ハインリヒ・フォン・フリートベルク

ハインリヒ・フォン・フリートベルクドイツ語: Heinrich von Friedberg, 1813年1月27日 - 1895年7月2日)は、プロイセンドイツの法律家政治家フリトベルクとも表記される。

ハインリヒ・フォン・フリートベルク
Heinrich von Friedberg
生年月日 1813年10月7日
出生地 西プロイセン
没年月日 (1895-07-02) 1895年7月2日(81歳没)
死没地 ベルリン
出身校 ベルリン大学
称号 プロイセン王国黒鷲勲章、ナイト
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生涯 編集

西プロイセンのマルキシュ・フリートラント(現ポーランドミロスワビエツ)に生まれた。ベルリン大学法学を学び、1836年に学位を取得してベルリンドイツ帝国高等裁判所ドイツ語版に勤めた。1950年にグライフスヴァルトの司法官となり、私講師として大学で教鞭もとった。1854年からはベルリンのプロイセン司法省に勤務。

1873年にはプロイセン貴族院議員及び司法省の事務次官となった。1875年にはプロイセン王室会計官(Kronsyndikus)となり、1876年にはドイツ帝国司法省長官(Reichsjustizminister)、1879年にプロイセン司法省長官となった。1888年にはナイトの称号を与えられ、プロイセン王国黒鷲勲章英語版を叙勲された。翌年1889年に引退し、1895年ベルリンで死去。

フリートベルクは職に就いてまもなくプロテスタントに改宗している。

職務上の文書 編集

  • 『処刑命令書手続法草案』 - 1885年3月23日にフリートベルクが起草したとされている。大日本帝国憲法の設置をすすめていた日本の司法省が1886年に翻訳。[1]

脚注 編集

関連項目 編集

参考文献 編集

ドイツ語
日本語

外部リンク 編集

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