ヨアヒム=フリードリヒ・フート

ヨアヒム=フリードリヒ・フート(Joachim-Friedrich Huth、1896年7月31日 - 1962年3月27日)は、第一次世界大戦時にドイツ帝国陸軍航空隊第二次世界大戦時にドイツ国防軍の空軍、大戦後にドイツ連邦軍の空軍に務めた軍人である。フートは、1961年に中将の階級で軍役を退いた。

Joachim-Friedrich Huth
1896年7月31日 - 1962年3月27日
生誕 アンハルト公国ノイホフ(Neuhof)
死没 西ドイツの旗 西ドイツ ラインラント=プファルツ州
コブレンツ
軍歴 1914-18年(ドイツ帝国 陸軍)
1919-20年(ワイマール共和国 陸軍)
1934-45年(ドイツ空軍)
1956-61年(ドイツ連邦軍)
最終階級 予備役中尉(ドイツ帝国陸軍)
中将(ドイツ空軍)
中将(ドイツ連邦軍)
指揮 第26駆逐航空団(ドイツ空軍)
空軍南部軍集団(ドイツ連邦軍)
戦闘 西部戦線
勲章 ホーエンツォレルン家勲章
騎士鉄十字勲章
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履歴 編集

ヨアヒム=フリードリヒ・フートは1896年7月31日ノイホフ(Neuhof)で生まれ、第一次世界大戦が始まる直前の1914年7月13日ドイツ帝国陸軍に入隊した。フートは1915年1月4日に少尉に昇進し、第58歩兵連隊(Infanterie-Regiment Nr. 58)で小隊長と中隊長を務め、3度負傷した。1917年6月ドイツ帝国陸軍航空隊へ転属し、1918年1月28日には最初の撃墜を記録したが、2月23日には重傷を負い右の膝から下を失った[1]。フートは戦争期間中に2級1級の鉄十字章(1914)、剣付ホーエンツォレルン家勲章騎士十字章を授与された[1]

第一次世界大戦後、フート中尉はワイマール共和国 陸軍を退役した。ヴェルサイユ条約はドイツの軍事力に厳しい制限を設け、ドイツが空軍力を持つことを禁じた。アドルフ・ヒトラーの勢力が拡大し、ドイツ再軍備を果たすと1934年3月1日にフートは大尉の階級で再度軍役に就いた。フートは第26駆逐航空団 ホルスト・ヴェッセル戦闘航空団司令となり、1940年9月1日にはフランス侵攻バトル・オブ・ブリテンでの同航空団の見事な采配に対して騎士鉄十字勲章が授与された。1940年8月に国防軍軍報(Wehrmachtbericht)は、フートの航空団が51機の敵機を撃墜した件をフートの名前入りで報じた[2]

フート中将は、 1945年1月26日まで指揮官を務めた第I戦闘機軍団までの間[3]1942年から1944年にかけて様々な戦闘機部隊の指揮を執った。フートは英軍の捕虜となり、1946年に釈放された[1]

1956年にヨアヒム=フリードリヒ・フートは西ドイツの再軍備で設立されたドイツ連邦軍に少将の階級で入隊した[3]フュールステンフェルトブルックのドイツ空軍学校の指揮官となり、退役するまではカールスルーエの空軍南部軍集団(Luftwaffengruppe Süd)の指揮官を務めた。1961年9月30日にフートは中将の階級で盛大な式典(Großer Zapfenstreich)に送られて退役した[3]

ヨアヒム=フリードリヒ・フートは、その半年後の1962年3月27日コブレンツで死去した[1]

受勲 編集

国防軍軍報からの引用 編集

日付 国防軍軍報のオリジナル原稿 和訳(英訳から転訳)
1940年8月19日 月曜日 An mehreren Stellen entwickelten sich heftige Luftkämpfe, in deren Verlauf unsere Zerstörer und Jäger dem Feind schwere Verluste beibrachten. Das Zerstörergeschwader "Horst Wessel" unter der Führung seines Kommodore, Oberstleutnant Huth, schoß allein an diesem Tage 51 Flugzeuge ab.[2] 激しい空中戦が各所で発生している。我が軍の駆逐機と戦闘機は進出した所で敵に甚大な被害を及ぼした。フート中佐指揮下の駆逐航空団 ホルスト・ヴェッセルは本日だけで51機を撃墜した。

注釈 編集

de:Joachim-Friedrich Huth 5 August 2009版を参考。

出典
  1. ^ a b c d e f Obermaier 1989, p. 138.
  2. ^ a b Die Wehrmachtberichte 1939-1945 Band 1, p. 282.
  3. ^ a b c Geocities”. Joachim-Friedrich Huth. 2009年8月13日閲覧。
  4. ^ Scherzer 2007, p. 412.
  5. ^ Fellgiebel 2000, p. 239.
参考文献
  • Fellgiebel, Walther-Peer (2000). Die Träger des Ritterkreuzes des Eisernen Kreuzes 1939-1945. Friedburg, Germany: Podzun-Pallas. ISBN 3-7909-0284-5.
  • Obermaier, Ernst (1989). Die Ritterkreuzträger der Luftwaffe Jagdflieger 1939 - 1945 (in German). Mainz, Germany: Verlag Dieter Hoffmann. ISBN 3-87341-065-6.
  • Scherzer, Veit (2007). Ritterkreuzträger 1939 - 1945 Die Inhaber des Ritterkreuzes des Eisernen Kreuzes 1939 von Heer, Luftwaffe, Kriegsmarine, Waffen-SS, Volkssturm sowie mit Deutschland verbündeter Streitkräfte nach den Unterlagen des Bundesarchives (in German). Jena, Germany: Scherzers Miltaer-Verlag. ISBN 978-3-938845-17-2.
  • Die Wehrmachtberichte 1939-1945 Band 1, 1. September 1939 bis 31. Dezember 1941 (in German). München: Deutscher Taschenbuch Verlag GmbH & Co. KG, 1985. ISBN 3-423-05944-3.

外部リンク 編集

軍職
先代
クルト=ベルトラム・フォン・デーリング大佐
第26駆逐航空団 ホルスト・ヴェッセル 戦闘航空団司令
1939年12月14日 - 1940年11月1日
次代
ヨハン・シャルク大佐
先代
テオドール・オステルカンプ少将
第2航空兵指導官
1941年8月1日 - 1942年8月16日
次代
カール・ヴィーク中佐
先代
無し
第4戦闘機師団 師団長
1942年8月17日 - 1943年11月10日
次代
ヴェルナー・ユンク少将
先代
ハリー・フォン・ビューロウ=ボートカンプ大佐
第5戦闘機師団 師団長
1943年11月11日 - 1944年2月5日
次代
カール・ヘンチェル少将
先代
不明
第7戦闘機師団 師団長
1944年2月6日 - 1944年11月30日
次代
不明
先代
ヨーゼフ・シュミット中将
第I戦闘機軍団 軍団長
1944年11月30日 - 1945年1月26日
次代
廃止