ユーグ1世 (ブロワ伯)
ブロワ伯ユーグ1世(フランス語:Hugues I, comte de Blois, 1198年ごろ - 1248年4月9日)[1]またはサン=ポル伯ユーグ5世(Hugues V, comte de Saint-Pol)は、サン=ポル伯(在位:1226年 - 1248年)、また妻の権利によりブロワ伯(在位:1230年 - 1248年)。
ユーグ5世(1世) Hugues V (I) | |
---|---|
サン=ポル伯 ブロワ伯 | |
在位 |
サン=ポル伯(5世):1226年 - 1248年 ブロワ伯(1世):1230年 - 1241年 |
出生 |
1198年ごろ |
死去 |
1248年4月9日 |
配偶者 | アニェス・ド・バル=ル=デュック |
ブロワ女伯マリー・ダヴェーヌ | |
マオー・ド・ギネ | |
子女 |
ジャン1世 ギー3世 ゴーシェ4世 ユーグ バジール |
家名 | シャティヨン家 |
父親 | サン=ポル伯ゴーシェ3世・ド・シャティヨン |
母親 | エリーザベト・ド・サン=ポル |
生涯
編集ユーグはゴーシェ3世・ド・シャティヨンとサン=ポル伯ユーグ4世の娘エリーザベトの息子である[1]。1216年に、ティボー1世・ド・バル=ル=デュックとエルメザンド・ド・バル=シュル=セーヌの娘アニェスと結婚したが、1225年までにアニェスは死去している[1]。
1226年、ゴーティエ2世・ダヴェーヌとブロワ女伯マルグリットの娘でブロワ女伯のマリーと結婚した[1]。2人の間には以下の5子が生まれた。
- ジャン1世(1280年没) - ブロワ伯[2]
- ギー3世(1289年没) - 1241年よりサン=ポル伯[2]
- ゴーシェ4世(1261年没) - シャティヨン、クレシーおよびクレヴェクールの領主[2]。息子はゴーシェ5世・ド・シャティヨン
- ユーグ(1255年没)[2]
- バジール(1280年没) - 1248年にノートルダム・デュ・ヴァル女子修道院長となる
マリーとの結婚により、ユーグはシャティヨン家で最初のブロワ伯となった。これは400年以上続いたブロワ家の終焉を意味した。1241年にマリーが死去した後、ユーグはギネ伯ボードゥアン3世の妹マオーと結婚した。
1226年、ユーグはクィイにシトー会のポン=オー=ダム女子修道院を創建した[3]。また、1232年にユーグはフィリップ・メクランジュの助けにより、トロワシーにシトー会のアムール=デュー(神の愛)女子修道院(フランス語版)を創建した[3]。
脚注
編集- ^ a b c d Evergates 2007, p. 223.
- ^ a b c d Evergates 2007, p. 254.
- ^ a b c Lester 2011, pp. 157–158.
参考文献
編集- Evergates, Theodore (2007). The Aristocracy in the County of Champagne, 1100-1300. University of Pennsylvania Press
- Lester, Anne E. (2011). Creating Cistercian Nuns: The Women's Religious Movement and Its Reform in Thirteenth Century Champagne. Cornell University Press
|
|
|
|
|