フェ・アラ (満文:ᡶᡝᠠᠯᠠ, 転写:fe ala, 漢文:費阿拉)[注 1]は、建州女直酋長ヌルハチ (後の太祖) が初めて築いた居城。万暦15年1587に築成してから同31年1603に第二の居城ヘトゥ・アラへ移築されるまでの約15年間に亘って使われた。

ヘトゥ・アラが「興京老城」と呼ばれるのに対し、フェ・アラは「興京老城」とも呼ばれる。その城趾を実地調査した稻葉岩吉らにより当初は「二道河子舊老城」と呼ばれた。なお、満洲語「fe」は「旧い」、「ala」は「丘」の意で、「fe ala」は旧い丘の意。これは第二の居城ヘトゥ・アラ (横丘の意) に対する呼称とされる。

歴史

編集

祖父ギョチャンガを横死においやった真犯人ニカン・ワイランをついに追い詰めたヌルハチは、万暦15年1587春に自身初の居城を現在の二道河子村附近に築成させた。『清實錄』に拠れば、三層構造で、宮室があったという。その後ヌルハチは周辺諸部を次々と併呑し、同31年1603にはヘトゥ・アラに移築された。

踏査

編集

ヌルハチがフェ・アラを拠点としていた万暦23年1595旧暦8月、李氏朝鮮通事・河世國なる人物がフェ・アラを訪問し、同年11月に帰還した。その時の詳細な報告が『宣祖實錄』に収められている。[1]

さらに同年12月から翌24年1596正月にかけては、申忠一なる人物がフェ・アラを訪問し、こちらも詳細な報告が『宣祖實錄』にみられる。[2]申忠一の訪問記は『建州紀程圖錄』として伝わり、内容は概ね『實錄』と一致するが、一方で『實錄』中にはみられない内容や図録もみられる。

フェ・アラは康熙朝にはすでに遠い過去の話となっていたようで、清朝発祥の地は当時ですでにヘトゥ・アラと認識されていたため、地誌『盛京通志』においてもフェ・アラは築成年不明の城趾として扱われている。

そんなフェ・アラが再び注目を浴びたのは大日本帝国時代、稻葉岩吉らが申忠一の『建州紀程圖錄』をもとに実地調査を行ったことがきっかけであった。1939年には調査結果と『建州紀程圖錄』の原文を収めた『興京二道河子舊老城』が刊行された。

稻葉らは、将来の調査の指針となるようにと、個々の遺址遺構の細密な調査は避け、あくまでもフェ・アラ全体、すべての遺址遺構を満遍なく調査することに重点を置いたが、その後フェ・アラについてさらに細密な実地調査が行われることはなく、神田信夫が1987年になってフェ・アラなどの遼寧省の史蹟を踏査した頃でも、中国国内では依然として本格的な調査研究は行われていなかったという。

脚註

編集

典拠

編集
  1. ^ “宣祖28年1595 11月20日段61354”. 朝鮮王朝實錄. 69 
  2. ^ “宣祖29年1596 1月30日段61417”. 朝鮮王朝實錄. 71 

註釈

編集
  1. ^ 『滿洲老檔』には「fe ala i hoton」という記載もみえる。

文献

編集

実録

編集

中央研究院歴史語言研究所版 (1937年刊行)

  • 覚羅氏勒德洪『太祖高皇帝實錄』崇徳元年1636 (漢)
  • 編者不詳『滿洲實錄』乾隆46年1781 (漢)
    • 『ᠮᠠᠨᠵᡠ ᡳ ᠶᠠᡵᡤᡳᠶᠠᠨ ᡴᠣᠣᠯᡳmanju i yargiyan kooli』乾隆46年1781 (満) *今西春秋版
      • 今西春秋『満和蒙和対訳 満洲実録』刀水書房, 昭和13年1938
  • 宣宗昭敬大王實錄

地理書

編集
  • 董秉忠, 他『盛京通志』康熙23年1684 (漢)
  • 白鳥庫吉 監修, 松井等, 箭内亙, 稻葉岩吉 撰『滿洲歷史地理』巻2, 南満洲鉄道株式会社, 大正3年1914
  • 建国大学研究院『興京二道河子舊老城』昭和14年1939
  • 『明治大学人文科学研究所年報』1989, 神田 信夫「後金国の山城・都城の研究」
  • 『満族史研究』5, 2006, 承志, 杉山清彦「明末清初期マンジュ・フルン史蹟調査報告-2005年遼寧・吉林踏査行」