ミルザ・ダヴド・グセイノフ

ミルザ・ダヴド・バギル・オグルィ・グセイノフ(ヒュセイノフ)ロシア語: Мирза Давуд Багир оглы Гусейнов、現代アゼルバイジャン語: Mirzə Davud Bağır oğlu Hüseynov1894年3月 - 1938年4月21日)は、アゼルバイジャンの革命家・政治家。

ミルザ・ダヴド・バギル・オグルィ・グセイノフ
Мирза Давуд Багир оглы Гусейнов
Mirzə Davud Bağır oğlu Hüseynov
А. Г. Караев и М. Д. Гусейнов.jpg
1920年、アリゲイダル・カラエフ英語版とともに写るグセイノフ(左側)
生年月日 1894年3月
出生地 ロシア帝国の旗 ロシア帝国バクー県バクー郡バクー
没年月日 1938年4月21日
死没地 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
Flag of the Azerbaijan Soviet Socialist Republic (1937-1940).svg アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国、バクー
出身校 モスクワ商科学院(中退)
所属政党 ボリシェヴィキ
配偶者 タマラ
親族 ファタリ・ハン・ホイスキーロシア語版(義父)
ルギヤ・アジモヴァ(妹)

Flag of the Azerbaijan Soviet Socialist Republic (1920-1921).svg アゼルバイジャン共産党)中央委員会
幹部会議長
在任期間 1920年2月12日 - 7月23日

Flag of the Tajik Autonomous Soviet Socialist Republic (1929–1931).svg タジキスタン共産党(ボ)中央委員会
第一書記
在任期間 1930年2月 - 1933年12月25日

在任期間 1923年1月 - 7月

Flag of the Transcaucasian SFSR (1925-1936).svg ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国
人民委員会議副議長・財務人民委員
在任期間 1923年1月 - 1929年11月

Flag of Azerbaijan 1922.gif アゼルバイジャン社会主義ソビエト共和国
外務人民委員・高等経済会議議長
在任期間 1921年5月 - 1921年12月

その他の職歴
Flag of Azerbaijan 1924 (1).gif アゼルバイジャン社会主義ソビエト共和国
財務人民委員

(1920年4月28日 - 1921年5月
1925年 - 1925年[1]
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生涯編集

1894年3月、ロシア帝国バクー県バクームッラーの家庭に生まれた[2]1906年から1913年までバクー実科学校で学び、卒業後は[2]同年からモスクワ商科学院で学んだ[3]二月革命後に商科学院を中退して[3]バクーへ戻り、若者や学生の間でプロパガンダ活動を行った[2]。翌1918年11月にボリシェヴィキへ入党し、1919年3月から1920年までヒュンメト議長やボリシェヴィキ・カフカース地方委員会[3]軍事革命委員会英語版メンバーとして、アゼルバイジャン民主共和国ミュサヴァト党政権との戦いに備えた[2]

1920年2月に開催されたアゼルバイジャン共産党第1回大会で党中央委幹部会議長に選出され[2]、同月12日から7月23日までその地位にあった[3]アゼルバイジャン社会主義ソビエト共和国の成立後は同年4月から翌1921年5月まで革命委副議長、1920年10月から党中央委政治局員[4]、1920年4月28日から1921年5月まで財務人民委員、同月から11月まで外務人民委員および高等経済会議議長を歴任した[3]。1920年9月の東方諸民族大会においては宣伝・行動会議メンバーに選出されている[4]

1922年から1923年1月まではロシア共和国民族問題副人民委員を務め、同月からはザカフカース連邦共和国の外務人民委員を同年7月まで、人民委員会議副議長と財務人民委員を1929年11月まで務めた[3]全連邦共産党ザカフカース地方委とその幹部会メンバー、第14回ロシア語版第16回ロシア語版の連邦党大会出席者ともなり、1930年2月から1933年12月25日まではタジキスタン共産党中央委第一書記も務めたが[3]、やがてはヨシフ・スターリンに嫌われてロシア共和国教育人民委員部ロシア語版へ左遷され、翌1934年から1937年まで非ロシア人学校部部長を務めた[2]

1937年にグセイノフは逮捕され、翌1938年4月21日、バクーで[5]他のアゼルバイジャン共和国元高官(ルフッラ・アフンドフスルタン・メジド・エフェンディエフダダシュ・ブニアザーデら)と同じく銃殺刑に処された[4]。後に名誉回復ロシア語版がなされた[2]

親族編集

妹のルギヤ・アジモヴァはアゼルバイジャン共和国婦人会議の創始者の一人となった[6]。妻のタマラ・ホイスカヤは、アゼルバイジャン民主共和国の首相を務めたファタリ・ハン・ホイスキーロシア語版の娘であった[6]。「人民の敵ロシア語版」の娘と結婚したことはミルザ・ダヴドの粛清の一因にもなったが、ミルザ・ダヴドは最後までタマラと別れようとはしなかった[6]。夫の失脚後はタマラも逮捕され中央アジアへ流刑されたが、1956年に名誉回復され、1990年にバクーで死去した[6]

脚注編集

  1. ^ History”. The Ministry of Finance of the Republic of Azerbaijan. 2015年10月29日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g Гусейнов Мирза Давуд Багир оглы - председатель Азерб. РевКома (1920г.)”. Baku Pages. 2018年4月7日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g Гусейнов Мирза Давуд Багир оглы”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. 2018年4月7日閲覧。
  4. ^ a b c ГУСЕЙНОВ Мирза Давуд Багир оглы”. ЦентрАзия. 2018年4月7日閲覧。
  5. ^ AR Xarici İşlər Nazirləri (1918-ci ildən)”. Azərbaycan Respublikası Xarici İşlər Nazirliyi. 2015年10月29日閲覧。
  6. ^ a b c d Сулейманова Н. (2014年12月15日). “Прототип памятника Свободной женщине Ругия Азимова - в проекте Lady.Day.Az "Любовь и ЖЗЛ Азербайджана" - ФОТО”. Lady.Day.az. 2015年10月29日閲覧。
党職
先代:
なし
  アゼルバイジャン共産党(ボ)中央委員会幹部会議長
1920年2月12日 - 7月23日
次代:
ヴィクトル・ナネイシュヴィリ
責任書記
先代:
なし
  タジキスタン共産党(ボ)中央委員会第一書記
1930年2月 - 1933年12月25日
次代:
グリゴリー・ブロイド
公職
先代:
ナリマン・ナリマノフ
  アゼルバイジャン社会主義ソビエト共和国外務人民委員
1921年5月 - 1921年12月
次代:
なし
先代:
テヴァドロス・ミルザベキャン
  アゼルバイジャン社会主義ソビエト共和国財務人民委員
1925年 - 1925年
次代:
アリサッタル・イブラギモフ