フセイン・オン
フセイン・ビン・ダトー・オン(1922年2月12日 - 1990年5月29日)は、マレーシアの第3代首相である。就任期間は、1976年から1981年である。UMNO創設者でもあるダトー・オンを父に持ち、ジョホールバルで生まれた。祖母がコーカサス地方出身であり、本人はユーラシアンである[要出典]。
フセイン・オン Hussein Onn | |
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生年月日 | 1922年2月12日 |
出生地 |
![]() (現 ![]() |
没年月日 | 1990年5月29日(68歳没) |
死没地 |
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出身校 | リンカーン法曹院 |
前職 | 公務員 |
現職 | マレーシア国際イスラム大学学長 |
所属政党 |
(統一マレー国民組織→) (マラヤ独立党→) (国民党→) (統一マレー国民組織→) 無所属 |
称号 | 英語版参照 |
配偶者 | スハイラ・ノア |
子女 | 子・ヒシャムディーン・フセイン |
親族 |
祖父・ジャアファル・ムハンマド(ジョホール州知事) 父・ダトー・オン(ジョホール州知事) |
在任期間 | 1976年1月15日 - 1981年7月16日 |
国王 |
ヤヒヤ・プトラ スルタン・アフマド・シャー |
在任期間 | 1973年8月13日 - 1976年1月15日 |
首相 | アブドゥル・ラザク |
在任期間 | 1978年 - 1980年 |
首相 | フセイン・オン |
在任期間 |
1976年 - 1978年 1979年 - 1981年 |
首相 | フセイン・オン |
在任期間 | 1974年 - 1976年 |
首相 | アブドゥル・ラザク |
その他の職歴 | |
![]() 通商産業大臣 (1973年8月13日 - 1974年9月14日) | |
![]() 教育大臣 (1970年 - 1973年) | |
![]() 代議院議員 (1971年2月20日 - 1974年7月31日 1974年11月4日 - 1981年7月16日) | |
![]() (1978年9月15日 - 1981年6月28日) |
政治家になるまで編集
初等教育をシンガポールで受け、ジョホール・バルの英語大学を卒業している。その後、1940年に、士官候補生としてジョホール軍に参加し、インド陸軍学校に派遣された。訓練が終えた後に、インド軍の一員として、第2次世界大戦が勃発していた中東に派遣されている。戦後、イギリスは、広範な経験を買って、ラワルピンディにあるマレー警察学校のインストラクターとして採用した。
1945年、マレーシアに戻るとジョホール・バル警察署署長に任命され、その翌年には、ジョホール州スガマッにあるMalaya Civil Serviceの管理職となる。後に、セランゴール、クラン、クアラルンプールに転任する。
政治家になる編集
ナショナリストとしての精神と政治的なルーツから、職を辞し、政治の世界に飛び込んだ。1949年、UMNOの青年部の最初の代表に就任し、UMNOを創設した父ダトー・オンを助けた。1950年、UMNOの書記長に選出された。しかし、1951年、UMNOを去り、マラヤ独立党を創設した父に従う。マラヤ独立党が勢力を失うと、ロンドンへ留学し、弁護士の資格を取る。その後、クアラルンプールへ戻り、弁護士業を開業した。
首相就任編集
1968年、政治の世界に戻った。後に首相になるアブドゥル・ラザクによる説得を受けてUMNOに再び参加した。1969年総選挙で議席を勝ち取り、教育大臣に任命された。その後も急進は続き、1973年、副首相に昇格した。1976年1月15日、ラザクの急死を受け、マレーシアの首相に就任した。
民族間の経済的なアンバランスを修正する政策を展開することで民族間の統合を強調することで高名である。たとえば、1978年にはマレー人優先主義の政敵を汚職を理由に刑務所に送り込むとともに、多民族の統一による国づくりを訴えた[1]。さらに1981年4月20日には、国民統合信託の枠組みを発布している。また、薬物に対しても厳しい取締りを実行している。
1981年、心臓手術を受け、7月17日、政治的活動と首相の辞任を発表した。マハティール・ビン・モハマドがそのあとを継いだ。
退任後編集
首相を辞任した後、福祉活動に大きな貢献をした。フセイン・オン眼科病院の創設に携わると同時に、マレーシア国営石油会社であるペトロナスのアドバイザーにもなっている。
1990年5月29日、サンフランシスコで亡くなる。68歳。クアラルンプールにあるMakam Pahlawanに埋葬された。
その他編集
- 2人の息子と4人の娘がいる。
- チェルケス人を祖先に持つ。
脚注編集
- ^ 民族統一訴え マレーシア首相『朝日新聞』1978年(昭和53年)9月1日、13版、7面