ハンナ・パウリ(Hanna Pauli、結婚前の姓: Hirsch、1864年1月13日 - 1940年12月29日)はスウェーデンの画家である。写実的なスタイルの人物画を描いた。

ハンナ・パウリ
Hanna Pauli
夫のゲオルク・パウリによる肖像画(1896)
誕生日 (1864-01-13) 1864年1月13日
出生地 スウェーデン、ストックホルム
死没年 1940年12月29日(1940-12-29)(76歳没)
死没地 スウェーデン、ソルナ(Solna)
テンプレートを表示

略歴

編集

ストックホルムで、ユダヤ系で音楽出版社を営むアブラハム・ヒルシュ(Abraham Hirsch: 1815-1900)の娘に生まれた[1]アーギュスト・マルムストレムの画塾で学んだ後、スウェーデン王立美術院で学んだ。1885年から1887年の間は美術学校で知り合ったエヴァ・ボニエ(1857-1909)とともにパリで学び、ボニエとスタジオを共有した。パリの私立の美術学校、アカデミー・コラロッシで学び、フランスの画家、エドゥアール・マネジュール・バスティアン=ルパージュらの作品から影響を受けた。友人のフィンランド生まれの画家、ヴェニー・ゾルダン(Venny Soldan-Brofeldt: 1863-1945)の肖像画を描き1887年のパリのサロンに出展し、受理された。

1887 年にストックホルムに戻り、その年、イタリアに出自を持つ名門の一族の出身の画家のゲオルク・パウリ(Georg Pauli: 1855-1935)と結婚した[2] 。1905年に夫妻はストックホルムにAlbin Bragが設計した邸を所有し、スタジオを開いた。

1889年のパリ万国博覧会の展覧会にも出展し3等のメダルを受賞し、1893年のシカゴ万国博覧会にも出展した[3]

夫の勧めでモダニズム芸術を学ぶために 1913年にパリに再び滞在したが従来のスタイルで描き続けた。

1940年にストックホルム県のソルナ(Solna)で亡くなった。

作品

編集

脚注

編集
  1. ^ ”Cher Monsieur – Fatala Qvinna”. Judiska museet. 2009. Arkiverad från originalet den 26 november 2014. Läst 26 november 2014.
  2. ^ Hanna Pauli, Svenskt biografiskt lexikon, läs online.
  3. ^ Women's Art at the World's Columbian Fair & Exposition, Chicago 1893”. 2018年8月3日閲覧。

参考文献

編集
  • Peter H. Feist e.a.: Het Impressionisme (samenstelling Ingo F. Walther), Taschen, München, 2010. ISBN 9783836522908