マルクス・リウィウス・デンテル
マルクス・リウィウス・デンテル(ラテン語: Marcus Livius Denter、生没年不詳)は紀元前4世紀末の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前302年に執政官(コンスル)を務めた。
マルクス・リウィウス・デンテル M. Livius C.n. Denter | |
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出生 | 不明 |
死没 | 不明 |
出身階級 | プレブス |
氏族 | リウィウス氏族 |
官職 |
執政官(紀元前302年) 法務官代理(紀元前295年) |
出自
編集プレブス(平民)であるリウィウス氏族の出身。父のプラエノーメン(第一名、個人名)は不明だが、祖父はガイウスである。マルクスはリウィウス氏族としては最初の執政官である。
経歴
編集紀元前302年に執政官に就任。同僚執政官はパトリキ(貴族)のマルクス・アエミリウス・パウッルスであった[1]。この年、アエクイがローマに反乱した。しかし、両執政官は出征せず、ガイウス・ユニウス・ブブルクス・ブルトゥスが独裁官(ディクタトル)としてアエクイとの戦いを担当した[1]。
紀元前300年にオグルニウス法が成立し、それまでパトリキに限られていた神祇官(ポンティフ)職がプレブスに開放された。デンテルはプブリウス・デキウス・ムス、ガイウス・マルキウス・ルティルス・ケンソリヌス、プブリウス・センプロニウス・ソプスと共に、最初のプレブス・ポンティフに選ばれた[2]。
紀元前295年には執政官プブリウス・デキウス・ムスと共にサムニウム・ガリア・エトルリア連合軍との戦いに出征した。センティヌムの戦いでローマ軍は不利となったが、ムスは自身が「生贄となる」ことを決心し、デンテルに別離の言葉を復唱するよう命令し、続いて自身を犠牲にすることで自軍を敵に向かわせた[3]。この直前に、ムスはデンテルを法務官代理(プロプラエトル)に任じ、インペリウム(軍事指揮権)を与えている[4]。
脚注
編集参考資料
編集関連項目
編集公職 | ||
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先代 セルウィウス・コルネリウス・レントゥルス ルキウス・ゲヌキウス・アウェンティネンシス |
執政官 同僚:マルクス・アエミリウス・パウッルス 紀元前302年 |
次代 独裁官 マルクス・ウァレリウス・コルウス |