ルイ1世 (バル公)
ルイ1世(フランス語:Louis I, 1370/5年 - 1430年6月23日)は、15世紀フランスの司教、およびバル公(在位:1415年 - 1430年)。1420年以降、大甥ルネ・ダンジューの側近としてバル公領を支配した。
ルイ1世 Louis I | |
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バル公 | |
![]() 1429年のシャルル7世の戴冠式におけるバル公ルイ1世とロレーヌ公 | |
在位 | 1415年 - 1430年 |
出生 |
1370/5年 |
死去 |
1430年6月23日![]() |
家名 | スカルポン家 |
父親 | バル公ロベール1世 |
母親 | マリー・ド・フランス |
ルイ・ド・バル | |
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枢機卿 | |
司教区 | ヴェルダン |
聖職 | |
司教叙階 |
1419年 - 1423年 1424年 - 1430年 |
枢機卿任命 | 1391年 |
紋章 |
![]() |
生涯 編集
ルイはバル公ロベール1世とマリー・ド・フランスの息子である[1]。五男として、ルイは聖職に付くことが定められていた。ポワティエ司教(1391年 - 1395年、1391年より枢機卿にもなる)、ラングル司教(1397年 - 1413年)[2]、およびシャロン=シュル=マルヌ司教(1413年 - 1430年)を歴任した。また、ヴェルダン司教(1419年 - 1423年、1424年 - 1430年)も兼任した。
ルイは1407年にオルレアン公ルイののち、フランスの政界で重要な役割を果たした。1409年、ルイはランス大司教ギ・ド・ロアイユおよびカンブレー司教ピエール・ダイイとともにピサ教会会議に参加した。ジェーヌ近くのヴォルティにおいて、町長とランス大司教の対立は暴動に発展し、ランス大司教は殺害され、ルイは行方不明となり死去したとみられる。ピサを訪れた枢機卿らは、アヴィニョンの対立教皇ベネディクトゥス13世およびローマの教皇グレゴリウス12世を退位させようと企て、新たにアレクサンデル5世を選出し、教会大分裂を終わらせようとした。しかしそれどころか、ピサの教皇ヨハネス23世がコンスタンツ公会議(1414年 - 1418年)の開催を呼びかけるまで3人の教皇が並立することとなった。公会議ではローマのグレゴリウス12世およびピサのヨハネス23世をともに廃位し、アヴィニョンのベネディクトゥス13世を破門にし、新たにマルティヌス5世をローマ教皇に選出した。
兄エドゥアール3世が1415年にアジャンクールの戦いで戦死したため、ルイはバル公領を継承し、聖職者であるルイが公領を継承することに異議を唱える義弟ユーリヒ=ベルク公アドルフの主張を抑えることに成功した。1419年、数世紀にわたるバル公とロレーヌ公の不和に終止符を打つため、ルイは大甥ルネ・ダンジューとイザベル・ド・ロレーヌ(ロレーヌ公シャルル2世の娘で継承者)の結婚の交渉を行い、1420年代には2人にバル公領の統治を委ねた。
脚注 編集
- ^ Vaughan 2009, p. 264.
- ^ Vaughan 2009, p. 164.
参考文献 編集
- Vaughan, Richard (2009). Philip the Bold. The Boydell Press
- (フランス語) Georges Poull, La Maison souveraine et ducale de Bar, 1994
- (フランス語) D. De Smyttère, "Enfants du duc de Bar Robert et de la princesse Marie," in: (French) Mémoires de la Société des lettres, sciences et arts de Bar-le-Duc. deuxième série. Tome III. Bar-le-Duc: L. Philipona. (1884). pp. 307–326
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