マリー・エレオノーレ・フォン・ブランデンブルク (1607-1675)

マリー・エレオノーレ・フォン・ブランデンブルクMarie Eleonore von Brandenburg, 1607年4月1日 - 1675年2月18日)は、ドイツブランデンブルク選帝侯家の公女で、プファルツ=ジンメルン=ラウテルンルートヴィヒ・フィリップの妻。

マリー・エレオノーレ・フォン・ブランデンブルク
Marie Eleonore von Brandenburg

称号 プファルツ=ジンメルン=ラウテルン公妃
出生 (1607-04-01) 1607年4月1日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
Flag of Brandenburg (1340-1657).svg ブランデンブルク選帝侯領ケルン
死去 (1675-02-18) 1675年2月18日(67歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
Banner of the Palatinate.svg プファルツ選帝侯領バート・クロイツナハ
埋葬 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
Banner of the Palatinate.svg プファルツ選帝侯領ジンメルン、ザンクト・シュテファン教区教会
配偶者 プファルツ=ジンメルン=ラウテルンルートヴィヒ・フィリップ
家名 ホーエンツォレルン家
父親 ブランデンブルク選帝侯ヨアヒム・フリードリヒ
母親 エレオノーレ・フォン・プロイセン
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生涯編集

ブランデンブルク選帝侯ヨアヒム・フリードリヒとその2番目の妻でプロイセンアルブレヒト・フリードリヒの娘であるエレオノーレの間の一人娘として生まれた。母は産後の肥立ちが悪く生後8日目に急死、老齢の父も翌1608年の年明けに死去したため、生後半年で孤児となった。叔父のブランデンブルク=バイロイト辺境伯クリスティアン(父の異母弟)と伯母のマリー(母の姉)の夫婦に引き取られて養育された[1]

1631年12月4日にベルリンの近郊ケルン(Cölln)において、プファルツ選帝侯フリードリヒ5世の弟ルートヴィヒ・フィリップと結婚した。夫は三十年戦争で家族とともに故国を追われ、長く亡命生活を送っていた。翌1632年にスウェーデン軍がプファルツ選帝侯領を一時的に皇帝軍から解放した際、エレオノーレは選帝侯領の摂政に任命された夫に従ってプファルツへ移った。ところが1634年にネルトリンゲンの戦いの後、皇帝軍が再びプファルツを占拠したため、夫妻はスダンへの亡命を余儀なくされた。夫妻は三十年戦争の終結とともに帰国した。

1655年にルートヴィヒ・フィリップが死ぬと、その甥のプファルツ選帝侯カール・ルートヴィヒが、エレオノーレの息子ルートヴィヒ・ハインリヒ・モーリッツの後見人になると宣言し、プファルツ=ジンメルン公領を占拠した。マリー・エレオノーレは甥孫のブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムに手紙を書き、自分の苦境を訴えて、自分をジンメルン公領の摂政に据えさせるよう頼み込んだ。神聖ローマ皇帝フェルディナント3世は1655年7月6日、エレオノーレをジンメルン公領の正統な摂政とする勅裁を下した[2]。エレオノーレは1658年に摂政を退き、息子に実権を委ねた。

1674年に息子が子供のないまま死去すると、ジンメルン公領は本家の選帝侯領に回収された。エレオノーレは本拠のカイザースラウテルンを退き、翌1675年に隠棲先のバート・クロイツナハで没した。遺骸はジンメルン(現在のドイツラインラント=プファルツ州ライン=フンスリュック郡)のザンクト・シュテファン教区教会(Stadtkirche St. Stephan)に葬られた。エレオノーレは神学者ヨハンネス・コッケイウスJohannes Coccejus)の後援者で2人の間には膨大な数の往復書簡が交わされている。

参考文献編集

  • Friedrich Bulau: Geheime Geschichten und räthselhafte Menschen: Sammlung verborgener oder vergessener Merkwürdigkeiten, Band 2, 1850, S. 192 ff.
  • Winfried Dotzauer: Geschichte des Nahe-Hunsrück-Raumes von den Anfängen bis zur Französischen Revolution, Franz Steiner Verlag, 2001, S. 319

脚注編集

  1. ^ Ernst Daniel Martin Kirchner: Die Churfürstinnen und Königinnen auf dem Throne der Hohenzollern, Wiegandt & Grieben, 1867, S. 173
  2. ^ Pauline Puppel: Die Regentin, Campus Verlag, 2004, S. 92

外部リンク編集