ラウラ・マルティノッツィ

ラウラ・マルティノッツィLaura Martinozzi, 1639年5月27日 - 1687年7月19日)は モデナ及びレッジョ・エミリアアルフォンソ4世・デステの妃。彼の死後、長男フランチェスコ2世・デステの摂政を務めた。フランスの宰相ジュール・マザラン枢機卿の姪で、姉や従姉妹たち(ラウラマリーアオリンピアオルテンシアマリーア・アンナ)と共にマザリネットと呼ばれた。

ラウラ・マルティノッツィ
Laura Martinozzi
モデナ=レッジョ公
在位 1658年 - 1662年

出生 (1639-05-27) 1639年5月27日
教皇領ファーノ
死去 (1687-07-19) 1687年7月19日(48歳没)
教皇領ローマ
埋葬 モデナ=レッジョ公国モデナ、聖ヴィンチェンツォ教会、エステ礼拝堂
結婚 1655年5月27日
配偶者 モデナアルフォンソ4世・デステ
子女 フランチェスコ
マリーア・ベアトリーチェ
フランチェスコ2世
家名 マルティノッツィ家
父親 ファーノ方伯ジェローラモ・マルティノッツィ
母親 ラウラ・マルゲリータ・マッツァリーニ
テンプレートを表示

生涯 編集

ファーノ方伯ジェローラモ・マルティノッツィと、マザランの長姉ラウラ・マルゲリータ・マザリーニの次女として生まれた。姉にコンティ公アルマンの妃アンナ・マリーアがいる。マザランは姪達を婚姻によってヨーロッパの王侯貴族と結びつけ、政治的に高い地位に着こうとしていた。その伯父の影響でフランス宮廷に出入りするようになった。

1655年モデナ公及びエステ伯アルフォンソ4世と結婚した。彼との間に生まれた長女マリーア・ベアトリーチェ(メアリー・オブ・モデナ)は、イングランドジェームズ2世の妃である。

1687年、ローマで48歳で死亡。モデナの聖ヴィンチェンツォ教会のエステ礼拝堂に葬られた。

参考文献 編集

  • Alessandro Cont: “Sono nato principe libero, tale voglio conservarmi”. Francesco II d’Este (1660-1694) (= Memorie Scientifiche, Giuridiche, Letterarie. Folge 8, Band 12, Fasc. 2). Accademia Nazionale di Scienze Lettere e Arti di Modena, 2009, ISSN 1124-2493, S. 407–459 (online).