり。

とある通り、桃山時代の大型船の標準的寸法とみられるからである。

『多聞院日記』の記事が、奈良在住の僧侶の風聞を記したものであるのに比べ、『信長公記』は比較的正確な情報を入手し得る人物の著述であるから、その信頼度は自ずから異なる。前者を典拠とした長さ十二、三間、幅七間という寸法は、後者の長さ十八間、幅六間に訂正する必要があろう。この例からも明らかなように、信長の大型船の実体は十分解明されているとはいえないのである。[9]

と書かれており、この中の一部分一部分のテキストをそのまま切り抜いて引用し貼り合わせた事が判ります。文章全体を読み切ると解るのですが、

前者を典拠とした長さ十二、三間、幅七間という寸法は、後者の長さ十八間、幅六間に訂正する必要があろう。

という部分は、

前者を典拠とした長さ十二、三間、幅七間という寸法(を採用した論文や模型などの資料があれば、ほぼ誤りであるといえるため、それ)は、後者の長さ十八間、幅六間に訂正する必要があろう。

と読むべき処です。もし、「典拠」という語を用いずに、

前者の長さ十二、三間、幅七間という寸法は、後者の長さ十八間、幅六間に訂正する必要があろう。

と書いていたならば、『多聞院日記』を訂正する必要がある、と読めてしまいます。当然、歴史資料を訂正するなど御法度です。つまりこの藤本氏の本文は「典拠」という語が入る事でかろうじて著者の真意が掴める構造になっているわけです。本段落のテキストは、そこを無視してか気付かずにか「典拠」という語を含めずに部分部分のコピペをしたうえで「訂正する必要があるのではないかと指摘されている」としたために、訂正すべき対象物が何なのかが不明確な文章にまとまってしまっています。当然、『多聞院日記』を訂正するなどという事は考えていないでしょうから、何を訂正すべきなのか、という事です。

そもそもな話になりますが、鉄甲船のページで同様の研究を説明しているため、詳細はそちらのページに任せた方が、読者は第二次木津川口の戦いという本ページのテーマに集中できます。よって、本段落は鉄甲船へのリンクを残して削除するのが望ましいと考える次第です。

ちなみに、鉄甲船のページでは「尊経閣文庫所蔵の『安土日記』」については触れられていませんでしたので、本段落のようなミスをしないように上手くまとめられる事を希望いたします。

以上、どうぞご検証ください。--Kan8会話2022年3月21日 (月) 08:57 (UTC)返信

本戦の戦果には意味が無かったとする研究 編集

11月6日、九鬼氏を旗艦とする織田水軍にたいして、毛利水軍は600艘の軍船を率いて木津河口に進出し海戦が行われた[3]。 6日午前8時ころに開始された海戦は、はじめ九鬼の大船を毛利軍が取り籠めるように船団を動かすなど、織田軍は劣勢にみえた[10]。しかし、毛利水軍を間近に引きつけて、毛利方の大将の船らしいのをねらって大鉄砲で打ち崩す作戦をとったところ、毛利方は恐れて近づこうとしなくなり退却した[10]。こうして戦闘は4時間ほどで終わり、毛利方の補給作戦は阻止されたのである[10]。 『信長公記』では、織田水軍の圧勝を伝えている[3]。 その一方で、「織田方が勝利、毛利の兵糧入れを阻止した」という記述は信長公記以外に乏しく [要出典]毛利方の一次資料(毛利家文書)によれば毛利水軍は木津浦に着岸しており、下間頼廉と協議した上、織田方から寝返った荒木村重も加えて持久戦の体勢を整えた、とあり[要出典]第一次木津川口の戦いのような一方的に蹂躙された敗戦に比べれば「勝利」と呼べる形にはなったものの、信長公記でも具体的な戦果には触れておらず、以後も本願寺方から毛利方へ送られた兵糧搬入に対する謝辞の書状なども残っている[要出典]事や、木津に毛利方水軍の拠点を作られている事[要出典]九鬼嘉隆が兵糧の欠乏に陥り、堺から当座の補給を受けている事(宮部文書)[要出典]から九鬼氏が本拠からの輸送を雑賀衆堀内氏善ら反信長勢力に妨害されている事などが窺え、本願寺への海上補給は継続し、完全封鎖とはならず[要出典]毛利方の圧倒的な優勢から織田・毛利の水軍勢力の拮抗程度に収まっており[要出典]織田方の「大本営発表」であるとの見方[要出典]もある。[11]本願寺への補給が途絶えるのはこの一戦が決め手となったというわけではなく[要出典]、この後、数年の間に宇喜多氏の織田方への寝返りや別所長治荒木村重ら反信長勢力の駆逐などによって、毛利領から大阪湾へ続く陸路が制圧されていった結果、水軍衆の輸送業務が容易ではなくなり多大な負担となった事[要出典]や、本拠から孤立しかねない状況になっていった事から淡路島に在陣していた児玉就英が無断撤退するなどの要因[要出典]が大きくなっていった事が挙げられる[12]

主張の要約 編集
  • 『信長公記』は織田水軍の圧勝を伝えているが、事実は大した戦果ではなく『信長公記』は単なる「大本営発表」である。
  • 毛利から本願寺への補給は海路よりもむしろ陸路が重要であり、本願寺への補給が途絶えたのはこの一戦が決め手ではない。
主張の問題点 編集
  • 本「研究」記事は、「特定の観点を推進」するために、小川雄『水軍と海賊の戦国史』の記述を文脈や意味を無視して乱用(引用)している。
  • 本「研究」記事は、「信頼性に乏しい情報源」「検証可能性に乏しい出典」が多い。
説明3その一 編集

本段落の「その一方で、」以降の文を分解すると下記の通りとなります。

  • A.「織田方が勝利、毛利の兵糧入れを阻止した」
  • B.という記述は信長公記以外に乏しく
  • C.毛利方の一次資料(毛利家文書)によれば毛利水軍は木津浦に着岸しており、下間頼廉と協議した上、織田方から寝返った荒木村重も加えて持久戦の体勢を整えた
  • C1.第一次木津川口の戦いのような一方的に蹂躙された敗戦に比べれば「勝利」と呼べる形にはなったものの、(見落としていたので追記)
  • C2.信長公記でも具体的な戦果には触れておらず(見落としていたので追記)
  • D.本願寺方から毛利方へ送られた兵糧搬入に対する謝辞の書状なども残っている
  • E.木津に毛利方水軍の拠点を作られている事
  • F.九鬼嘉隆が兵糧の欠乏に陥り、堺から当座の補給を受けている事(宮部文書)
  • G.九鬼氏が本拠からの輸送を雑賀衆や堀内氏善ら反信長勢力に妨害されている事などが窺え、本願寺への海上補給は継続し、完全封鎖とはならず、
  • H.本願寺への海上補給は継続し、完全封鎖とはならず、毛利方の圧倒的な優勢から織田・毛利の水軍勢力の拮抗程度に収まっており
  • I.織田方の「大本営発表」であるとの見方
  • J.本願寺への補給が途絶えるのはこの一戦が決め手となったというわけではなく
  • K.宇喜多氏の織田方への寝返りや別所長治・荒木村重ら反信長勢力の駆逐などによって、
  • L.毛利領から大阪湾へ続く陸路が制圧されていった結果、水軍衆の輸送業務が容易ではなくなり多大な負担となった
  • M.本拠から孤立しかねない状況になっていった事から
  • N.淡路島に在陣していた児玉就英が無断撤退するなどの要因 (分割すべきだったところを見落としていたので追記)

A~Iは、【主張1】に対応し、J~Nは【主張2】に対応します。

A~Iのうち【主張1】を直接構成しているのはA+B+Iであり、C~HはA+B+Iを説明するための要素として構成しています。

C→C1→C2→D→E→F→G→H → A+B+I

J~Nのうち【主張2】を直接構成しているのはJ+Lであり、KとMとNはJ+Lを説明するための要素として構成しています。

K→M→N → J+L

一方、小川雄著『水軍と海賊の戦国史』は第四章「海上戦闘の広域化・大規模化」を「毛利氏・三好氏の対決(P90~97)」、「織田氏・毛利氏の対決①~④(P97~118)」という5つの節で構成しており、本段落のテキストをまとめるに際しては「織田氏・毛利氏の対決②~③」の二つの節からその多くを引用しています。

「織田氏・毛利氏の対決②」は「織田水軍の西進」と題し、その文章は、

“第二次木津川口海戦の意義は、大阪湾(或いは木津川口周辺)の戦況が、毛利方の一方的優位から、織田・毛利両陣営の拮抗に移行したことにあったとみられる。”[11]

という結論に向かう文脈で展開されています。つまり、本段落のテキスト「H」はもともとは「織田氏・毛利氏の対決②」の結論だったという事になります。しかし、本段落においてHは、【主張1】のA+B+Iという結論に向かうための根拠の一つとしてCDEFGと共に再構成されています。

本来は、「H」という結論に向かう論拠として「ACD」が構成されていたわけですが、全ては分解され、新たに設定しなおした結論のために文脈や意味を変更して用いられているという事になります。

(…前半…)→A→C→C2→(…)→C1→(…)→D→(…) → ②の結論H が本来の文脈。

同様に「織田氏・毛利氏の対決③」を見ますと、これは「混迷する戦局」と題し、

(要約となりますが、)混迷を極めた石山合戦の果てに得た戦勝とその戦後処理が、かえって四国攻略を難しくしさらに果ては「明智の謀反」という結果に繋がったのではないかとする現代の明智研究に触れる[13]

という結論に向かう内容です。

その結論に向かう「混迷」を説明する文脈の中で、本段落の【主張1】の結論として利用されたIをはじめ同じくその要素とされていたEFGと【主張2】を構成するKMNを要素として構成した文章となっています。

(…)→E→(…)→I→(…)→F→G→(…)→N→(……)→K→(…)→M→(…後半…) → ③の結論Z が本来の文脈。

BとJとLについては、【主張1】と【主張2】という二つの「特定の観点」を完成させるために作られたオリジナルのテキストであり、これらA~Nのテキストを組み立てなおして、「特定の観点を推進」するために乱用している、という事を「研究」の項目で指摘させていただきました。

書きながらいろいろ調べて初めて知りましたけど、こういうのを「恣意的な引用」と言うそうですね。これだけ組み換えてしまうと、小川氏の著作を出典としたという事にはならず、新たな独自研究のために小川氏の著作を利用したという事が言えてしまいます。

--Kan8会話2022年3月21日 (月) 13:58 (UTC)返信

説明3その二 編集

後日追記します。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 「寅七月十七日堺の津へ着岸候し也見物驚耳目候し也翌日大坂表へ乘出し塞々々に舟を懸置海上之通路を止堅固仕候也」=『信長公記』引用[4]

出典 編集

  1. ^ 宇田川 1986, p. 128.
  2. ^ a b 池上 2012, p. 166.
  3. ^ a b c d e 宇田川 1986, p. 132.
  4. ^ 信長公記.
  5. ^ a b 『信長公記』.
  6. ^ 藤本 1993, p. 256.
  7. ^ 藤本 1993, p. 257.
  8. ^ 藤本 1993, p. 258.
  9. ^ 藤本 1993, p. 256-258.
  10. ^ a b c 池上 2012, p. 169.
  11. ^ a b 小川 2020, p. 108.
  12. ^ 小川 2020, p. 110.
  13. ^ 小川 2020, p. 113.

--Kan8会話2022年3月21日 (月) 04:18 (UTC)返信

原型を留めない程の大編集をしておきながら、ただただ自分の主張だけを長々と書き、自分が気に食わない出典や記述は全削除するという暴挙をいつになったら改めてもらえるんですかね。ここはあなたのメモ帳でもなければ独自研究発表の場ではないのです。まず、記述に異論があるのならば、ノートなどで「この記述はどこに書いてあるのか」とか「出典はなにか」などと投げかけて下さい。それを経ずに他人の編集をまるっと改変して、あなたの意見「だけ」を長々書くのは止めて下さい。他の編集者からも散々指摘されていますが、まずWikipediaのルールを「熟読」して下さい。ポテンシャル0会話2022年12月31日 (土) 11:52 (UTC)返信

あともう長々とわかりにくい「(独自)研究」を読まされるこっちの身にもなって下さい。
1つだけ私が編集に関わった部分で返しておくならば、
『信長公記』は織田水軍の圧勝を伝えているが、事実は大した戦果ではなく『信長公記』は単なる「大本営発表」である。
毛利から本願寺への補給は海路よりもむしろ陸路が重要であり、本願寺への補給が途絶えたのはこの一戦が決め手ではない。
こういう趣旨で編集をしているだろう、とあなたは書いているのですが、全くの解釈違いです。
私が出典としている「水軍と海賊の戦国史 」を本当に読まれたのでしょうか?
1・「大本営発表」という表現は「水軍と海賊の戦国史 」の著者である小川雄氏が著書の中で「例え」として出しているのを引用したまでで、当時はそんな言葉はないとかいう過去のあなたの指摘は筋違い。
2・「事実は大した戦果などではなく」そんな事は書いてありません。多くの後世の戦記物などでは、この海戦をもって大阪湾の完全封鎖に成功し、あたかも本願寺への兵糧搬入が全くできなくなったかのように描かれる事が多いが、実際は細々とではあるが、この海戦の後も兵糧搬入は海路から続いており、「ある程度の被害は第一次木津川口に比べれば毛利水軍に与えたが、事実よりも過大に戦果を盛られている可能性がある」というのが「水軍と海賊の戦国史 」の見解です。信長公記はその名の通り、「織田方」の資料ですから、織田が勝てば過大に宣伝するし、負ければ過小申告するというのはどこの大名家の資料にも傾向してよくある事です。なので毛利や本願寺側の資料とも照らし合わせた結果、という話です。あなたのように信長公記1本槍での主張ではないのです。
3・「本願寺への補給は海路よりもむしろ陸路が重要であり、本願寺への補給が途絶えたのはこの一戦が決め手ではない」
「海路より陸路が重要」などとはどこにも書いておりません。ただ、事実問題として、安全に毛利領~大坂本願寺の海路を輸送するには、陸地の味方から兵糧を補給したり、敵の迎撃を受けないというのが前提となっています。結果、毛利~本願寺ラインの陸路にある織田軍の敵対勢力が滅べば、補給も容易でなくなるし、毛利領~大坂本願寺の間に港や敵方水軍が存在しないわけはないのですから、敵襲リスクも増え、それまでのように容易に輸送ができなくなった(ゆえに孤立した淡路在陣の児玉氏も無断撤退を行った)という説明がされているはずです。
こちらはちゃんと「出典」(何ページというページ指定まで)しているわけですから、そこをきちんと読みもせず、解釈もせず、自分の考えと違うのでノートでの合議もなく、全部出典を消して、自分の独自解釈を載せてもいいだろう、私のほうが正しいのだから、というスタンスは本当にWikipediaの編集者として「向いていない」と思いますので、本当に繰り返しになりますが、他の方も散々指摘している「Wikipediaのルール」を「熟読」して下さい。細かい段落で何度も編集したり、一度に大幅に他編集者の記述を消したりというのは復旧が大変なのです。正直、そういう大幅な編集に関わるにはまだ数年基本を理解してもらわないと行けない「厄介なタイプの編集者」だという事をまず理解して下さい。--ポテンシャル0会話2023年1月2日 (月) 00:56 (UTC)返信
まずは確認なのですが、「大坂表の警固開始を天正6年9月30日以降とする研究」と「鉄甲船の寸法を修正する必要があるとする研究」に関する私からの指摘については、ポテンシャル0さんには異論は無いという事でよかったでしょうか?
以下、「本戦の戦果には意味が無かったとする研究」についての議論という事で、それぞれ返答させていただきます。
1.「当時はそんな言葉はないとかいう過去のあなたの指摘は筋違い」とのご指摘についてですが、「当時はそんな言葉はない」という事は一言も書いておりません。辞書の説明を根拠として「戦時下におけるニュースペーパーのようなドキュメントでなければ、大本営発表とは言いません。」と指摘させていただいております。また、信長公記は江戸時代に編まれた文献であり、つまりは、徳川家が天下を統一し織田家が力を完全に失った時勢において編まれたものであり、大本営発表のような意図を含めるメリットはなく、含まれていない事は明白だとも。
2.「「事実は大した戦果などではなく」そんな事は書いてありません。」とのご指摘についてですが、「事実は大した戦果などではなく」とは飽くまで要約の事であり、ポテンシャル0さんのまとめられたテキストは確かに「事実は大した戦果などではなく」というふうに読めます。というかそのようにしか読めません。このあたりの小川テキストの読み方について、ポテンシャル0さんは大きな誤解をされているか意図的に文脈を曲げるということをされているのかのどちらかなるという事を改めて指摘させていただきます。
小川本では、「第二次木津川口海戦の意義は(中略)毛利方の一方的優位から、織田・毛利両陣営の拮抗に移行したことにあったとみられる」という結論に向かう文脈で、貴方の引用されているさまざまなテキストを貴方とはほとんど異なった順序で組み立てています。
それに対して貴方の引用の方法は「毛利方の圧倒的な優勢から織田・毛利の水軍勢力の拮抗程度に収まっており」というテキストを、「織田方の大本営発表であるとの見方もある」という結論に向かうために用いております。
これを以って、「恣意的な引用」という事を指摘させていただいた次第でした。この際、悪意なのか無自覚なのかを問い詰めるような事はしませんのでご安心ください。
3.最初の段落は「恣意的な引用」という指摘についての説明とほぼほぼ重複しますので省きます。
「こちらはちゃんと「出典」(何ページというページ指定まで)しているわけですから、」についてですが、貴方は確かに一般書籍の何ページという事を出典として書き加えておられます。が、それのみでは「検証可能性」という条件を満たせない(或いは満たす事が非常に困難である)事をご理解ください。「第二次木津川口の戦い」に関連した資料として、小川本には確かに「宮部文書」「毛利家文書」などと書かれておりますが、その内容は明記されておらず、小川氏の主張そのものが正しいのかどうかが一般的に確かめられていないのが現状です。貴方がそれらのテキストをまるっと引用なさる以上、その検証可能性について、貴方自身がそのソースへのアクセス方法を示す必要があるんじゃないでしょうかね? それが貴方がたびたび仰っている文責という事だと思います。--Kan8会話2023年1月2日 (月) 15:59 (UTC)返信
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