ベアトリクス・フォン・フランツィーン
ベアトリクス・フォン・フランツィーン(Beatrix von Franzien, 938年頃 - 1003年9月23日)、フランス語名はベアトリス・ド・フランス(Beatrice de France)もしくはベアトリス・ド・パリ(Beatrice de Paris)。フランス公ユーグ大公と妃エドヴィジュ・ド・サックスの娘。959年から978年までの、上ロートリンゲン公およびバル伯フリードリヒ1世妃。
ベアトリクス・フォン・フランツィーン Beatrix von Franzien | |
---|---|
上ロートリンゲン公妃 | |
在位 | 959年 – 978年5月18日 |
出生 |
938年 |
死去 |
1003年9月23日 |
配偶者 | 上ロートリンゲン公フリードリヒ1世 |
子女 |
ハインリヒ アダルベロン ディートリヒ1世 |
家名 | ロベール家 |
父親 | フランス公ユーグ大公 |
母親 | エドヴィジュ・ド・サックス |
役職 | 上ロートリンゲン公摂政 |
生い立ち
編集ネウストリア辺境伯・オルレアン伯・パリ伯(936年よりフランス公の称号を獲得[1])であったユーグ大公と3人目の妃であるドイツ王ハインリヒ1世の王女エドヴィジュ・ド・サックス(ドイツ語名:ハトヴィヒ・フォン・ザクセン)、神聖ローマ皇帝オットー1世の妹であることを修道僧ラウル・グラベルが年代記にて証明)の第一子で長女に当たる[2]。
ベアトリクスはフランス王ユーグ・カペー とブルゴーニュ公アンリ1世 の実姉であり、内祖父・内祖母は西フランス王ロベール1世[3]とベアトリス・ド・ヴェルマンドワ(ヴェルマンドワ伯エルベール1世の娘)[4]。内祖母ベアトリスを通してイタリア王ベルナルドの玄孫、カール大帝の来孫に当たる。
生涯
編集ベアトリクスの誕生時、フランス公であった父ユーグはフランスの最有力の貴族であったが、さらに自分の支配領を拡大しアキテーヌ公となった(ユーグは領主とはなったものの、本来ならば戦闘で征服する必要があったが、それができなかった)。[1]さらにユーグは死去する数週間前の956年に何とかブルゴーニュの統治権を手に入れ、ブルゴーニュ公となった。
951年、ベアトリクスは、ビドガウ伯ヴィゲリックの息子[5]上ロートリンゲン公フリードリヒ1世[6]と婚約した。ヴィゲリックは先祖は不明だが、単純王シャルル3世とともにロートリンゲン宮中伯となり、クネゴンダ伯[7]ともなった人物である。記録家のフロドアルドによると、メッツ司教アダルベロン1世の兄弟であるフリードリヒ1世とベアトリクスの結婚は954年の秋に行われたという[8]。
一方、年代記『ヴェルダンベスの司教を務めしローレンス(Laurentii Gesta Episcoporum Virdunensium invece)』では、2人の息子ディートリヒ1世について記録が残っており、母ベアトリクスはフランス王ユーグ・カペーの実姉として記録されており、父フリードリヒは高貴な上ロートリンゲン公とされている[9]。
最後に『トロワフォンテーヌ司教オーブリーの年代記(Chronica Albrici Monachi Trium Fontium)』においてもロートリンゲンのディートリヒ1世とメッツ司教アダルベロン2世の両親は、マース地方のベアトリクスとフリードリヒ1世であると記されている[10]。
10世紀の中頃、夫フリードリヒは、神聖ローマ皇帝オットー1世よりバル伯の称号を得て、ベアトリクスの持参金であった土地に城を建て、バルの町を中心とした領地を得た[11]。
そして、959年に夫フリードリヒは、ロートリンゲン公国を2領地(上ロートリンゲンと下ロートリンゲン)に分割したケルン大司教ブルーノによって、上ロタリンギアと呼ばれるロートリンゲン公国の南半分に封された。
978年、夫フリードリヒ1世が死去し、ベアトリスは未亡人として残された(『フルデンシス年代記(Annales Necrologiche Fuldenses)』による[12])。まだ若年であった三男のディートリヒが、母ベアトリクスの庇護下で、父の後を継いでバル伯とロレーヌ公の称号を得たことは、年代記『ヴェルダン司教により続けられし証書(le Gesta Episcoporum,Virdunensium,continuatio)』に間接的に確認されており、本書の中でベアトリクスは「最も高貴な公妃」と記されている[13]。
そのように1点目の理由に983年に神聖ローマ皇帝オットー2世が寄付を行った際、オットー2世は従姉に当たるベアトリクスの名を、甥メッツ司教テオドリック1世と共に記載しており、2点目の理由として984年に神聖ローマ皇帝オットー3世が寄付を行った際、亡夫のフリードリヒ1世と共に記載していることが挙げられる[14]。
上ロタリンギア公国摂政時代のベアトリクスは、国の運営に積極的に参加し[15]、ロートリンゲン公領を巡って争っていた西フランク王ロテールと神聖ローマ皇帝オットー3世の間を取り持ち(985年のヴェルダン攻防戦では実弟ユーグ・カペーと交渉し、負傷してフランス軍の捕虜となっていた息子ディートリヒを解放させた)、公国の運営に尽力した。987年、成年に達した息子ディートリヒは母の政治への影響力を懸念し、ベアトリクスは修道院に幽閉されたが、教皇ヨハネス15世の介入によって解放された。
ベアトリクスは、後に教皇シルウェステル2世となった有名な学者であり聖職者であるオーリヤックのジェルベールと連絡を取り合っていた。
子女
編集ベアトリクスは夫フリードリヒ1世との間に以下3子をもうけている[15]。
注意
編集- ^ a b Foundation for Medieval Genealogy : Re di Francia - HUGUES
- ^ Monumenta Germaniae Historica, Scriptores, tomus VII, Rodulfus Glaber Cluniacensis: Historiarum Sui Temporis Libri Quinque : liber I, 4 Qui postmodum Rome imperatores extiterint, Pag 54 Archived 2015年9月26日, at the Wayback Machine.
- ^ Cartulaire de l'Abbaye de Saint-Bertin: Cartolarium Sithiense, LXIX, Pag 136
- ^ Monumenta Germaniae Historica, Scriptores, tomus IX, Historia Francorum Senonensis, Pag 366 Archived 2014年2月21日, at the Wayback Machine.
- ^ La contea di Bidgau si estendeva sulle due rive della Mosella e comprendeva la città vescovile di Treviri e le abbazie di San Massimino, di Prüm e di Echternach
- ^ a b Foundation for Medieval Genealogy : Re capetingi - BEATRIX
- ^ #ES Foundation for Medieval Genealogy: DUKES of UPPER LOTHARINGIA - FREDERIC
- ^ Monumenta Germaniae Historica, Scriptores, tomus III, Flodoardi Annales, anno 954, Pag 402 Archived 2014年5月19日, at the Wayback Machine.
- ^ Monumenta Germaniae Historica, Scriptores, tomus X, Laurentii Gesta Episcoporum Virdunensium, Pag 492 Archived 2016年3月10日, at the Wayback Machine.
- ^ Monumenta Germaniae Historica, Scriptores, tomus XXIII, Chronica Albrici Monachi Trium Fontium, Pag 767 Archived 2015年10月1日, at the Wayback Machine.
- ^ Foundation for Medieval Genealogy : nobiltà lotaringia- FREDERIC
- ^ Monumenta germanica Historica, tomus XIII; Annales Necrologici Fuldenses, Pag 204 Archived 2015年10月6日, at the Wayback Machine.
- ^ Monumenta Germanica Historica, tomus IV, Gesta Episcoporum Virdunensium, continuatio, par. 5, pag. 47 Archived 2015年9月26日, at the Wayback Machine.
- ^ Monumenta Germaniae Historica, Diplomatum Regum et Imperatorum Romanum, tomus II, Kaiserkunde Otto III n° 2, Pag 396 Archived 2016年3月10日, at the Wayback Machine.
- ^ a b Foundation for Medieval Genealogy : nobiltà lotaringia- BEATRIX de France (FREDERIC)
- ^ Monumenta Germaniae Historica, Scriptores, tomus XXIII, Chronica Albrici Monachi Trium Fontium, Pag 772 Archived 2015年9月25日, at the Wayback Machine.
- ^ Monumenta Germaniae Historica, Scriptores, tomus IV, Chronicon S. Michaelis in Pago Virdunensi, Pag 82
参考文献
編集出典
編集- Monumenta Germaniae Historica, Diplomatum Regum et Imperatorum Romanum, tomus II.
- Monumenta Germaniae Historica, Scriptores, tomus X.
- Monumenta Germaniae Historica, Scriptores, tomus XXIII.
- Monumenta Germaniae Historica, Scriptores, tomus III.
- Monumenta Germaniae Historica, Scriptores, tomus VII.
- Monumenta Germaniae Historica, Scriptores, tomus IV.
- Monumenta Germaniae Historica, Scriptores, tomus XIII.
- Cartulaire de l'Abbaye de Saint-Bertin: Cartolarium Sithiense.
- Monumenta Germaniae Historica, Scriptores, tomus IX.
歴史文学
編集- ルイ・アルファン著、フランス:最後のカロリング帝国とユーグ・カペー(888-987)の台頭、「中世世界の歴史」、vol.II、1999年、pp. 635〜661
関連記事
編集その他のプロジェクト
編集- Wikimedia Commons 上の画像やその他のファイルが含まれる
- ベアトリス・ド・パリ(イタリア語版)
外部リンク
編集- (英語) Foundation for Medieval Genealogy : Re capetingi - BEATRIX, su fmg.ac.
- (英語) Foundation for Medieval Genealogy : nobiltà lotaringia- BEATRIX de France (FREDERIC), su fmg.ac.
- (英語) Genealogy: Capetingi - Beatrix, su genealogy.euweb.cz.
- (英語) Genealogy:, su genealogy.euweb.cz. URL consultato il luxemburg1 - Beatrix (Frederick I).