フリードリヒ5世 (プファルツ選帝侯)

フリードリヒ5世:Friedrich V., 1596年8月16日 - 1632年11月29日)は 、プファルツ選帝侯(在位:1610年 - 1623年)、ボヘミア王フリードリヒ1世チェコ語:Fridrich Falcký, 在位:1619年 - 1620年)。

フリードリヒ5世
Friedrich V.
プファルツ選帝侯
ボヘミア国王
フリードリヒは「冬王」とよばれるようにボヘミア王としての治世はきわめて短く、このように王冠を被りローブを身にまとった肖像は珍しい。妃がイングランド王女のためガーター勲章を授与されている。
在位 プファルツ選帝侯:1610年 - 1623年
ボヘミア王:1619年 - 1620年

出生 1596年8月16日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
プファルツ選帝侯領
オーバープファルツ
ヤークトシュロス
死去 (1632-11-29) 1632年11月29日(36歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
マインツ大司教領
マインツ
埋葬 不明
配偶者 エリザベス・ステュアート
子女 ハインリヒ・フリードリヒ
カール・ルートヴィヒ 
エリーザベト
ループレヒト
モーリッツ
ルイーゼ・マリア
ルートヴィヒ
エドゥアルト
ヘンリエッテ・マリー
フィリップ
シャルロッテ
ゾフィー
グスタフ・アドルフ
家名 プファルツ=ジンメルン家
父親 フリードリヒ4世
母親 ルイーゼ・ユリアナ・ファン・ナッサウ
サイン
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1618年プラハ窓外投擲事件に始まる三十年戦争では、ボヘミア等族議員によってボヘミア王に選ばれたが、1620年の白山の戦いハプスブルク家が勝利を収めると王位を失った。そのことから冬王と呼ばれる。

生涯 編集

1596年、現在のドイツオーバープファルツ、アンベルク近くのダイスシュヴァイクにあったヤークトシュロス(Jagdschloss)で生まれた。父はプファルツ選帝侯(ライン宮中伯)フリードリヒ4世、母はオランダ総督オラニエ公ウィレム1世シャルロット・ド・ブルボン=ヴァンドームの娘ルイーゼ・ユリアナである。1610年、父の死去によりプファルツ選帝侯を継承した。

1613年イングランドの王女エリザベス・ステュアート(ジェームズ1世の娘)と結婚した。この政略結婚は「ライン川テムズ川の合流」と祝福された。イギリスではフラシス・ベーコンがお祭りを主宰し、叔父にあたるオランダのオレンジ公マウリッツもイギリスからの帰路オランダにて祝福している[1]。但し後の30年戦争の際はジェームズ1世からの援助は十分に受けられなかった[2]

1619年にボヘミアのプロテスタントの貴族たちは、カトリック神聖ローマ皇帝、ハプスブルク家のフェルディナント2世を王位から排除すべく、フリードリヒ5世にボヘミア王即位を申し出た。フリードリヒ5世がプロテスタント同盟の有力なメンバーだったためである。またこの同盟は、フリードリヒ5世の父フリードリヒ4世が帝国におけるプロテスタントの擁護のために結成したものであった。

フリードリヒ5世は即位を受諾したが、同盟者たるべきプロテスタント同盟はフリードリヒ5世への軍事的支援に失敗、反対にフェルディナント2世はフリードリヒの族兄であるバイエルン公マクシミリアン1世を中心としたカトリック連盟を始めとする諸侯の支持を取り付け、スペイン軍がフリードリヒ5世の本拠であるプファルツに侵攻し占拠、ボヘミアの皇帝派貴族に反乱を起こさせ、準備を整えてからボヘミアへ出兵した。翌1620年11月8日の白山の戦いでボヘミア貴族連合軍はカトリック軍に敗北し、フリードリヒ5世のボヘミア王としての治世は終わった。

 
フリードリヒを"冬王"に叙した1619年の神聖ローマ帝国のパンフレット年代表示銘英語版。このパンフレットで最初に"冬王"という言葉が登場した。

皇帝側は、フリードリヒ5世は冬だけの王で終わると揶揄して、1619年の彼の即位直後から帝国のパンフレットに"冬王"を用いた。対するプロテスタント側は、フリードリヒは混乱からボヘミアを救った"冬のライオン"であると主張して対抗したが、プロテスタント側が敗北したため、"冬王"が定着した。

戦後、スペインは1621年にプファルツから撤退してオランダへ向かったが、フリードリヒはこの隙にプファルツ奪還を図り、傭兵隊長エルンスト・フォン・マンスフェルトクリスティアン・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルバーデン=ドゥルラハ辺境伯ゲオルク・フリードリヒらが挙兵したが、いずれもカトリック連盟司令官のティリー伯に打ち破られ、ティリーは1622年にプファルツを占拠、フリードリヒはオランダへ逃れた(叔父にあたるオレンジ公マウリッツを頼った[3])。

1623年、フリードリヒ5世の封地と選帝侯位を剥奪する勅令が公式に出され、それらは同族のマクシミリアン1世に与えられた。1630年に三十年戦争に介入したスウェーデングスタフ2世アドルフは、フリードリヒに戦線に復帰するよう要求したが、選帝侯であるフリードリヒは他国の王の指図を好まず、復帰を拒否した。

フリードリヒは余生のほとんどを妻や家族と共に亡命先のハーグで暮らし、1632年にマインツペストが要因で死去した[4]。36歳だった。

一説ではフリードリヒはグスタフ2世アドルフの死の報告を聞いてから間もなく昏倒したという。1648年ヴェストファーレン条約が締結されると次男のカール1世ルートヴィヒは新設の選帝侯としてドイツに戻り、マクシミリアン1世も選帝侯として認められた。

家族 編集

1613年2月14日、イングランドスコットランドの王ジェームズ1世アン王妃の娘エリザベスと、王室礼拝堂およびホワイトホール宮殿で結婚した。多くの子供をもうけたが、その半分以上が亡命時代に生まれた。 長男は早世し、次男以下の息子たちの子孫はカトリック教徒と結婚するか、自らカトリックへと改宗している。あるいは、庶子であったため元より継承権が無かった。娘たちもまた、比較的長命の者は嫁がず修道院に行き、嫁いだ者も子孫を残さず断絶した。結果、カトリックで無い子孫は末娘ゾフィーの子孫のみとなり、このことがゾフィーが現イギリス王位継承権者全員の共通先祖となる根拠となっている。

  1. ハインリヒ・フリードリヒ1614年 - 1629年) - 水死。
  2. カール1世ルートヴィヒ1617年 - 1680年) - プファルツ選帝侯。
  3. エリーザベト1618年 - 1680年) - ヘルフォルト女子修道院長デカルトとの書簡のやりとりで知られる。
  4. ループレヒト(ルパート、1619年 - 1682年) - カンバーランド公イングランド内戦で活躍。
  5. モーリッツ(モーリス、1620年 - 1652年) - イングランド内戦に参戦。
  6. ルイーゼ・マリア(ルイーゼ・ホランディーネ、1622年 - 1709年) - モビュイソン女子修道院長。
  7. ルートヴィヒ(1624年 - 1625年
  8. エドゥアルト1625年 - 1663年
  9. ヘンリエッテ・マリー1626年 - 1651年) - ラーコーツィ・ジグモンド伯爵と結婚。
  10. フィリップ1627年 - 1650年
  11. シャルロッテ(1628年 - 1631年
  12. ゾフィー1630年 - 1714年) - ハノーファー選帝侯エルンスト・アウグストと結婚。ハノーファー選帝侯およびハノーヴァー朝初代のイギリス国王ジョージ1世の母。
  13. グスタフ・アドルフ(1632年 - 1641年

脚注 編集

  1. ^ Friedrich V. (Pfalz)(ドイツ語版)
  2. ^ Elisabeth Stuart(ドイツ語版)
  3. ^ 野田又夫 (1966.7.20). デカルト. 岩波書店 
  4. ^ 菊池 1995、p. 129-130。

参考文献 編集

  • 菊池良生『戦うハプスブルク家 近代の序章としての三十年戦争』講談社講談社現代新書 1282〉、1995年12月。ISBN 978-4-06-149282-0 

関連項目 編集

先代
フリードリヒ4世
プファルツ選帝侯
1596年 - 1632年(1623年)
次代
マクシミリアン1世
カール1世ルートヴィヒ
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フェルディナント2世
ボヘミア王
1619年 - 1620年
次代
フェルディナント2世(復位)