メスドン=シュル=セーヴルMaisdon-sur-Sèvre)は、フランスペイ・ド・ラ・ロワール地域圏ロワール=アトランティック県コミューン

Maisdon-sur-Sèvre

行政
フランスの旗 フランス
地域圏 (Région) ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏
(département) ロワール=アトランティック県
(arrondissement) ナント郡
小郡 (canton) クリソン小郡
INSEEコード 44088
郵便番号 44690
市長任期 エイマール・リヴァラン
2014年 - 2020年
自治体間連合 (fr) fr:Communauté de communes de la vallée de Clisson
人口動態
人口 2809人
2012年
人口密度 161人/km2
住民の呼称 Maisdonnais
地理
座標 北緯47度05分53秒 西経1度23分02秒 / 北緯47.0980555556度 西経1.38388888889度 / 47.0980555556; -1.38388888889座標: 北緯47度05分53秒 西経1度23分02秒 / 北緯47.0980555556度 西経1.38388888889度 / 47.0980555556; -1.38388888889
標高 平均:m
最低:3m
最高:63m
面積 17.45km2
Maisdon-sur-Sèvreの位置(フランス内)
Maisdon-sur-Sèvre
Maisdon-sur-Sèvre
公式サイト http://www.valleedeclisson.fr/
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地理

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県におけるメスドン=シュル=セーヴルの位置

メスドン=シュル=セーヴルは、ヴィニョーブル・ナンテ地方に位置する。メーヌ川谷とセーヴル・ナンテーズ川谷の中間にあり、ナントの南東20km、クリソンの西8kmにある。

地質学的には、メスドン=シュル=セーヴルは花崗岩質が支配的なテロワールである。地名にもかかわらず、町はメーヌ川と1.5kmしか離れていないのに、セーヴル・ナンテーズ川とは5km離れている[1]

由来

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Maisdonは、かつてMaisdon, Maesdon, Maedonium(15世紀)とつづられた。ラテン語名doniumは、『高さ』を意味する。

歴史

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セーヴル・ナンテーズ川とメーヌ川に挟まれた位置から、コミューンの土地は新石器時代から人が定住していたことを、ここで発見された発掘物である斧、矢が証明している。バンボワール集落近くでは、ガロ=ローマ時代の墳丘墓跡が見つかっている[2]

ヴェルトゥ修道院に併合された小修道院は、11世紀に建てられている。メスドンはブルターニュとポワトゥーにまたがる辺境地帯の一部だった。

フランス革命後、この教区はヴァンデ戦争の影響を受けた。1791年、宣誓司祭が到着すると同時に最初の暴動が起きた。宣誓司祭は自分の教区民から追い出された。その後、1793年2月23日、国民公会が決めた国民皆兵法令である30万人募兵令で、地域の他の多くの小教区のようにメスドンは募集に応じなかった。同年3月10日、蜂起が始まった。カトリック王党軍のボンシャン侯爵配下の、リロ・ド・ラ・パトゥイレールが指揮したメスドン師団の存在がある[2]

革命時代とヴァンデ戦争の後、1794年に地獄部隊によって教会と200軒の住宅が焼かれてしまった。多くの民間人犠牲者が出たことが報告されている。

メスドン=シュル=セーヴルでは、いくつかの王党派の蜂起が決行された。1815年の蜂起はイギリス軍が指揮した。1828年と1832年の蜂起は、王位継承者シャンボール伯の母ベリー公爵夫人が主導した。ルイ・フィリップ王を廃位するため西部に人を動員しようとし、公爵夫人はナントで逮捕された。

19世紀は再建の時代だった。教会が修復され、町は徐々に再建されていった。1851年から1852年にかけ、コミューン庁舎と学校が建設された。19世紀終わりには、フィロキセラ流行でワイン生産が荒廃した(19世紀フランスのフィロキセラ禍[2]。ワイン生産が優勢だったこの町において、困難の時代だった。

人口統計

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1962年 1968年 1975年 1982年 1990年 1999年 2006年 2012年
1296 1284 1331 1637 1985 2054 2426 2809

source=1999年までLdh/EHESS/Cassini[3]、2004年以降INSEE[4][5]

経済

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メスドン=シュル=セーヴルでは現在もブドウ栽培が行われており、生産されるミュスカデはミュスカデ・セーヴル・エ・メーヌとしてAOC登録されている。

脚注

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