ユニオン号
ユニオン号(ユニオンごう)は、幕末に長州藩がイギリスから購入した日本の軍艦。
ユニオン号 | |
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基本情報 | |
建造所 | ロッテルヒーテ造船所 (イギリス) |
運用者 | 明治政府軍(薩摩藩) |
艦種 | 砲艦 |
艦歴 | |
進水 | 1854年 |
就役 |
1865年8月(旧暦)(日本に到着) 10月18日 (旧暦)(購入) |
退役 | 1866年6月17日 (旧暦) |
要目 | |
排水量 | 300トン |
全長 | 45m |
推進 |
3本マスト 蒸気エンジン 内車(スクリュー)推進 |
兵装 | 大砲(門数不明) |
船体は木鉄の混合 |
概要編集
全長45メートル、排水量300トンの木製蒸気船で、イギリスのロッテルヒーテ(ロザーハイズ、Rotherhithe)造船所で1854年に建造され、イギリスのP&O汽船 (P&O Cruises) の所有で中国の上海に係留されていた。長州藩が資金50,000両を出し、グラバー商会から薩摩藩の名義で1865年に購入、それを脱藩浪士の商社組織・亀山社中が操船するという「桜島丸協定」が結ばれて運用された。薩摩藩は「桜島丸」と名付けたが、長州藩では「乙丑丸」(いっちゅうまる)と呼んだ。
運用編集
1865年、最初に上海から来た時には、7300挺の銃を輸送した。
1866年4月28日 (旧暦)、薩摩藩からの要請に応えて長州からの兵糧500俵を積んで長崎を出航し、5月1日 (旧暦) に鹿児島に入港したが、幕府による第二次長州征伐が迫っており、薩摩は国難にある長州から兵糧は受け取れないと謝辞した為、長州へ引き返した。
6月16日 (旧暦) に下関に寄港したユニオン号は長州藩の求めにより下関海戦に参戦する事になり、6月17日 (旧暦) の小倉藩への渡海作戦に、坂本龍馬が指揮官、菅野覚兵衛が艦長、石田英吉が砲手長となって実戦に加わった[1][2]。龍馬はこの戦いについて戦況図付きの長文の手紙を兄・権平に書き送っている[3]。
その後、亀山社中から戦時の長州藩へ引き渡された。
艦長編集
脚注編集
参考文献編集
- 巖汀亭日乗 (2009年11月1日). “幕末(5)”. 日本IT書紀. 2009年11月12日閲覧。
- 日向羅雪 (2006年7月20日). “坂本 龍馬 in 長崎 龍馬と船”. 浅葱色の風 幕末を駆け抜けた武士達へ. 2010年1月3日閲覧。
- 司馬燦 (2010年7月12日). “薩長密約の契機となった、ユニオン号取引。ユニオン号についての情報をさぐると、”. ヒダリナナメ45度の竜馬伝. 2010年9月20日閲覧。